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森の静寂は、ガラス細工のように繊細で、壊れやすいものだ。
ルシアンはその真理を、身を持って知ることになる。
その日、ルシアンは庭でハーブの手入れをしていた。
キースが作ってくれた花壇に、ミントやカモミールを植える。
土の感触と、緑の香り。
時折、屋根の上から聞こえるキースの作業音が、メトロノームのように心地よいリズムを刻んでいる。
(平和だわ……)
ルシアンは土に汚れた手を見つめ、幸福を噛み締めていた。
このまま、この穏やかな時間が永遠に続けばいい。
そう願った、その直後だった。
「おぉぉぉぉねぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁーーーッ!!!」
「ッ!?」
森の鳥たちが一斉に飛び立つほどの、超高周波の絶叫。
ルシアンはビクリと肩を跳ねさせ、持っていたスコップを取り落とした。
(な、なに!? 空襲!? 魔獣の断末魔!?)
慌てて振り返ると、森の入り口から、ピンク色に塗装された派手な馬車が暴走気味に突っ込んでくるところだった。
馬車が急停止し、砂埃が舞う。
扉が勢いよく開くと、そこから飛び出してきたのは――。
「会いたかったですわぁぁぁん!! ルシアンお姉様ぁぁぁ!!」
フリルの塊だった。
いや、よく見れば人間だ。
アラン王子の新しい婚約者、男爵令嬢ミナである。
彼女は舗装されていない地面などものともせず、猛ダッシュでルシアンに向かってくる。
「ひっ……!」
ルシアンは本能的な恐怖を感じ、後ずさった。
彼女が怖いのではない。
彼女が発する『音圧』と『圧迫感』が怖いのだ。
「止まって! ストップ! 結界発動!」
ルシアンは両手を前に出して制止を試みる。
だが、ミナは止まらない。
「照れないでくださいまし! 感動の再会ですのよ! さあ、ハグを! 友情のハグをぉぉぉ!」
「無理です! 泥だらけです! それに鼓膜が!」
距離があと五メートル、三メートル、一メートル――。
衝突(クラッシュ)は避けられない。
ルシアンが死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
ドスッ。
鈍い音がして、ミナの突進が止まった。
「……?」
恐る恐る目を開けると、目の前に黒い背中があった。
キースだ。
彼は屋根から飛び降り、ルシアンとミナの間に割って入ったのだ。
まるで城壁のように仁王立ちし、ミナの進路を物理的に塞いでいる。
「……な、なんですの貴方は!」
ミナがキースを見上げ、金切り声を上げる。
「どいてくださいまし! 私はお姉様と愛を確かめ合うのです!」
「…………」
キースは無言だ。
だが、その全身から放たれるオーラは、明らかに『敵意』そのものだった。
「ひぃっ!?」
ミナが一歩後ずさる。
続いて、馬車からゆっくりとアラン王子が降りてきた。
「おいミナ、どうしたのだ。……む? 誰だその薄汚い男は」
アランはハンカチで口元を覆いながら、蔑むような視線をキースに向けた。
「使用人か? ルシアン、落ちぶれたものだな。こんな無愛想な男しか雇えないとは」
ルシアンはキースの背中に隠れたまま、そっと顔だけ出した。
「……殿下、ミナ様。お引き取りください。ここは私有地です。そして現在は『静寂保護区』に指定されています」
「何を言っているんだ。我々はわざわざ、君を救済しに来てやったのだぞ!」
アランが大げさに両手を広げる。
「聞いたぞルシアン! 君は寂しさのあまり、灰を手紙に詰めるほど錯乱していると! その哀れな姿を見て、ミナがどうしても慰めたいと言うから、こうして来てやったのだ!」
「お姉様!」
ミナがキースの脇から顔を覗かせようとする。
「一人ぼっちで寂しいでしょう!? 夜は怖いでしょう!? 大丈夫です、私たちが『女子会』をして差し上げますわ! 朝まで恋バナしましょう!」
「結構です! 絶対にお断りです!」
ルシアンは耳を塞いだ。
恋バナ? 朝まで?
それは拷問以外の何物でもない。
「遠慮なさらないで! さあ、屋敷の中へ! お茶を淹れてくださいな! ドレスも持ってきましたのよ、ピンクのフリフリですわ!」
ミナが強引に突破しようとする。
その時。
ゴゴゴゴゴ……。
地面が揺れた――ような気がした。
「……ッ!?」
アランとミナが動きを止める。
音源は、キースだった。
彼は一言も発していない。
ただ、彼から溢れ出る『殺気』が、物理的な圧力となって周囲の空気を歪ませていたのだ。
森の鳥たちが鳴き止む。
風が止まる。
気温が急激に低下する。
「な、なんだ……!?」
アランが青ざめる。
キースがゆっくりと、一歩前に出た。
ジャリ……。
砂利を踏む音さえ、爆音のように響く。
彼はミナを見下ろし、次にアランを睨みつけた。
その瞳は、深淵のような漆黒。
「…………」
「ひっ、ひぃぃぃッ!!」
ミナが悲鳴を上げた。
「く、熊!? いえ、悪魔!? お姉様、後ろに悪魔が憑いていますわーーッ!!」
「き、貴様、何者だ! その殺気、ただの庭師ではないな!?」
アランも腰の剣に手をかけるが、手が震えて抜けない。
キースは口を開かなかった。
ただ、懐から一枚の板切れを取り出し、無造作に地面に突き刺した。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『猛獣注意(俺)』
「…………」
「…………」
アランとミナは、その看板と、キースの筋肉質な腕と、そして一切の感情がない瞳を交互に見た。
本能が警鐘を鳴らす。
『こいつに関わってはいけない』と。
「た、撤退だ! ミナ、逃げるぞ!」
「は、はいぃぃ! お姉様、ごめんなさいぃぃ! 悪魔祓い(エクソシスト)を呼んできますわぁぁぁ!!」
二人は転がるように馬車へ逃げ込んだ。
「出せ! 急いで出せ!」
御者が鞭を振るい、ピンク色の馬車は来た時以上の猛スピードで森の出口へと爆走していく。
ガタガタガタッ……シーン。
馬車の音が完全に消えるまで、体感で五分。
ルシアンはようやく、耳から手を離した。
「……助かった……」
へなへなと地面に座り込む。
嵐のような時間だった。
あと数分続いていたら、ストレスで胃に穴が開いていたかもしれない。
目の前には、まだ仁王立ちしているキースの背中がある。
「あの、キースさん?」
ルシアンが声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
殺気は消えている。
いつもの、無表情で無口な隣人に戻っていた。
「……行ったか」
「はい、おかげさまで。……凄かったです、今の。魔法か何かですか?」
「……ただの威嚇だ」
「威嚇で人を追い払えるなんて、貴方、本当に人間ですか?」
キースは肩をすくめた。
そして、しゃがみ込んでルシアンに視線を合わせる。
「……大丈夫か」
「え?」
「……顔色が悪い」
ルシアンは自分の頬に触れた。
確かに、血の気が引いている気がする。
「ええ、少し……。騒音に酔ったみたいです。あの方たちの声、頭に響くので」
「……耳栓、作るか?」
「いえ、そこまでは……」
キースは少し考え込み、そして不意にルシアンの頭に手を伸ばした。
(わっ、叩かれる?)
ルシアンが身構えると、大きくゴツゴツした掌が、ふわりと彼女の頭に乗せられた。
そして、ポン、ポンと二回。
不器用なリズムで撫でられた。
「…………」
「…………」
「……よく耐えた」
それだけ言うと、キースはサッと立ち上がり、また屋根の上へと戻っていってしまった。
残されたルシアンは、頭を押さえて呆然とする。
「……子供扱い?」
悪役令嬢と呼ばれた自分が、頭を撫でられるなんて。
屈辱的だ。
そう思うべきなのに。
(……温かかった、かも)
ルシアンの顔が、ほんのりと熱を持つ。
さっきまでの不快な騒音の記憶が、掌の温もりで上書きされていくようだった。
「……次は、お茶くらい出してあげてもいいかしら」
ルシアンは小さく呟き、立ち上がった。
一方、屋根の上。
キースは瓦の裏で顔を覆い、悶絶していた。
(触ってしまった……! 勢いで触ってしまった……! 髪、サラサラだった……!)
『沈黙の騎士』の心拍数は、騒音レベルMAXに達していたが、それを知る者は誰もいない。
ルシアンはその真理を、身を持って知ることになる。
その日、ルシアンは庭でハーブの手入れをしていた。
キースが作ってくれた花壇に、ミントやカモミールを植える。
土の感触と、緑の香り。
時折、屋根の上から聞こえるキースの作業音が、メトロノームのように心地よいリズムを刻んでいる。
(平和だわ……)
ルシアンは土に汚れた手を見つめ、幸福を噛み締めていた。
このまま、この穏やかな時間が永遠に続けばいい。
そう願った、その直後だった。
「おぉぉぉぉねぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁーーーッ!!!」
「ッ!?」
森の鳥たちが一斉に飛び立つほどの、超高周波の絶叫。
ルシアンはビクリと肩を跳ねさせ、持っていたスコップを取り落とした。
(な、なに!? 空襲!? 魔獣の断末魔!?)
慌てて振り返ると、森の入り口から、ピンク色に塗装された派手な馬車が暴走気味に突っ込んでくるところだった。
馬車が急停止し、砂埃が舞う。
扉が勢いよく開くと、そこから飛び出してきたのは――。
「会いたかったですわぁぁぁん!! ルシアンお姉様ぁぁぁ!!」
フリルの塊だった。
いや、よく見れば人間だ。
アラン王子の新しい婚約者、男爵令嬢ミナである。
彼女は舗装されていない地面などものともせず、猛ダッシュでルシアンに向かってくる。
「ひっ……!」
ルシアンは本能的な恐怖を感じ、後ずさった。
彼女が怖いのではない。
彼女が発する『音圧』と『圧迫感』が怖いのだ。
「止まって! ストップ! 結界発動!」
ルシアンは両手を前に出して制止を試みる。
だが、ミナは止まらない。
「照れないでくださいまし! 感動の再会ですのよ! さあ、ハグを! 友情のハグをぉぉぉ!」
「無理です! 泥だらけです! それに鼓膜が!」
距離があと五メートル、三メートル、一メートル――。
衝突(クラッシュ)は避けられない。
ルシアンが死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
ドスッ。
鈍い音がして、ミナの突進が止まった。
「……?」
恐る恐る目を開けると、目の前に黒い背中があった。
キースだ。
彼は屋根から飛び降り、ルシアンとミナの間に割って入ったのだ。
まるで城壁のように仁王立ちし、ミナの進路を物理的に塞いでいる。
「……な、なんですの貴方は!」
ミナがキースを見上げ、金切り声を上げる。
「どいてくださいまし! 私はお姉様と愛を確かめ合うのです!」
「…………」
キースは無言だ。
だが、その全身から放たれるオーラは、明らかに『敵意』そのものだった。
「ひぃっ!?」
ミナが一歩後ずさる。
続いて、馬車からゆっくりとアラン王子が降りてきた。
「おいミナ、どうしたのだ。……む? 誰だその薄汚い男は」
アランはハンカチで口元を覆いながら、蔑むような視線をキースに向けた。
「使用人か? ルシアン、落ちぶれたものだな。こんな無愛想な男しか雇えないとは」
ルシアンはキースの背中に隠れたまま、そっと顔だけ出した。
「……殿下、ミナ様。お引き取りください。ここは私有地です。そして現在は『静寂保護区』に指定されています」
「何を言っているんだ。我々はわざわざ、君を救済しに来てやったのだぞ!」
アランが大げさに両手を広げる。
「聞いたぞルシアン! 君は寂しさのあまり、灰を手紙に詰めるほど錯乱していると! その哀れな姿を見て、ミナがどうしても慰めたいと言うから、こうして来てやったのだ!」
「お姉様!」
ミナがキースの脇から顔を覗かせようとする。
「一人ぼっちで寂しいでしょう!? 夜は怖いでしょう!? 大丈夫です、私たちが『女子会』をして差し上げますわ! 朝まで恋バナしましょう!」
「結構です! 絶対にお断りです!」
ルシアンは耳を塞いだ。
恋バナ? 朝まで?
それは拷問以外の何物でもない。
「遠慮なさらないで! さあ、屋敷の中へ! お茶を淹れてくださいな! ドレスも持ってきましたのよ、ピンクのフリフリですわ!」
ミナが強引に突破しようとする。
その時。
ゴゴゴゴゴ……。
地面が揺れた――ような気がした。
「……ッ!?」
アランとミナが動きを止める。
音源は、キースだった。
彼は一言も発していない。
ただ、彼から溢れ出る『殺気』が、物理的な圧力となって周囲の空気を歪ませていたのだ。
森の鳥たちが鳴き止む。
風が止まる。
気温が急激に低下する。
「な、なんだ……!?」
アランが青ざめる。
キースがゆっくりと、一歩前に出た。
ジャリ……。
砂利を踏む音さえ、爆音のように響く。
彼はミナを見下ろし、次にアランを睨みつけた。
その瞳は、深淵のような漆黒。
「…………」
「ひっ、ひぃぃぃッ!!」
ミナが悲鳴を上げた。
「く、熊!? いえ、悪魔!? お姉様、後ろに悪魔が憑いていますわーーッ!!」
「き、貴様、何者だ! その殺気、ただの庭師ではないな!?」
アランも腰の剣に手をかけるが、手が震えて抜けない。
キースは口を開かなかった。
ただ、懐から一枚の板切れを取り出し、無造作に地面に突き刺した。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『猛獣注意(俺)』
「…………」
「…………」
アランとミナは、その看板と、キースの筋肉質な腕と、そして一切の感情がない瞳を交互に見た。
本能が警鐘を鳴らす。
『こいつに関わってはいけない』と。
「た、撤退だ! ミナ、逃げるぞ!」
「は、はいぃぃ! お姉様、ごめんなさいぃぃ! 悪魔祓い(エクソシスト)を呼んできますわぁぁぁ!!」
二人は転がるように馬車へ逃げ込んだ。
「出せ! 急いで出せ!」
御者が鞭を振るい、ピンク色の馬車は来た時以上の猛スピードで森の出口へと爆走していく。
ガタガタガタッ……シーン。
馬車の音が完全に消えるまで、体感で五分。
ルシアンはようやく、耳から手を離した。
「……助かった……」
へなへなと地面に座り込む。
嵐のような時間だった。
あと数分続いていたら、ストレスで胃に穴が開いていたかもしれない。
目の前には、まだ仁王立ちしているキースの背中がある。
「あの、キースさん?」
ルシアンが声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
殺気は消えている。
いつもの、無表情で無口な隣人に戻っていた。
「……行ったか」
「はい、おかげさまで。……凄かったです、今の。魔法か何かですか?」
「……ただの威嚇だ」
「威嚇で人を追い払えるなんて、貴方、本当に人間ですか?」
キースは肩をすくめた。
そして、しゃがみ込んでルシアンに視線を合わせる。
「……大丈夫か」
「え?」
「……顔色が悪い」
ルシアンは自分の頬に触れた。
確かに、血の気が引いている気がする。
「ええ、少し……。騒音に酔ったみたいです。あの方たちの声、頭に響くので」
「……耳栓、作るか?」
「いえ、そこまでは……」
キースは少し考え込み、そして不意にルシアンの頭に手を伸ばした。
(わっ、叩かれる?)
ルシアンが身構えると、大きくゴツゴツした掌が、ふわりと彼女の頭に乗せられた。
そして、ポン、ポンと二回。
不器用なリズムで撫でられた。
「…………」
「…………」
「……よく耐えた」
それだけ言うと、キースはサッと立ち上がり、また屋根の上へと戻っていってしまった。
残されたルシアンは、頭を押さえて呆然とする。
「……子供扱い?」
悪役令嬢と呼ばれた自分が、頭を撫でられるなんて。
屈辱的だ。
そう思うべきなのに。
(……温かかった、かも)
ルシアンの顔が、ほんのりと熱を持つ。
さっきまでの不快な騒音の記憶が、掌の温もりで上書きされていくようだった。
「……次は、お茶くらい出してあげてもいいかしら」
ルシアンは小さく呟き、立ち上がった。
一方、屋根の上。
キースは瓦の裏で顔を覆い、悶絶していた。
(触ってしまった……! 勢いで触ってしまった……! 髪、サラサラだった……!)
『沈黙の騎士』の心拍数は、騒音レベルMAXに達していたが、それを知る者は誰もいない。
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