婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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森の奥深くにある廃墟(現在は快適なログハウス風別荘)に、平和な午後が訪れていた。

ルシアンはテラスのロッキングチェアに揺られながら、膝の上の本に視線を落とす。

傍らには、キースが淹れたハーブティー。

鳥のさえずりと、風の音。

そして、屋根の上でキースが雨樋を調整する微かな金属音。

(……最高ね)

ルシアンは目を細めた。

先日の『アラン&ミナ襲来事件』という悪夢のような騒音が嘘のようだ。

あの後、二人が二度と来ないように、キースは森の入り口に『落石注意』『熊出没』『毒蛇の巣』という看板を立ててくれたらしい。

その徹底ぶりには感謝しかない。

だが、ルシアンの平穏を脅かすものは、物理的な訪問者だけではなかった。

ガタゴト、ガタゴト。

聞き覚えのある馬車の音が近づいてくる。

「……また?」

ルシアンが警戒して身を起こすと、屋根の上からキースが顔を出した。

「……あれは、味方だ」

「味方?」

「……使用人」

現れたのは、あの日ルシアンをここまで送り届けた御者のハンスだった。

彼は馬車から飛び降りると、涙を流しながら駆け寄ってきた。

「お嬢様ぁぁぁ! ご無事でしたかぁぁぁ! ハンスは、ハンスは心配で夜も八時間しか眠れませんでしたぁぁぁ!」

「……十分寝ていますね、ハンス」

ルシアンは冷静に突っ込んだ。

「約束通り、一ヶ月分の食料と生活用品を持ってきました! ……って、あれ?」

ハンスは屋敷を見上げ、呆気にとられた顔をした。

「こ、ここは……本当にあの廃墟ですか? 壁が白い……窓がピカピカ……庭に花が咲いている……?」

「ええ、まあ。優秀な管理人がいますので」

ルシアンが屋根の上を指差すと、キースが無言でペコリと頭を下げた。

ハンスは「ひぃっ!?」とのけぞったが、すぐに気を取り直した。

「そ、そうですか。それは良かった……。ですがお嬢様、それどころではありません! 王都が大変なことになっているのです!」

「王都? またアラン殿下が何か?」

「違います! お嬢様の『評判』ですよ!」

ハンスは興奮気味に、鞄から数冊の週刊誌と新聞を取り出した。

「ご覧ください! 社交界は今、お嬢様の話題で持ち切りなのです!」

ルシアンは嫌な予感しかしないまま、新聞を受け取った。

一面トップには、デカデカとこう書かれていた。

『真実は沈黙の中にあり! 公爵令嬢ルシアン、元婚約者の暴挙を無言で断罪!』

「……は?」

「読んでください、ここです!」

ハンスが記事を指差す。

『先日、アラン殿下とミナ男爵令嬢が、療養中のルシアン嬢を訪問した件について、驚くべき証言が得られた。殿下らは「慰めに行った」と主張しているが、実態は執拗な嫌がらせであった可能性が高い。しかし、ルシアン嬢は罵詈雑言に対し、一言も言い返すことなく、ただ静寂を保ち続けたという』

ルシアンは眉をひそめた。

「……まあ、事実はその通りですけど」

言い返さなかったのは、面倒だったからだ。

記事は続く。

『その沈黙は、決して弱さではない。それは「貴方たちと同じ土俵には立たない」という、高潔なる貴族の矜持である! 嵐のような罵倒を柳のように受け流し、最後にはその気高さに圧倒された殿下たちが、恐れをなして逃げ帰ったとのことだ』

「……逃げ帰ったのは、キースの殺気にビビったからですが」

『まさに「氷の令嬢」の真骨頂。多くを語らず、背中で語るその姿に、社交界からは称賛の声が上がっている。「彼女こそ真の貴族だ」「沈黙は金、雄弁は銀という言葉を体現している」――今、ルシアン・ヴァイオレット株がストップ高だ!』

バサッ。

ルシアンは新聞を取り落とした。

「……な、なんなのこれ……」

「凄いでしょうお嬢様!」

ハンスが鼻息荒く語る。

「殿下たちが帰還後、『森で恐ろしい目に遭った! ルシアンは呪われている!』と触れ回ったのが逆効果だったのです! 人々は『か弱い令嬢一人に怯えるとは情けない』と殿下を笑い、逆に堂々としていた(らしい)お嬢様を評価したのです!」

「まって。堂々としていたわけじゃないわ。ただ耳を塞いでいただけよ」

「それが『聞く価値なし』という究極の侮辱(ポーズ)として解釈されたのです!」

「誤解だわ! 盛大な誤解よ!」

ルシアンは頭を抱えた。

彼女の望みは『忘れ去られること』だ。

「あの人はもう過去の人」「森でひっそり野垂れ死んだらしい」と思われてこそ、真の自由が得られるのだ。

それなのに、なぜか『孤高の聖女』みたいな扱いになっている。これでは、また面倒な連中が様子を見に来てしまうではないか。

「……迷惑だわ」

「なぜですか! これでお父上も鼻が高いと仰っておりましたぞ! 『やはり我が娘だ、無言の圧力に関しては天才的だ』と!」

「褒められていない気がします……」

その時、背後からスッと手が伸び、落ちた新聞を拾い上げた。

キースだ。

彼は真剣な眼差しで記事を読み込み、フム、と頷いた。

「……悪くない」

「どこがですか! 私の隠遁計画が台無しです!」

「……真実は、伝わる」

キースは記事の隅にある、小さなコラムを指差した。

そこには『森の守護者? 令嬢を守る謎の影』という見出しがあった。

『目撃者(御者)によると、ルシアン嬢の背後には、黒き衣を纏った大男が立っていたという。彼は一言も発さず、ただ殿下たちを睨みつけただけで退散させた。あれは森の精霊か、あるいはルシアン嬢の忠誠なる守護騎士か――』

「……俺だ」

「知っています。貴方以外に誰がいるのですか」

キースは満足げに口角を上げた。

「……守護騎士。……いい響きだ」

「喜んでいる場合ですか! 貴方の存在までバレかけていますよ!」

「……問題ない」

キースは新聞を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。

「……俺の正体は、誰も知らない。……ただの『噂』として流布させておいた」

「流布させた?」

ルシアンはハッとした。

「まさか、この記事……貴方が?」

キースは答えなかった。

だが、彼が時折、森から姿を消していたことを思い出す。

まさか王都に行って、情報操作をしていたのではあるまいか。

アランたちに有利な噂が流れるのを防ぐために、先手を打って『ルシアン称賛記事』を書かせた?

「……キースさん」

「……なんだ」

「貴方、私のために……?」

キースはそっぽを向いた。

「……静かな生活を守るには、世論を味方につけるのが一番だ」

「それは……そうですけれど」

「……『気高い令嬢』というイメージが定着すれば、軽々しく手出しできなくなる。……アランのような馬鹿は特にな」

論理的だ。

確かに、「惨めな追放令嬢」だと思われれば、面白がって揶揄いに来る輩がいるかもしれない。

だが、「手出し無用の孤高の存在」になれば、遠巻きに崇められるだけで済む。

(……考えてくれているのね)

ルシアンは溜息をつきつつも、胸の奥が少し温かくなった。

この不器用な隣人は、彼なりに彼女の『おひとり様』を守ろうと必死なのだ。

方向性は少々おかしいが。

「……ありがとうございます。でも、これ以上目立つのは困りますから、ほどほどにお願いしますね」

「……善処する」

「お嬢様、このハンスも微力ながら協力しますぞ!」

ハンスが割り込む。

「街で『お嬢様は森で仙人のような修行をしている』と広めておきます!」

「やめてハンス。仙人は嫌」

「では『森の魔女』で!」

「もっと嫌です」

そんなやり取りをしていると、キースが持ってきた籠から林檎を一つ取り出し、ハンスに投げ渡した。

「……帰れ」

「へ?」

「……日が暮れる。森は危険だ」

「あ、はい! そうですね! 長居は無用ですね!」

ハンスはキースの無言の圧力(早く二人きりにさせろというオーラ)を敏感に察知した。

「ではお嬢様、物資は玄関に置いておきます! また来月!」

「ええ、ありがとうハンス。次は静かに来てね」

ハンスは嵐のように去っていった。

再び、静寂が戻ってくる。

ルシアンは新聞の束を、やはり燃料にするために暖炉のそばに積んだ。

「……有名になるのも、楽じゃないわね」

「……有名税だ」

キースが再びお茶を注いでくれる。

「……だが、ここには誰も来させない。……俺がいる限り」

その言葉は、どんな騎士の誓いよりも頼もしく響いた。

ルシアンは紅茶を一口飲む。

「頼りにしていますわ、守護騎士様(ナイト)」

からかうように言うと、キースが初めて、あからさまに動揺した。

ガチャン。

ティーポットの蓋を落としたのだ。

「……っ」

彼は慌てて拾い上げ、耳まで赤くして背を向けた。

「……修理してくる」

「壊れていませんよ?」

「……心の修理だ」

意味不明なことを言い残し、彼は屋根の上へと逃亡した。

ルシアンは、くすりと笑った。

(意外と初心なのね)

王都の噂など、どうでもよくなった。

どんなに誤解されようと、ここでこうして静かに笑い合える(片方は無言だが)相手がいれば、それでいい。

勘違いされた『悪役令嬢の沈黙』。

その真実は、ただ『大切な人との時間を邪魔されたくない』という、ささやかな我儘へと変わりつつあった。

だが、運命はそう簡単に彼女を隠居させてはくれない。

この噂を聞きつけ、次にやってくるのは『好奇心』という名の野次馬たちだった。

ルシアンの安息の日々は、まだまだ遠い。
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