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人間の三大欲求。
食欲、睡眠欲、そして――ルシアンの場合は『静寂欲』。
彼女にとって、食欲の優先順位は著しく低い。
食べることは生きるために必要だが、その工程があまりにも面倒だからだ。
献立を考え、食材を用意し、調理し、食べ、そして後片付けをする。
この一連のプロセスにかかる時間と労力を、すべて読書や睡眠(二度寝)に充てたい。
それがルシアン・ヴァイオレットという生物の基本思想であった。
「……これでいいわ」
別荘生活、一週間目。
ルシアンの昼食は、悲劇的なほど簡素だった。
テーブルの上に置かれているのは、保存食の堅パン一枚と、干し肉の欠片。
以上。
「栄養は摂取できる。腹も満たせる。所要時間は三分。完璧ね」
ルシアンは自分に言い聞かせ、石のように硬いパンを齧った。
ガリッ。
「……硬っ」
顎に衝撃が走る。
これを口の中でふやかして飲み込む作業は、食事というより土木工事に近い。
だが、キッチンに立って火を起こす手間よりはマシだ。
ルシアンが二口目に挑もうとした、その時だった。
スッ……。
音もなく、背後から手が伸びてきた。
その手は、ルシアンが持っていた堅パンをひょいと取り上げた。
「あ」
振り返ると、エプロン姿(黒一色)のキースが立っていた。
彼は奪い取った堅パンをまじまじと見つめ、眉間に深いシワを寄せた。
「……なんだ、これは」
「見ればわかりますでしょう。私の昼食です」
「……建材か?」
「食べ物です! 保存性に優れた、由緒正しき堅パンです!」
「……武器になる」
キースは堅パンでテーブルの角をコンコンと叩いた。
乾いた音が響く。
「……こんなものを食っていたら、心が荒む」
「余計なお世話です。貴方が直してくれたキッチン、広すぎて掃除が大変なので使いたくないのです」
ルシアンが抗議すると、キースは深いため息をついた。
そして、堅パンを無造作に自分のポケットに突っ込んだ。
「返してください!」
「……没収だ」
「なっ……! では私は何を噛じればいいのですか! 机の脚ですか!?」
「……黙って、座っていろ」
キースはルシアンを椅子に押し戻すと、流れるような動作でキッチンへ向かった。
彼の動きは洗練されていた。
包丁を握れば剣舞のように野菜が刻まれ、フライパンを振れば食材が踊る。
ジュウウウゥゥ……。
肉が焼ける芳醇な香りが、リビングいっぱいに広がる。
バターの甘い香り。
香辛料の刺激的な香り。
ルシアンの胃袋が、意思に反して「グゥ~」と盛大なファンファーレを奏でた。
「…………」
ルシアンは顔を覆った。
(恥ずかしい……! 堅パンで済ませようとしていた矜持が、匂いだけで崩壊するなんて!)
十分後。
目の前に置かれたのは、王都の三ツ星レストランでもお目にかかれないような逸品だった。
『厚切りベーコンと森キノコのソテー ~特製バルサミコソースを添えて~』
『完熟トマトと地鶏のコンソメスープ』
『焼きたてのフォカッチャ(ローズマリー風味)』
「……食え」
キースが短く命じる。
「……あの、キースさん」
ルシアンはフォークを手に取りながら、震える声で尋ねた。
「この食材は、一体どこから?」
「……狩った」
「ベーコンも?」
「……燻製した」
「いつの間に!?」
「……お前が寝ている間に」
この男、スペックが高すぎる。
家屋の修繕から狩猟、料理まで、生活スキルの全項目がカンストしているのではないか。
ルシアンは観念して、ベーコンを口に運んだ。
「……んっ!」
言葉が出なかった。
噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁。
スモーキーな香りと、肉の旨味が口内を席巻する。
キノコの食感も絶妙で、ソースの酸味が食欲を無限に増幅させる。
美味しい。
悔しいけれど、涙が出るほど美味しい。
「……どうだ」
キースが腕組みをして見下ろしている。
感想を求めているわけではない。
ただ『堅パンよりマシだろう』という無言の圧力をかけてきているのだ。
「……負けました」
ルシアンは白旗を上げた。
「最高に美味しいです。悔しいですけど、私の人生で一番の昼食です」
「……なら、いい」
キースは満足げに頷くと、自分も向かいの席に座り、同じメニューを食べ始めた。
沈黙のランチタイム。
だが、気まずさは微塵もない。
ただカトラリーが皿に当たる音と、咀嚼音だけが静かに響く。
(……変ね)
ルシアンはスープを飲みながら思った。
(一人が好きなはずなのに。誰かと食事をするのが、こんなにストレスフリーだなんて)
王家との食事会は地獄だった。
テーブルマナーに気を使い、毒が入っていないか警戒し、つまらない世間話に愛想笑いを浮かべる。
味などしなかった。
だが、キースとの食事は違う。
彼はマナーなど気にしない(しかし食べ方は綺麗だ)。
会話もしない。
ただ『美味いものを食う』という一点においてのみ、二人の意識は共有されている。
「……キースさん」
「……ん」
「貴方、料理人になればよかったのでは?」
「……昔、戦場で覚えた」
「戦場?」
「……不味い飯は、士気を下げる。……俺は部下に、泥水のようなスープを飲ませたくなかった」
キースの瞳が、ふと遠くを見た気がした。
『沈黙の騎士』と呼ばれる彼にも、過酷な過去があるのだろうか。
「……優しいのですね」
ルシアンがポツリと言うと、キースはビクリと反応し、視線を泳がせた。
「……違う」
「何が違うのですか?」
「……これは、餌付けだ」
「は?」
キースは真顔で言った。
「……お前は、放っておくと死ぬ。……堅パンで喉を詰まらせて死ぬ未来が見えた」
「そこまで間抜けではありません!」
「……だから、俺が管理する。……胃袋を掴めば、お前は逃げられない」
「……え、それどういう意味ですか?」
それは求婚の文句か何かですか。
それとも、ペットを懐かせるためのマニュアル実践ですか。
ルシアンが突っ込もうとすると、キースはスッと立ち上がった。
「……デザートがある」
「まだあるんですか!?」
彼が冷蔵庫(もちろん魔石式ではなく、キースが氷室から氷を運んで作った天然冷蔵庫)から取り出したのは、プルプルの果実ゼリーだった。
森で採れた野苺がふんだんに使われている。
キラキラと輝くその物体を見て、ルシアンの乙女心が陥落した。
「……食べます」
「……よし」
キースの勝ち誇った顔。
ルシアンは悟った。
自分はもう、この男の手のひら(料理)の上で転がされているのだと。
「……明日からは、何が食べたい」
ゼリーを食べ終えたルシアンに、キースが問う。
「リクエスト制なのですか?」
「……可能な限り、叶える」
「……じゃあ、オムライス」
「……了解」
「クリームコロッケ」
「……任せろ」
「あと、チーズケーキ」
「……焼いておく」
「……貴方、本当に何者?」
キースは答えなかった。
ただ、エプロンの紐を解きながら、背中でこう語っていた。
『お前の専属シェフ(兼ストーカー)だ』と。
こうして、ルシアンの『食』に対する意識改革――もとい、完全なる依存化計画は、着々と進行していった。
もはや彼女は、堅パン生活には戻れない。
キースのいない食卓など、考えられない体になりつつあった。
それはある意味、アラン王子からの婚約破棄よりも重大な、ルシアンの『孤高』の危機であったが、満腹の彼女はまだその重大さに気づいていない。
「……ごちそうさまでした。食器は洗います」
「……いらん。俺がやる」
「それくらいさせてください。家畜になりたくありません」
「……家畜じゃない」
キースは流し台に立ちながら、ボソッと言った。
「……姫だ」
「はい?」
水音にかき消されて、よく聞こえなかった。
「なんでもない。……座って、茶でも飲んでろ」
「……過保護すぎません?」
文句を言いながらも、ルシアンは再び椅子に座り、お腹をさすった。
幸福な満腹感。
窓の外では、小鳥たちが楽しげに歌っている。
(……まあ、いいか)
餌付けされるのも、悪くない。
そう思い始めた時点で、ルシアンの敗北は決定していたのかもしれない。
そして、この平和な『餌付けライフ』が、次なる訪問者によって再び騒がしくなるのは、数日後のことである。
食欲、睡眠欲、そして――ルシアンの場合は『静寂欲』。
彼女にとって、食欲の優先順位は著しく低い。
食べることは生きるために必要だが、その工程があまりにも面倒だからだ。
献立を考え、食材を用意し、調理し、食べ、そして後片付けをする。
この一連のプロセスにかかる時間と労力を、すべて読書や睡眠(二度寝)に充てたい。
それがルシアン・ヴァイオレットという生物の基本思想であった。
「……これでいいわ」
別荘生活、一週間目。
ルシアンの昼食は、悲劇的なほど簡素だった。
テーブルの上に置かれているのは、保存食の堅パン一枚と、干し肉の欠片。
以上。
「栄養は摂取できる。腹も満たせる。所要時間は三分。完璧ね」
ルシアンは自分に言い聞かせ、石のように硬いパンを齧った。
ガリッ。
「……硬っ」
顎に衝撃が走る。
これを口の中でふやかして飲み込む作業は、食事というより土木工事に近い。
だが、キッチンに立って火を起こす手間よりはマシだ。
ルシアンが二口目に挑もうとした、その時だった。
スッ……。
音もなく、背後から手が伸びてきた。
その手は、ルシアンが持っていた堅パンをひょいと取り上げた。
「あ」
振り返ると、エプロン姿(黒一色)のキースが立っていた。
彼は奪い取った堅パンをまじまじと見つめ、眉間に深いシワを寄せた。
「……なんだ、これは」
「見ればわかりますでしょう。私の昼食です」
「……建材か?」
「食べ物です! 保存性に優れた、由緒正しき堅パンです!」
「……武器になる」
キースは堅パンでテーブルの角をコンコンと叩いた。
乾いた音が響く。
「……こんなものを食っていたら、心が荒む」
「余計なお世話です。貴方が直してくれたキッチン、広すぎて掃除が大変なので使いたくないのです」
ルシアンが抗議すると、キースは深いため息をついた。
そして、堅パンを無造作に自分のポケットに突っ込んだ。
「返してください!」
「……没収だ」
「なっ……! では私は何を噛じればいいのですか! 机の脚ですか!?」
「……黙って、座っていろ」
キースはルシアンを椅子に押し戻すと、流れるような動作でキッチンへ向かった。
彼の動きは洗練されていた。
包丁を握れば剣舞のように野菜が刻まれ、フライパンを振れば食材が踊る。
ジュウウウゥゥ……。
肉が焼ける芳醇な香りが、リビングいっぱいに広がる。
バターの甘い香り。
香辛料の刺激的な香り。
ルシアンの胃袋が、意思に反して「グゥ~」と盛大なファンファーレを奏でた。
「…………」
ルシアンは顔を覆った。
(恥ずかしい……! 堅パンで済ませようとしていた矜持が、匂いだけで崩壊するなんて!)
十分後。
目の前に置かれたのは、王都の三ツ星レストランでもお目にかかれないような逸品だった。
『厚切りベーコンと森キノコのソテー ~特製バルサミコソースを添えて~』
『完熟トマトと地鶏のコンソメスープ』
『焼きたてのフォカッチャ(ローズマリー風味)』
「……食え」
キースが短く命じる。
「……あの、キースさん」
ルシアンはフォークを手に取りながら、震える声で尋ねた。
「この食材は、一体どこから?」
「……狩った」
「ベーコンも?」
「……燻製した」
「いつの間に!?」
「……お前が寝ている間に」
この男、スペックが高すぎる。
家屋の修繕から狩猟、料理まで、生活スキルの全項目がカンストしているのではないか。
ルシアンは観念して、ベーコンを口に運んだ。
「……んっ!」
言葉が出なかった。
噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁。
スモーキーな香りと、肉の旨味が口内を席巻する。
キノコの食感も絶妙で、ソースの酸味が食欲を無限に増幅させる。
美味しい。
悔しいけれど、涙が出るほど美味しい。
「……どうだ」
キースが腕組みをして見下ろしている。
感想を求めているわけではない。
ただ『堅パンよりマシだろう』という無言の圧力をかけてきているのだ。
「……負けました」
ルシアンは白旗を上げた。
「最高に美味しいです。悔しいですけど、私の人生で一番の昼食です」
「……なら、いい」
キースは満足げに頷くと、自分も向かいの席に座り、同じメニューを食べ始めた。
沈黙のランチタイム。
だが、気まずさは微塵もない。
ただカトラリーが皿に当たる音と、咀嚼音だけが静かに響く。
(……変ね)
ルシアンはスープを飲みながら思った。
(一人が好きなはずなのに。誰かと食事をするのが、こんなにストレスフリーだなんて)
王家との食事会は地獄だった。
テーブルマナーに気を使い、毒が入っていないか警戒し、つまらない世間話に愛想笑いを浮かべる。
味などしなかった。
だが、キースとの食事は違う。
彼はマナーなど気にしない(しかし食べ方は綺麗だ)。
会話もしない。
ただ『美味いものを食う』という一点においてのみ、二人の意識は共有されている。
「……キースさん」
「……ん」
「貴方、料理人になればよかったのでは?」
「……昔、戦場で覚えた」
「戦場?」
「……不味い飯は、士気を下げる。……俺は部下に、泥水のようなスープを飲ませたくなかった」
キースの瞳が、ふと遠くを見た気がした。
『沈黙の騎士』と呼ばれる彼にも、過酷な過去があるのだろうか。
「……優しいのですね」
ルシアンがポツリと言うと、キースはビクリと反応し、視線を泳がせた。
「……違う」
「何が違うのですか?」
「……これは、餌付けだ」
「は?」
キースは真顔で言った。
「……お前は、放っておくと死ぬ。……堅パンで喉を詰まらせて死ぬ未来が見えた」
「そこまで間抜けではありません!」
「……だから、俺が管理する。……胃袋を掴めば、お前は逃げられない」
「……え、それどういう意味ですか?」
それは求婚の文句か何かですか。
それとも、ペットを懐かせるためのマニュアル実践ですか。
ルシアンが突っ込もうとすると、キースはスッと立ち上がった。
「……デザートがある」
「まだあるんですか!?」
彼が冷蔵庫(もちろん魔石式ではなく、キースが氷室から氷を運んで作った天然冷蔵庫)から取り出したのは、プルプルの果実ゼリーだった。
森で採れた野苺がふんだんに使われている。
キラキラと輝くその物体を見て、ルシアンの乙女心が陥落した。
「……食べます」
「……よし」
キースの勝ち誇った顔。
ルシアンは悟った。
自分はもう、この男の手のひら(料理)の上で転がされているのだと。
「……明日からは、何が食べたい」
ゼリーを食べ終えたルシアンに、キースが問う。
「リクエスト制なのですか?」
「……可能な限り、叶える」
「……じゃあ、オムライス」
「……了解」
「クリームコロッケ」
「……任せろ」
「あと、チーズケーキ」
「……焼いておく」
「……貴方、本当に何者?」
キースは答えなかった。
ただ、エプロンの紐を解きながら、背中でこう語っていた。
『お前の専属シェフ(兼ストーカー)だ』と。
こうして、ルシアンの『食』に対する意識改革――もとい、完全なる依存化計画は、着々と進行していった。
もはや彼女は、堅パン生活には戻れない。
キースのいない食卓など、考えられない体になりつつあった。
それはある意味、アラン王子からの婚約破棄よりも重大な、ルシアンの『孤高』の危機であったが、満腹の彼女はまだその重大さに気づいていない。
「……ごちそうさまでした。食器は洗います」
「……いらん。俺がやる」
「それくらいさせてください。家畜になりたくありません」
「……家畜じゃない」
キースは流し台に立ちながら、ボソッと言った。
「……姫だ」
「はい?」
水音にかき消されて、よく聞こえなかった。
「なんでもない。……座って、茶でも飲んでろ」
「……過保護すぎません?」
文句を言いながらも、ルシアンは再び椅子に座り、お腹をさすった。
幸福な満腹感。
窓の外では、小鳥たちが楽しげに歌っている。
(……まあ、いいか)
餌付けされるのも、悪くない。
そう思い始めた時点で、ルシアンの敗北は決定していたのかもしれない。
そして、この平和な『餌付けライフ』が、次なる訪問者によって再び騒がしくなるのは、数日後のことである。
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