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ドスッ、ドスッ、ドスッ。
不慣れな乗馬の振動が、ルシアンのお尻と精神を的確に破壊していく。
「……痛い。もう無理。お尻が四つに割れる」
ルシアンは馬上で呻いた。
あの後、ルシアンはキースが残していった馬(なぜか裏庭に繋がれていた予備の馬)に飛び乗り、王都を目指して爆走していた。
普段なら絶対にしない。
馬は揺れるし、風はうるさいし、何より疲れる。
だが、今の彼女を突き動かしているのは、『キースを犯罪者にしてはならない』という一点のみだった。
(あの人、本当にやりかねないわ。「ゴミ処理」って言ってたもの。物理的に消去(デリート)する気よ!)
王都までの道中、ルシアンは必死に手綱を握り続けた。
そして、夕暮れ時。
ついに王都の城壁が見えてきた。
途端に、ルシアンの表情が歪む。
「……うっ」
音だ。
街の喧騒、馬車の走行音、人々の話し声。
森の静寂に慣れきっていた鼓膜に、都会の騒音が暴力となって襲いかかる。
「……帰り、たい」
本能がUターンを推奨している。
だが、ルシアンは歯を食いしばり、愛馬(仮)の腹を蹴った。
「待ってなさい、キース。……私が拾って帰るんだから!」
***
ヴァイオレット公爵邸。
ルシアンが到着した時、屋敷は異様な静けさに包まれていた。
「……?」
門番がいない。
玄関の扉も開け放たれている。
不審に思いながら中に入ると、エントランスホールで信じられない光景を目撃した。
使用人たちが全員、壁に向かって直立不動で震えているのだ。
そして、その奥。
階段の下で、父である公爵がへたり込んでいた。
「お、お父様?」
ルシアンが声をかけると、公爵はビクリと肩を跳ねさせ、幽霊でも見るような目で振り返った。
「ル、ルシアン……!? お前、帰ってきたのか!?」
「ええ、まあ。……何があったのですか? 泥棒でも入りました?」
「泥棒……? そんな可愛いものではない……」
公爵はガタガタと震えながら、涙目で訴えた。
「あ、悪魔だ……! 先ほど、黒い服を着た大男が現れて……!」
「あ、やっぱり来ました?」
「知り合いか!? あやつは、いきなり執務室の窓を突き破って侵入し、私の首根っこを掴んでこう言ったのだ!」
公爵は声を裏返らせて再現した。
『……娘の結婚を白紙に戻せ。さもなくば、この屋敷を更地にする』
「……極端ですね」
「私が『誰の指図だ!』と反論しようとしたら、あやつは無言で私の秘蔵の壺を指先一つで粉砕した! そして『次は貴様の首だ』と……!」
ルシアンは額を押さえた。
完全に脅迫だ。
言い逃れのできない重罪だ。
「で、その男はどこへ?」
「『根源を断つ』と言って出て行った……。ガルシア伯爵のところへ向かったに違いない!」
「……やっぱり」
最悪の展開だ。
ガルシア伯爵は今夜、王城で開かれる夜会に出席する予定だと、先日の手紙に書いてあった。
衆人環視の夜会会場で、キースが伯爵を「処理」したら――。
国際問題になる。そしてキースは処刑台行きだ。
「……止めなきゃ」
ルシアンは踵を返そうとした。
「待てルシアン!」
公爵が呼び止める。
「お前、その格好はなんだ! ズボンに泥だらけのシャツ……公爵令嬢にあるまじき姿だぞ!」
「緊急事態ですので」
「ならん! もし夜会に行くつもりなら、正装しろ! 我が家の恥をこれ以上晒すな!」
「そんなことを言っている場合では――」
「着替えねば外出は許さん! おい、メイドたち! ルシアンを捕獲せよ! 最短最速で仕上げろ!」
「は、はいぃっ!」
壁に向かって震えていたメイドたちが、主人の命令で再起動した。
彼女たちは獲物を見つけたハイエナのように、ルシアンに群がった。
「ちょ、離して! 時間がないの!」
「お嬢様、覚悟してください! 公爵家の威信がかかっています!」
「コルセットを持ってきて! 最大馬力で締めるわよ!」
「メイク班、厚塗りの準備を!」
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
ルシアンの悲鳴は、屋敷の喧騒にかき消された。
***
一時間後。
王城の夜会会場。
煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。
その華やかな空間に、一人の令嬢が現れた。
ざわっ……。
周囲の視線が一斉に彼女に注がれる。
深い群青色のドレス。
髪は完璧に結い上げられ、首元には大粒のサファイア。
そして何より目を引いたのは、その表情だ。
この世の全てを呪うかのような、冷え切った無表情。
「……あれは、ルシアン嬢?」
「婚約破棄されて引き籠もっていたはずでは?」
「なんと美しい……まさに『氷の華』だ」
人々は勘違いして感嘆の声を漏らすが、ルシアンの内面は煮えくり返っていた。
(苦しい……)
コルセットがきつい。
息が半分しか吸えない。
そして、ドレスが重い。鎧を着ているようだ。
(香水の匂いで鼻が曲がりそう。人の声がうるさい。ライトが眩しい。……帰りたい。今すぐ森に帰って、ジャージに着替えて寝たい!)
だが、帰るわけにはいかない。
ルシアンは鋭い視線で会場をスキャンした。
(どこ? キースはどこ?)
黒ずくめの不審者は目立つはずだ。
だが、見当たらない。
代わりに、会場の中央付近で、下品な笑い声を上げている男を見つけた。
ガルシア伯爵だ。
でっぷりと太った腹を揺らし、若い令嬢たちに囲まれてワインを煽っている。
「ガハハ! そう、今日の獲物はヴァイオレット家の娘でね! 大人しいらしいから、私のコレクションには最適だ!」
(……あいつか)
ルシアンのこめかみに青筋が浮かぶ。
キースが「ゴミ」と呼んだ理由がわかった。確かにあれは、分別して廃棄すべき粗大ゴミだ。
その時。
シャンデリアの上が、微かに揺れた。
(……!)
ルシアンだけが気づいた。
天井の梁の上に、黒い影が潜んでいるのを。
キースだ。
彼は完全に気配を消し、ガルシア伯爵の頭上から、獲物を狙う豹のように身構えている。その手には、どこから調達したのか、小型のナイフが握られている。
(馬鹿! ここでやる気!?)
ルシアンは焦った。
今、彼が飛び降りれば、伯爵の首は胴体とさよならするだろう。
そうすればキースは捕まる。
止めなければ。
でも、どうやって?
大声を出して「逃げて!」と叫ぶ?
いや、それでは自分が捕まるし、キースの居場所もバレる。
(……私に注目を集めるしかない)
ルシアンは覚悟を決めた。
彼女は扇をバチンと閉じ、ガルシア伯爵に向かって一直線に歩き出した。
優雅に。
かつ、威圧的に。
モーゼが海を割るように、貴族たちが道を開ける。
ルシアンは伯爵の目の前で立ち止まった。
「……あ?」
ガルシア伯爵が気づき、ニタニタと笑う。
「おやおや、噂のルシアン嬢ではないか。待ちきれずに自分から会いに来たのかな? ん?」
伯爵がルシアンの腰に手を回そうとする。
その瞬間。
天井のキースから、凄まじい殺気が放たれたのが分かった。
(待って、まだ待って!)
ルシアンは心の中で叫びながら、伯爵の手を扇でピシャリと叩き落とした。
「……気安く触らないでいただけますか」
会場が静まり返る。
「私の肌はデリケートなのです。脂ぎった手で触れられると、蕁麻疹が出ます」
「な、なんだと……!?」
伯爵の顔が赤くなる。
「貴様、誰に向かって口を利いている! 私はお前の未来の夫だぞ!」
「訂正させていただきます」
ルシアンは冷徹な声で言い放った。
「貴方は私の夫ではありません。ただの『騒音源』です」
「そ、騒音……!?」
「ええ。貴方の笑い声は品がなく、耳障りです。それに、その体臭。香水で誤魔化していますが、加齢臭とワインの腐臭が混ざり合って、公害レベルです」
ルシアンは一歩踏み出した。
「私は静寂を愛する女。貴方のようなやかましい豚に、私の平穏を乱す資格はありません」
「き、貴様ぁぁぁ!!」
ガルシア伯爵が激昂し、手を振り上げた。
「親の教育がなっておらん! ここで躾けてやる!」
彼の手がルシアンの頬に迫る。
人々が悲鳴を上げる。
だが、ルシアンは動じなかった。
なぜなら、知っているからだ。
彼が、見ていることを。
ヒュッ。
風切り音がした。
次の瞬間、伯爵の振り上げた腕が、見えない何かによって弾かれたように空を切った。
いや、違う。
伯爵のベルトが、謎の衝撃で切断されたのだ。
バツン!
「あ?」
ズルッ。
伯爵のズボンが、重力に従って落下した。
中から現れたのは、趣味の悪い真っ赤な下着。
「…………」
会場に、一瞬の沈黙が訪れる。
そして。
「きゃあああああ!!」
「変態だー!!」
「衛兵! 衛兵をつまみ出せ!」
会場は大パニックになった。
伯爵は「ち、違う! ズボンが勝手に!」と叫びながら、慌てて下着を隠すが、時すでに遅し。
ルシアンは天井を見上げた。
梁の上で、キースがナイフをしまい、小さくサムズアップしているのが見えた。
(……ナイスコントロール)
殺すのではなく、社会的に抹殺したのだ。
これなら、犯罪にはならない(たぶん)。
ルシアンは呆然とする伯爵を見下ろし、最後のトドメを刺した。
「……露出狂の趣味まであるとは。謹んで、お断り申し上げます」
彼女は踵を返した。
背後で伯爵が衛兵に取り押さえられ、連行されていく騒ぎをBGMに、ルシアンは颯爽と会場を後にした。
(さあ、帰ろう)
テラスに出ると、夜風が心地よかった。
「……派手にやったな」
すぐ横の闇から、キースが現れた。
いつもの黒ずくめだ。
「貴方こそ。あんな場所からベルトだけ切るなんて、人間業じゃありませんわ」
「……殺すな、という合図だと思った」
「当たり前です。貴方が捕まったら、誰が私の朝ごはんを作るのですか」
「……違いない」
キースは口元を緩め、ルシアンの手を取った。
「……帰るぞ」
「ええ。……でも、馬が限界です。お尻も」
「……なら」
キースはルシアンを軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこだ。
「ちょ、ちょっと!?」
「……俺が走った方が早い」
「人間業じゃない!」
「……捕まるな」
キースはテラスの手すりを蹴り、夜の王都へと飛び出した。
「きゃああああ!」
ルシアンの悲鳴(小声)と共に、二人は闇に消えていく。
夜会復帰?
そんなもの、ほんの一瞬の余興に過ぎない。
彼らの帰る場所は、あの静かな森だけなのだから。
不慣れな乗馬の振動が、ルシアンのお尻と精神を的確に破壊していく。
「……痛い。もう無理。お尻が四つに割れる」
ルシアンは馬上で呻いた。
あの後、ルシアンはキースが残していった馬(なぜか裏庭に繋がれていた予備の馬)に飛び乗り、王都を目指して爆走していた。
普段なら絶対にしない。
馬は揺れるし、風はうるさいし、何より疲れる。
だが、今の彼女を突き動かしているのは、『キースを犯罪者にしてはならない』という一点のみだった。
(あの人、本当にやりかねないわ。「ゴミ処理」って言ってたもの。物理的に消去(デリート)する気よ!)
王都までの道中、ルシアンは必死に手綱を握り続けた。
そして、夕暮れ時。
ついに王都の城壁が見えてきた。
途端に、ルシアンの表情が歪む。
「……うっ」
音だ。
街の喧騒、馬車の走行音、人々の話し声。
森の静寂に慣れきっていた鼓膜に、都会の騒音が暴力となって襲いかかる。
「……帰り、たい」
本能がUターンを推奨している。
だが、ルシアンは歯を食いしばり、愛馬(仮)の腹を蹴った。
「待ってなさい、キース。……私が拾って帰るんだから!」
***
ヴァイオレット公爵邸。
ルシアンが到着した時、屋敷は異様な静けさに包まれていた。
「……?」
門番がいない。
玄関の扉も開け放たれている。
不審に思いながら中に入ると、エントランスホールで信じられない光景を目撃した。
使用人たちが全員、壁に向かって直立不動で震えているのだ。
そして、その奥。
階段の下で、父である公爵がへたり込んでいた。
「お、お父様?」
ルシアンが声をかけると、公爵はビクリと肩を跳ねさせ、幽霊でも見るような目で振り返った。
「ル、ルシアン……!? お前、帰ってきたのか!?」
「ええ、まあ。……何があったのですか? 泥棒でも入りました?」
「泥棒……? そんな可愛いものではない……」
公爵はガタガタと震えながら、涙目で訴えた。
「あ、悪魔だ……! 先ほど、黒い服を着た大男が現れて……!」
「あ、やっぱり来ました?」
「知り合いか!? あやつは、いきなり執務室の窓を突き破って侵入し、私の首根っこを掴んでこう言ったのだ!」
公爵は声を裏返らせて再現した。
『……娘の結婚を白紙に戻せ。さもなくば、この屋敷を更地にする』
「……極端ですね」
「私が『誰の指図だ!』と反論しようとしたら、あやつは無言で私の秘蔵の壺を指先一つで粉砕した! そして『次は貴様の首だ』と……!」
ルシアンは額を押さえた。
完全に脅迫だ。
言い逃れのできない重罪だ。
「で、その男はどこへ?」
「『根源を断つ』と言って出て行った……。ガルシア伯爵のところへ向かったに違いない!」
「……やっぱり」
最悪の展開だ。
ガルシア伯爵は今夜、王城で開かれる夜会に出席する予定だと、先日の手紙に書いてあった。
衆人環視の夜会会場で、キースが伯爵を「処理」したら――。
国際問題になる。そしてキースは処刑台行きだ。
「……止めなきゃ」
ルシアンは踵を返そうとした。
「待てルシアン!」
公爵が呼び止める。
「お前、その格好はなんだ! ズボンに泥だらけのシャツ……公爵令嬢にあるまじき姿だぞ!」
「緊急事態ですので」
「ならん! もし夜会に行くつもりなら、正装しろ! 我が家の恥をこれ以上晒すな!」
「そんなことを言っている場合では――」
「着替えねば外出は許さん! おい、メイドたち! ルシアンを捕獲せよ! 最短最速で仕上げろ!」
「は、はいぃっ!」
壁に向かって震えていたメイドたちが、主人の命令で再起動した。
彼女たちは獲物を見つけたハイエナのように、ルシアンに群がった。
「ちょ、離して! 時間がないの!」
「お嬢様、覚悟してください! 公爵家の威信がかかっています!」
「コルセットを持ってきて! 最大馬力で締めるわよ!」
「メイク班、厚塗りの準備を!」
「いやぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」
ルシアンの悲鳴は、屋敷の喧騒にかき消された。
***
一時間後。
王城の夜会会場。
煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。
その華やかな空間に、一人の令嬢が現れた。
ざわっ……。
周囲の視線が一斉に彼女に注がれる。
深い群青色のドレス。
髪は完璧に結い上げられ、首元には大粒のサファイア。
そして何より目を引いたのは、その表情だ。
この世の全てを呪うかのような、冷え切った無表情。
「……あれは、ルシアン嬢?」
「婚約破棄されて引き籠もっていたはずでは?」
「なんと美しい……まさに『氷の華』だ」
人々は勘違いして感嘆の声を漏らすが、ルシアンの内面は煮えくり返っていた。
(苦しい……)
コルセットがきつい。
息が半分しか吸えない。
そして、ドレスが重い。鎧を着ているようだ。
(香水の匂いで鼻が曲がりそう。人の声がうるさい。ライトが眩しい。……帰りたい。今すぐ森に帰って、ジャージに着替えて寝たい!)
だが、帰るわけにはいかない。
ルシアンは鋭い視線で会場をスキャンした。
(どこ? キースはどこ?)
黒ずくめの不審者は目立つはずだ。
だが、見当たらない。
代わりに、会場の中央付近で、下品な笑い声を上げている男を見つけた。
ガルシア伯爵だ。
でっぷりと太った腹を揺らし、若い令嬢たちに囲まれてワインを煽っている。
「ガハハ! そう、今日の獲物はヴァイオレット家の娘でね! 大人しいらしいから、私のコレクションには最適だ!」
(……あいつか)
ルシアンのこめかみに青筋が浮かぶ。
キースが「ゴミ」と呼んだ理由がわかった。確かにあれは、分別して廃棄すべき粗大ゴミだ。
その時。
シャンデリアの上が、微かに揺れた。
(……!)
ルシアンだけが気づいた。
天井の梁の上に、黒い影が潜んでいるのを。
キースだ。
彼は完全に気配を消し、ガルシア伯爵の頭上から、獲物を狙う豹のように身構えている。その手には、どこから調達したのか、小型のナイフが握られている。
(馬鹿! ここでやる気!?)
ルシアンは焦った。
今、彼が飛び降りれば、伯爵の首は胴体とさよならするだろう。
そうすればキースは捕まる。
止めなければ。
でも、どうやって?
大声を出して「逃げて!」と叫ぶ?
いや、それでは自分が捕まるし、キースの居場所もバレる。
(……私に注目を集めるしかない)
ルシアンは覚悟を決めた。
彼女は扇をバチンと閉じ、ガルシア伯爵に向かって一直線に歩き出した。
優雅に。
かつ、威圧的に。
モーゼが海を割るように、貴族たちが道を開ける。
ルシアンは伯爵の目の前で立ち止まった。
「……あ?」
ガルシア伯爵が気づき、ニタニタと笑う。
「おやおや、噂のルシアン嬢ではないか。待ちきれずに自分から会いに来たのかな? ん?」
伯爵がルシアンの腰に手を回そうとする。
その瞬間。
天井のキースから、凄まじい殺気が放たれたのが分かった。
(待って、まだ待って!)
ルシアンは心の中で叫びながら、伯爵の手を扇でピシャリと叩き落とした。
「……気安く触らないでいただけますか」
会場が静まり返る。
「私の肌はデリケートなのです。脂ぎった手で触れられると、蕁麻疹が出ます」
「な、なんだと……!?」
伯爵の顔が赤くなる。
「貴様、誰に向かって口を利いている! 私はお前の未来の夫だぞ!」
「訂正させていただきます」
ルシアンは冷徹な声で言い放った。
「貴方は私の夫ではありません。ただの『騒音源』です」
「そ、騒音……!?」
「ええ。貴方の笑い声は品がなく、耳障りです。それに、その体臭。香水で誤魔化していますが、加齢臭とワインの腐臭が混ざり合って、公害レベルです」
ルシアンは一歩踏み出した。
「私は静寂を愛する女。貴方のようなやかましい豚に、私の平穏を乱す資格はありません」
「き、貴様ぁぁぁ!!」
ガルシア伯爵が激昂し、手を振り上げた。
「親の教育がなっておらん! ここで躾けてやる!」
彼の手がルシアンの頬に迫る。
人々が悲鳴を上げる。
だが、ルシアンは動じなかった。
なぜなら、知っているからだ。
彼が、見ていることを。
ヒュッ。
風切り音がした。
次の瞬間、伯爵の振り上げた腕が、見えない何かによって弾かれたように空を切った。
いや、違う。
伯爵のベルトが、謎の衝撃で切断されたのだ。
バツン!
「あ?」
ズルッ。
伯爵のズボンが、重力に従って落下した。
中から現れたのは、趣味の悪い真っ赤な下着。
「…………」
会場に、一瞬の沈黙が訪れる。
そして。
「きゃあああああ!!」
「変態だー!!」
「衛兵! 衛兵をつまみ出せ!」
会場は大パニックになった。
伯爵は「ち、違う! ズボンが勝手に!」と叫びながら、慌てて下着を隠すが、時すでに遅し。
ルシアンは天井を見上げた。
梁の上で、キースがナイフをしまい、小さくサムズアップしているのが見えた。
(……ナイスコントロール)
殺すのではなく、社会的に抹殺したのだ。
これなら、犯罪にはならない(たぶん)。
ルシアンは呆然とする伯爵を見下ろし、最後のトドメを刺した。
「……露出狂の趣味まであるとは。謹んで、お断り申し上げます」
彼女は踵を返した。
背後で伯爵が衛兵に取り押さえられ、連行されていく騒ぎをBGMに、ルシアンは颯爽と会場を後にした。
(さあ、帰ろう)
テラスに出ると、夜風が心地よかった。
「……派手にやったな」
すぐ横の闇から、キースが現れた。
いつもの黒ずくめだ。
「貴方こそ。あんな場所からベルトだけ切るなんて、人間業じゃありませんわ」
「……殺すな、という合図だと思った」
「当たり前です。貴方が捕まったら、誰が私の朝ごはんを作るのですか」
「……違いない」
キースは口元を緩め、ルシアンの手を取った。
「……帰るぞ」
「ええ。……でも、馬が限界です。お尻も」
「……なら」
キースはルシアンを軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこだ。
「ちょ、ちょっと!?」
「……俺が走った方が早い」
「人間業じゃない!」
「……捕まるな」
キースはテラスの手すりを蹴り、夜の王都へと飛び出した。
「きゃああああ!」
ルシアンの悲鳴(小声)と共に、二人は闇に消えていく。
夜会復帰?
そんなもの、ほんの一瞬の余興に過ぎない。
彼らの帰る場所は、あの静かな森だけなのだから。
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