7 / 26
この場所でまた
しおりを挟む
男は、坂道をゆるゆると上っていた。
ときおり足を止め、ふり返っては背後に広がる茜色に染まる雲に見とれ、頬を照らす斜光にじりじりとした夏の残照を感じながら。
緩やかな傾斜は、いつしか石造りの階段に継がれている。息を弾ませ、一段、一段を踏みしめ重い体を押しあげていく。
――この場所でまた。
観光地である大寺院でも、裏手にあるこんな墓地へ日が暮れてから訪れる酔狂な観光客はいない。京都市街地が一望できるこの場所は意外な穴場なの、と教えてくれたのは彼女だった。ここは私の庭みたいなものだから、と弾けるように笑って。墓地が庭だなんてお化けみたいだね、と彼はおっかなそうに肩をすくめてみせた。
吹き抜ける突風に彼女の切りそろえられた髪が翻る。柳のようにしなやかな腕が顔にかかる髪を抑える。折れそうに細い華奢な鎖骨が動く。きゅっと閉じられた長い睫毛が、しっとりと汗ばんでいた白い肌に影を作る――。派手な黄色のノースリーブのシャツの照り返しが眩しかったのか、彼は恥ずかしそうに瞼をパチパチと瞬かせていた。
今にして思えば、彼女は細すぎ、白すぎて、夢のように儚かった。
すべてが日中の熱射が生みだした陽炎のような、幻影だったのかもしれない。
約束の日、彼女はこの場所に来なかった。
確かに約束したはずなのに。他府県に進学して会うことがままならなくなっても、お盆のこの日には必ず帰ってくるのだから、来年もまたこの場所で逢おう、と。
それなのに、まだ若かった彼は、紅い海原が薄闇にぼやける街並みを呑みこむ時をただ一人虚ろな想いで眺めるはめになったのだ。なぜ自分が今ここでこうしているのか確かめる術もないままに。そして紅に呑みこまれた。溺れてしまった苦しさから逃れたいばかりに、自ら確かめることを拒んで。
彼は待ち人を忘れた。いや、忘れたというよりも、封印した。心の奥底に埋め、土をかけ踏み固めて、二度と表層に出てこないように――。
単調に繰り替えされる日々の中に、自分自身をも埋没させたのだ。
その記憶が再び掘り返されたのは、思いがけないきっかけだった。
卒業から四半世紀、時を経て開けられたタイムカプセルがもたらしたのだ。校庭の片隅に埋められていた古い思い出の詰まったブリキの箱の中に、男への手紙が入っていた。彼は、まるで墓を暴くかのようなその場には出向かなかったのに。それは、自分自身が埋めた思い出とともに幹事をした同窓生から送りつけられてきた。
古い写真と、自分宛の手紙。
錆ついた心がキシキシと軋むなか、彼は震える手でその封を切った。
――守れない約束をごめんね。
何を今さら。男は怒った。彼女は嘘の達人だったのだ。誰にもなにも悟らせないまま、この世を去った。彼女はやはり知っていたのだ。あの日、あの場所に自分が行くことはもはや不可能であったことを。
男がその事実を知ったのは、もっとずっと後になってからのことだった。事実を知るまで、そして知ってからはそれ以上に、彼は自分をバラバラに崩してしまいそうな痛みに耐えなければならなかったというのに。
それを、今さら、また――。
小さく吐息を漏らし、男は丁寧に手紙を畳んで封筒に戻した。そしてそのまま脱力して、しばらく椅子の背にもたれていた。
今、男はあの約束の場所へと、過去へと続く道を辿っている。
そして階段をあがりきると、息を弾ませながらひんやりとした石段に腰をおろした。茜色が薄闇に呑みこまれ、地上に色とりどりの星々が輝きだすのを待っているのだ。ざわざわとした葉擦れの音や、いつの間にか響き始めた鈴虫の合唱に心を澄ませて――。
「逢いにきたよ。やっと約束を守れた。待たせてごめん」
暗闇の中、男は誰にとはなしに呟いた。
遠く広がる温かな小さな街の燈火を囲む黒々とした影の中に、鳥居が明るく浮かび上がる。そして大文字が。船形が。
――五山の送り火すべては見れないけれど。観光客なんて誰一人いない穴場なのよ。
そう教えられた。この場所で。この焔をここから眺めていたのだ。二人で。
だから、ここから私を見送って――。
彼は、四半世紀を経て読み解けた彼女の想いを、そしてずっと胸底に留まり続けていた彼自身の苦い想いを、あの日と同じ明るく輝く赤い焔で焚きあげて、ようやく天に送ることができた。
ときおり足を止め、ふり返っては背後に広がる茜色に染まる雲に見とれ、頬を照らす斜光にじりじりとした夏の残照を感じながら。
緩やかな傾斜は、いつしか石造りの階段に継がれている。息を弾ませ、一段、一段を踏みしめ重い体を押しあげていく。
――この場所でまた。
観光地である大寺院でも、裏手にあるこんな墓地へ日が暮れてから訪れる酔狂な観光客はいない。京都市街地が一望できるこの場所は意外な穴場なの、と教えてくれたのは彼女だった。ここは私の庭みたいなものだから、と弾けるように笑って。墓地が庭だなんてお化けみたいだね、と彼はおっかなそうに肩をすくめてみせた。
吹き抜ける突風に彼女の切りそろえられた髪が翻る。柳のようにしなやかな腕が顔にかかる髪を抑える。折れそうに細い華奢な鎖骨が動く。きゅっと閉じられた長い睫毛が、しっとりと汗ばんでいた白い肌に影を作る――。派手な黄色のノースリーブのシャツの照り返しが眩しかったのか、彼は恥ずかしそうに瞼をパチパチと瞬かせていた。
今にして思えば、彼女は細すぎ、白すぎて、夢のように儚かった。
すべてが日中の熱射が生みだした陽炎のような、幻影だったのかもしれない。
約束の日、彼女はこの場所に来なかった。
確かに約束したはずなのに。他府県に進学して会うことがままならなくなっても、お盆のこの日には必ず帰ってくるのだから、来年もまたこの場所で逢おう、と。
それなのに、まだ若かった彼は、紅い海原が薄闇にぼやける街並みを呑みこむ時をただ一人虚ろな想いで眺めるはめになったのだ。なぜ自分が今ここでこうしているのか確かめる術もないままに。そして紅に呑みこまれた。溺れてしまった苦しさから逃れたいばかりに、自ら確かめることを拒んで。
彼は待ち人を忘れた。いや、忘れたというよりも、封印した。心の奥底に埋め、土をかけ踏み固めて、二度と表層に出てこないように――。
単調に繰り替えされる日々の中に、自分自身をも埋没させたのだ。
その記憶が再び掘り返されたのは、思いがけないきっかけだった。
卒業から四半世紀、時を経て開けられたタイムカプセルがもたらしたのだ。校庭の片隅に埋められていた古い思い出の詰まったブリキの箱の中に、男への手紙が入っていた。彼は、まるで墓を暴くかのようなその場には出向かなかったのに。それは、自分自身が埋めた思い出とともに幹事をした同窓生から送りつけられてきた。
古い写真と、自分宛の手紙。
錆ついた心がキシキシと軋むなか、彼は震える手でその封を切った。
――守れない約束をごめんね。
何を今さら。男は怒った。彼女は嘘の達人だったのだ。誰にもなにも悟らせないまま、この世を去った。彼女はやはり知っていたのだ。あの日、あの場所に自分が行くことはもはや不可能であったことを。
男がその事実を知ったのは、もっとずっと後になってからのことだった。事実を知るまで、そして知ってからはそれ以上に、彼は自分をバラバラに崩してしまいそうな痛みに耐えなければならなかったというのに。
それを、今さら、また――。
小さく吐息を漏らし、男は丁寧に手紙を畳んで封筒に戻した。そしてそのまま脱力して、しばらく椅子の背にもたれていた。
今、男はあの約束の場所へと、過去へと続く道を辿っている。
そして階段をあがりきると、息を弾ませながらひんやりとした石段に腰をおろした。茜色が薄闇に呑みこまれ、地上に色とりどりの星々が輝きだすのを待っているのだ。ざわざわとした葉擦れの音や、いつの間にか響き始めた鈴虫の合唱に心を澄ませて――。
「逢いにきたよ。やっと約束を守れた。待たせてごめん」
暗闇の中、男は誰にとはなしに呟いた。
遠く広がる温かな小さな街の燈火を囲む黒々とした影の中に、鳥居が明るく浮かび上がる。そして大文字が。船形が。
――五山の送り火すべては見れないけれど。観光客なんて誰一人いない穴場なのよ。
そう教えられた。この場所で。この焔をここから眺めていたのだ。二人で。
だから、ここから私を見送って――。
彼は、四半世紀を経て読み解けた彼女の想いを、そしてずっと胸底に留まり続けていた彼自身の苦い想いを、あの日と同じ明るく輝く赤い焔で焚きあげて、ようやく天に送ることができた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
麗しき未亡人
石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。
そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。
他サイトにも掲載しております。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる