【完結】瑠璃色の薬草師

シマセイ

文字の大きさ
2 / 26

第二話:雨と絶望の夜と微かな光

しおりを挟む
降りしきる冷たい雨は、アリアドネの薄いシルクのドレスを容赦なく濡らし、体温を奪っていく。

あの日、エリオットに言われるがまま屋敷を飛び出したアリアドネは、ただあてもなく夜の街を彷徨っていた。

数時間前まで、夫の腕に抱かれ、温かな寝台で眠りについていたというのに。

今は、降り注ぐ雨粒の冷たさと、地面から這い上がってくる泥の冷たさだけが、アリアドネの現実だった。

(寒い……お腹も空いた……)

貴族の令嬢として生まれ育ち、このような肉体的な苦痛を味わうのは初めてのことだった。

足はとうに感覚を失い、ただ引きずるようにして前に進むことしかできない。

時折、夜警のランタンの光が遠くに見えるが、今の彼女には助けを求める気力もなかった。

いや、助けを求めたところで、誰が信じてくれるというのだろう。

アシュフォード公爵夫人が、こんな夜更けに、ずぶ濡れで街を彷徨っているなどと。

狂人扱いされるのが関の山だろう。

(エリオット様……リディア……どうして……)

裏切りの光景が、何度も何度も脳裏に蘇る。

夫の冷たい眼差し。

親友だったはずの女の、勝ち誇った笑み。

その度に、胸の奥が焼け付くように痛んだ。

悲しみと怒りと、そしてどうしようもない絶望感が、アリアドネの心を支配していた。

かつて愛した夫への想いは、今はもう憎しみへと変わっている。

信じていた親友への友情は、裏切られた怒りによって粉々に砕け散った。

(あんな男と、あんな女のために、私がこんな惨めな思いをしなければならないなんて……!)

悔し涙が、雨に混じって頬を伝う。

ふと、アリアドネは自分の実家であるオルコット侯爵家のことを思った。

父と母。

もし、このことを知ったら、どれほど悲しむだろうか。

そして、どれほどエリオットとリディアを憎むだろうか。

しかし、今の状況で実家を頼ることはできない。

アシュフォード公爵家とオルコット侯爵家は、今や姻戚関係にある。

アリアドネが一方的に追い出されたとなれば、それは両家の間に大きな亀裂を生むことになるだろう。

もしかしたら、オルコット侯爵家そのものが、アシュフォード公爵の怒りを買い、取り潰される可能性すらある。

(私一人の問題ではない……軽率な行動はできないわ……)

アリアドネは、かろうじて残っていた理性でそう判断した。

それに、こんな惨めな姿で、父や母の前に顔を出すことなど、到底できなかった。

夜空は相変わらず厚い雲に覆われ、星の光一つ見えない。

雨脚は少し弱まってきたものの、依然としてアリアドネの体力を奪い続けている。

どのくらい歩き続けたのだろうか。

意識が朦朧とし始めたその時、アリアドネの目に、路地の奥にかすかな灯りが見えた。

吸い寄せられるように、ふらふらとその灯りに近づいていく。

それは、古びた小さな宿屋のようだった。

看板の文字は掠れて読みにくく、建物全体も雨風に晒されてかなり傷んでいる。

しかし、今の彼女にとっては、まさに砂漠の中のオアシスのように見えた。

(ここに……泊まれるかしら……)

アリアドネは、ドレスの隠しポケットに縫い付けてあった小さな袋を探った。

そこには、万が一のためにと母が持たせてくれた、数枚の金貨と銀貨が入っている。

こんな形で役に立つとは、思いもよらなかった。

震える手で宿屋の扉を叩くと、しばらくして中から年配の女性が顔を出した。

寝ぼけ眼で、いかにも不機嫌そうな顔をしている。

「……なんだい、こんな夜更けに。うちはもう閉めたよ。」

女性はアリアドネのずぶ濡れの姿を見て、眉をひそめた。

「申し訳ありません……。どうか、一晩だけでいいので、泊めていただけないでしょうか。道に迷ってしまって……。」

アリアドネは、か細い声で懇願した。

貴族令嬢としての矜持など、今はどうでもよかった。

ただ、雨風をしのげる場所が欲しかった。

女性は訝しげな目でアリアドネを値踏みするように見ていたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「……仕方ないねぇ。見ての通り、ろくな部屋はないけど、それでもいいならね。ただ、前金でもらうよ。」

「ありがとうございます……!お金なら、ここに……。」

アリアドネは震える手で銀貨を数枚取り出し、女性に差し出した。

女性はそれを受け取ると、無言でアリアドネを中に招き入れた。

通されたのは、屋根裏部屋のような小さな部屋だった。

粗末なベッドと、小さな木の机があるだけ。

壁にはシミがあり、どこからか隙間風も入ってくる。

しかし、雨風をしのげるだけでも、今の彼女には天国のように感じられた。

「お湯を持ってきてやるから、少し待ってな。そんな格好じゃ風邪をひく。」

意外にも、宿の女主人はぶっきらぼうながらも親切だった。

しばらくして、女主人が持ってきてくれたお湯で体を拭き、乾いた布を借りて体を包むと、ようやくアリアドネは人心地ついた。

ベッドに横たわると、どっと疲労感が押し寄せてくる。

(これから……どうすればいいのだろう……)

少し落ち着きを取り戻すと、アリアドネはこれからのことを考え始めた。

エリオットとリディアへの怒りは、消えるどころか、ますます燃え盛っている。

あの二人を、このまま許しておくことなどできない。

必ず、彼らが犯した罪の代償を支払わせてみせる。


そのためには、まず、自分が生き延びなければならない。

そして、力をつけなければ。

今の自分は、あまりにも無力だ。

アシュフォード公爵家にも、オルコット侯爵家にも頼らず、たった一人で生きていく術を見つけなければならない。

(私に何ができる……?)

アリアドネは、これまでの自分の人生を振り返った。

侯爵令嬢として、刺繍やダンス、詩作、楽器の演奏といった教養は一通り身につけている。

しかし、それが直接的にお金になるとは思えなかった。

貴族社会での礼儀作法や社交術には長けているが、それも今の状況では何の役にも立たない。

だが、アリアドネは決して諦めなかった。

彼女の瑠璃色の瞳には、再び強い意志の光が灯り始めていた。

(そうだわ……私には、まだ知識があるじゃない。)

幼い頃から書物を読むのが好きで、特に薬草やハーブに関する知識は豊富だった。

庭師に頼んで、侯爵家の庭の一角に小さな薬草園を作り、そこで様々な薬草を育てていたこともある。

その知識が、もしかしたら役に立つかもしれない。

(まずは、この街で仕事を見つけて、生活の基盤を築くことね……)

具体的な計画はまだ何も立っていない。

しかし、アリアドネの心には、微かな希望の光が差し込み始めていた。

どれほど困難な道であろうとも、必ず乗り越えてみせる。

そして、いつの日か、自分を裏切った者たちを見返すのだ。

降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~

空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」 氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。 「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」 ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。 成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。

愛しの第一王子殿下

みつまめ つぼみ
恋愛
 公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。  そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。  クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。  そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。

復縁は絶対に受け入れません ~婚約破棄された有能令嬢は、幸せな日々を満喫しています~

水空 葵
恋愛
伯爵令嬢のクラリスは、婚約者のネイサンを支えるため、幼い頃から血の滲むような努力を重ねてきた。社交はもちろん、本来ならしなくても良い執務の補佐まで。 ネイサンは跡継ぎとして期待されているが、そこには必ずと言っていいほどクラリスの尽力があった。 しかし、クラリスはネイサンから婚約破棄を告げられてしまう。 彼の隣には妹エリノアが寄り添っていて、潔く離縁した方が良いと思える状況だった。 「俺は真実の愛を見つけた。だから邪魔しないで欲しい」 「分かりました。二度と貴方には関わりません」 何もかもを諦めて自由になったクラリスは、その時間を満喫することにする。 そんな中、彼女を見つめる者が居て―― ◇5/2 HOTランキング1位になりました。お読みいただきありがとうございます。 ※他サイトでも連載しています

平凡な伯爵令嬢は平凡な結婚がしたいだけ……それすら贅沢なのですか!?

Hibah
恋愛
姉のソフィアは幼い頃から優秀で、両親から溺愛されていた。 一方で私エミリーは健康が取り柄なくらいで、伯爵令嬢なのに贅沢知らず……。 優秀な姉みたいになりたいと思ったこともあったけど、ならなくて正解だった。 姉の本性を知っているのは私だけ……。ある日、姉は王子様に婚約破棄された。 平凡な私は平凡な結婚をしてつつましく暮らしますよ……それすら贅沢なのですか!?

侯爵令嬢はざまぁ展開より溺愛ルートを選びたい

花月
恋愛
内気なソフィア=ドレスデン侯爵令嬢の婚約者は美貌のナイジェル=エヴァンス公爵閣下だったが、王宮の中庭で美しいセリーヌ嬢を抱きしめているところに遭遇してしまう。 ナイジェル様から婚約破棄を告げられた瞬間、大聖堂の鐘の音と共に身体に異変が――。 あら?目の前にいるのはわたし…?「お前は誰だ!?」叫んだわたしの姿の中身は一体…? ま、まさかのナイジェル様?何故こんな展開になってしまったの?? そして婚約破棄はどうなるの??? ほんの数時間の魔法――一夜だけの入れ替わりに色々詰め込んだ、ちぐはぐラブコメ。

【完結】死に戻り8度目の伯爵令嬢は今度こそ破談を成功させたい!

雲井咲穂(くもいさほ)
恋愛
アンテリーゼ・フォン・マトヴァイユ伯爵令嬢は婚約式当日、婚約者の逢引を目撃し、動揺して婚約式の会場である螺旋階段から足を滑らせて後頭部を強打し不慮の死を遂げてしまう。 しかし、目が覚めると確かに死んだはずなのに婚約式の一週間前に時間が戻っている。混乱する中必死で記憶を蘇らせると、自分がこれまでに前回分含めて合計7回も婚約者と不貞相手が原因で死んでは生き返りを繰り返している事実を思い出す。 婚約者との結婚が「死」に直結することを知ったアンテリーゼは、今度は自分から婚約を破棄し自分を裏切った婚約者に社会的制裁を喰らわせ、婚約式というタイムリミットが迫る中、「死」を回避するために奔走する。 ーーーーーーーーー 2024/01/13 ランキング→恋愛95位 ありがとうございました! なろうでも掲載20万PVありがとうございましたっ!

出来損ないと言われて、国を追い出されました。魔物避けの効果も失われるので、魔物が押し寄せてきますが、頑張って倒してくださいね

猿喰 森繁
恋愛
「婚約破棄だ!」 広間に高らかに響く声。 私の婚約者であり、この国の王子である。 「そうですか」 「貴様は、魔法の一つもろくに使えないと聞く。そんな出来損ないは、俺にふさわしくない」 「… … …」 「よって、婚約は破棄だ!」 私は、周りを見渡す。 私を見下し、気持ち悪そうに見ているもの、冷ややかな笑いを浮かべているもの、私を守ってくれそうな人は、いないようだ。 「王様も同じ意見ということで、よろしいでしょうか?」 私のその言葉に王は言葉を返すでもなく、ただ一つ頷いた。それを確認して、私はため息をついた。たしかに私は魔法を使えない。魔力というものを持っていないからだ。 なにやら勘違いしているようだが、聖女は魔法なんて使えませんよ。

傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ

悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。 残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。 そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。 だがーー 月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。 やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。 それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。

処理中です...