【完結】婚約破棄された令嬢ですが、冷たい官僚様に溺愛されています

深山きらら

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すべてを失った夜

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 王都レグナの大広間。
 黄金のシャンデリアが眩しく輝くその場所で、イザベラ・ヘルヴィッツは立ち尽くしていた。
 足元の大理石が冷たい。
 そして、誰よりも冷たいのは――目の前に立つ婚約者、エドモンド・アーデン侯爵子息の瞳だった。

「イザベラ・ヘルヴィッツ。
 この場をもって、君との婚約を破棄する」

 その言葉は、鐘の音のように王城に響いた。
 一瞬で会場の空気が凍りつく。
 貴族たちのざわめき、扇子の影で交わされる視線。
 イザベラの心臓が小さく鳴った。

「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」

 声は震えていなかった。
 ただ、内側のどこかが静かに崩れていく音がした。

「君の家は、もはや没落寸前だ。
 そのような家の娘を、王家の血筋に迎えるわけにはいかない」

 ――それが、理由。
 彼の口から出たのは、血の通わない言葉。

 イザベラは目を伏せ、静かに息を吸い込んだ。
 婚約とは、互いの心を結ぶ契約のはず。
 だがこの場にあるのは、数字と地位と、冷たい打算だけ。

「……承知いたしました。では、書面を」

 ルイスが驚いたように眉を上げる。
「何?」
「口頭では不十分ですわ。正式な破棄には署名が必要です」

 その冷静さに、貴族たちが息をのむ。
 イザベラは鞄から羽ペンを取り出し、手早く書類を用意した。
 ――この日のために、心のどこかで覚悟していたのだ。

 ルイスは鼻で笑う。
「君は本当に滑稽だな。
 こんな場で平然と書類を出すとは」
「それが『ヘルヴィッツ家の教え』です」

 その一言で、会場がどよめいた。
 イザベラは微笑む。
 泣くのは、今日が終わったあとでいい。

  ◇

 控室。
 イザベラはひとり、鏡の前に立っていた。
 絹のドレスが重い。
 宝石のついた髪飾りが、もう他人のもののように感じる。

(終わった……)

 胸の奥にある何かが、音を立てて砕けていく。
 でも、不思議と涙は出なかった。
 静かな空白だけが、心の中を満たしていた。

「イザベラ様!」

 扉を開けて飛び込んできたのは、黒髪の青年――アントン・クローヴェン。
 彼女の護衛であり、幼い頃からの友人だった。
 彼の瞳には怒りと悲しみが入り混じっている。

「一体どういうことです! あの男、殿下の前であんな屈辱を――」
「もういいの、アントン」
「よくありません!」
「本当に……いいの。私は、自由になったのよ」

 イザベラはゆっくりと笑った。
 その微笑みがあまりに穏やかで、アントンは言葉を失う。

「これからどうするおつもりですか?」
「家には戻らないわ」
「では、どこへ?」
「まだ決めていない。でも……もう“誰かの庇護下”には入らない。
 私の人生は、私のものだから」

 アントンの胸が強く締めつけられる。
 彼女がどれほど強い言葉で装っても、
 その瞳の奥には、今にも崩れそうな光が見えていた。

 ――守りたい。
 けれど、彼にはその力がない。
 自分もまた、王命に従うただの騎士に過ぎないのだから。

 アントンは拳を握った。
「ならば、せめて俺が――」
「アントン」
「……」
「ありがとう。でも、あなたまで巻き込みたくない」

 その声には、決意と優しさが混じっていた。
 アントンは何も言えず、ただ見つめる。

 扉が静かに閉じる音。
 それは、ふたりの運命を分ける“鎖の落ちる音”だった。
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