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第一部:陣中の異才、食への序曲
第八話:長雨の憂鬱、燻煙の魔術
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兵糧奉行預かりとなった千兵衛は、兵站の心臓部で働くようになった。
各地からの報告書が届き、備蓄品の出入りが管理され、軍全体の食糧事情がそこに集約されていた。
権六や助作、茂平といった馴染みの顔に加え、他の役人たちも、最初は物珍しげだったが、千兵衛の真摯な仕事ぶりと、彼の作る試作品が確かに効果を上げているのを見て、少しずつ信頼を寄せるようになっていた。
しかし、兵糧の危機は、千兵衛が想像していた以上に深刻だった。
輸送の途絶に加え、先日の長雨とそれに続く高い湿度が、各地の備蓄品に甚大な被害をもたらしていたのだ。
陣営内の倉庫でも、油断するとすぐに食料が湿気を吸い込み、カビが生えたり、腐敗が進んだりする。
干し野菜がじっとりとして変色したり、穀物に小さな虫(コクゾウムシなど)が湧いたりするのを見て、兵糧奉行の役人たちは頭を抱えていた。
「またか……
この桶の干し肉も駄目だ」
「そちらの干し芋もカビが来ております」
悲鳴にも似た声が、倉庫の点検を行う役人たちから上がる。
廃棄される食料の量は、日を追うごとに増えていった。
千兵衛は、この無駄を見るたびに胸が締め付けられた。
せっかく確保した食料が、戦う前に失われていく。
飢餓は、外から攻めてくるだけでなく、内側からも食い潰そうとしているのだ。
「乾燥と塩だけでは、この湿気には耐えられぬ……」
千兵衛は、従来の保存方法の限界を感じていた。
何か、湿気や虫を防ぐ、より強力な方法はないか?
古来からの知恵や、郷の言い伝えなどを思い出そうとする。
その中で、彼の頭に浮かんだのは、「燻製」という技術だった。
煙で食材を燻すことで、水分をさらに飛ばし、煙に含まれる成分が殺菌効果を発揮する。
そして、煙の香りは虫除けにもなると聞いたことがある。
これならば、湿気の中でも保存性を高められるかもしれない。
それに、燻製の香りは、味気ない食材に独特の風味を加え、食欲をそそる効果もあるはずだ。
燻製を行うには、火と、煙を閉じ込めるための簡単な設備、そして燻すための香りの良い木材が必要だ。
陣中でそれらを揃えるのは容易ではないかもしれない。
しかし、試す価値は十分にある。
千兵衛は、燻製の対象として、備蓄品の中でも量が多く、重要な栄養源でありながら、湿気で品質が落ちやすい「大豆」を選んだ。
大豆は兵士たちの貴重なタンパク源だが、そのまま保存するには乾燥が必須だ。
まず、備蓄の大豆を水につける。
ふっくらと戻ったら、大きな鍋でコトコトと、少し固めに煮る。
柔らかすぎると崩れてしまうからだ。
煮あがった大豆は、つぶつぶとした食感と、豆本来の優しい甘みを持っている。
次に、燻製の準備だ。
陣営の片隅に、使われていない土釜を見つけた。
これと、大きな鍋、そして蓋代わりの麻袋を使えば、簡単な燻製設備になる。
燃料には、陣営の周囲で手に入りやすい木材を選ぶ。
特に桜や楢は、香りが良いため燻製に適していると聞いたことがある。
それらの木材を燃やし、煙を出す。
煮あがった大豆を網に乗せ、土釜の中に置いた鍋の中に吊るす。
蓋をするように麻袋をかけ、煙がもくもくと立ち上るように火を調整する。
温度が高すぎると大豆が焼けてしまうため、低温でじっくりと、時間をかけて燻すのだ。
燻煙が釜の中に満ちる。
最初はただの木を燃やす煙の匂いだったものが、徐々に変化していく。
大豆の香りと混じり合い、独特の、こうばしい、食欲をそそる香りが漂い始める。
それは、これまでの陣中にはなかった、新しい匂いだった。
じっくりと、数時間かけて燻す。
煙が食材に染み込み、水分を奪い、保存成分をまとわせていく。
千兵衛は、煙の出方や温度を注意深く見守った。
燻製が完了した。
釜から取り出した大豆は、煮ただけの大豆よりも色が濃くなり、独特の燻香を纏っている。
手に取ると、しっかりとした硬さがある。
そのまま一粒、口に運んでみる。
もぐもぐと噛みしめる。
煮ただけの大豆のぷちぷちとした食感とは違う、しっかりとした歯ごたえ。
そして、噛むほどにじわりと広がる、大豆本来の甘みと、スモーキーな香ばしさ。
これは美味い。
乾燥と塩だけでは出せない、深みのある味わいだ。
そして、煙によって水分が飛んでいるため、通常の煮豆よりも格段に日持ちするはずだ。
千兵衛は、完成した燻製大豆を兵糧奉行の執務所に持っていった。
役人たちは興味深そうにそれを見た。
幻斎に代わって、筆頭の役人が試食する。
役人は燻製大豆を一口食べ、その香ばしさと食感に驚いた表情を見せた。
千兵衛は、完成した燻製大豆を役人たちに示し、その持つ可能性を語った。
湿気に強く、虫もつきにくい保存性。
そのまま行動食になる手軽さ。
そして、何よりも、この香ばしさは、味気ない干飯や粥に混ぜるだけで、格段に食欲を増進させること。
そして、その手に燻製大豆を乗せながら、信念を込めて言った。
「乏しき中にこそ、美味は宿る。
これぞ、いくさ飯。」
役人たちは顔を見合わせ、そして次々に燻製大豆を試食した。
皆、その風味と保存性の高さに感心した。
「これならば、あの湿気の中でも、大豆を無駄にせずに済むかもしれぬ……」
「そのまま食えるのも良いな」
筆頭役人は、千兵衛の燻製大豆が持つ潜在能力を認めた。
大規模に行うには、設備や燃料の手配など課題は多いが、試してみる価値はある。
千兵衛は、この燻製技術を他の食材にも応用できないか、そして大量に行う方法について検討するように命じられる。
長雨は去ったが、湿気と腐敗、そして虫という見えざる敵は、兵糧を静かに蝕み続けていた。
兵站の危機は、食料の絶対量の不足だけでなく、いかにして今ある食料を維持するかという、新たな局面に突入していたのだ。
だが、千兵衛は、燻製という古来の知恵を応用することで、この困難に立ち向かう糸口を見つけた。
この香ばしい燻製大豆が、来るべき大戦の食糧事情にどのような影響を与えるのだろうか。
千兵衛の戦いは、さらに深く、そして複雑になっていく。
【今回のいくさ飯】
『雨ニモマケズ! 桜香燻製大豆 ~秘伝の燻し技~』
大豆を煮てから、桜や楢などの香りの良い木材で時間をかけて燻製にしたもの。
燻煙による殺菌・防虫効果で保存性が飛躍的に高まり、湿気に強い。
そのまま行動食として、また砕いて料理に加えるなど応用範囲が広い。
独特の香ばしさと噛みごたえがある。
(現代の燻製豆、キャンプ飯の保存食)
各地からの報告書が届き、備蓄品の出入りが管理され、軍全体の食糧事情がそこに集約されていた。
権六や助作、茂平といった馴染みの顔に加え、他の役人たちも、最初は物珍しげだったが、千兵衛の真摯な仕事ぶりと、彼の作る試作品が確かに効果を上げているのを見て、少しずつ信頼を寄せるようになっていた。
しかし、兵糧の危機は、千兵衛が想像していた以上に深刻だった。
輸送の途絶に加え、先日の長雨とそれに続く高い湿度が、各地の備蓄品に甚大な被害をもたらしていたのだ。
陣営内の倉庫でも、油断するとすぐに食料が湿気を吸い込み、カビが生えたり、腐敗が進んだりする。
干し野菜がじっとりとして変色したり、穀物に小さな虫(コクゾウムシなど)が湧いたりするのを見て、兵糧奉行の役人たちは頭を抱えていた。
「またか……
この桶の干し肉も駄目だ」
「そちらの干し芋もカビが来ております」
悲鳴にも似た声が、倉庫の点検を行う役人たちから上がる。
廃棄される食料の量は、日を追うごとに増えていった。
千兵衛は、この無駄を見るたびに胸が締め付けられた。
せっかく確保した食料が、戦う前に失われていく。
飢餓は、外から攻めてくるだけでなく、内側からも食い潰そうとしているのだ。
「乾燥と塩だけでは、この湿気には耐えられぬ……」
千兵衛は、従来の保存方法の限界を感じていた。
何か、湿気や虫を防ぐ、より強力な方法はないか?
古来からの知恵や、郷の言い伝えなどを思い出そうとする。
その中で、彼の頭に浮かんだのは、「燻製」という技術だった。
煙で食材を燻すことで、水分をさらに飛ばし、煙に含まれる成分が殺菌効果を発揮する。
そして、煙の香りは虫除けにもなると聞いたことがある。
これならば、湿気の中でも保存性を高められるかもしれない。
それに、燻製の香りは、味気ない食材に独特の風味を加え、食欲をそそる効果もあるはずだ。
燻製を行うには、火と、煙を閉じ込めるための簡単な設備、そして燻すための香りの良い木材が必要だ。
陣中でそれらを揃えるのは容易ではないかもしれない。
しかし、試す価値は十分にある。
千兵衛は、燻製の対象として、備蓄品の中でも量が多く、重要な栄養源でありながら、湿気で品質が落ちやすい「大豆」を選んだ。
大豆は兵士たちの貴重なタンパク源だが、そのまま保存するには乾燥が必須だ。
まず、備蓄の大豆を水につける。
ふっくらと戻ったら、大きな鍋でコトコトと、少し固めに煮る。
柔らかすぎると崩れてしまうからだ。
煮あがった大豆は、つぶつぶとした食感と、豆本来の優しい甘みを持っている。
次に、燻製の準備だ。
陣営の片隅に、使われていない土釜を見つけた。
これと、大きな鍋、そして蓋代わりの麻袋を使えば、簡単な燻製設備になる。
燃料には、陣営の周囲で手に入りやすい木材を選ぶ。
特に桜や楢は、香りが良いため燻製に適していると聞いたことがある。
それらの木材を燃やし、煙を出す。
煮あがった大豆を網に乗せ、土釜の中に置いた鍋の中に吊るす。
蓋をするように麻袋をかけ、煙がもくもくと立ち上るように火を調整する。
温度が高すぎると大豆が焼けてしまうため、低温でじっくりと、時間をかけて燻すのだ。
燻煙が釜の中に満ちる。
最初はただの木を燃やす煙の匂いだったものが、徐々に変化していく。
大豆の香りと混じり合い、独特の、こうばしい、食欲をそそる香りが漂い始める。
それは、これまでの陣中にはなかった、新しい匂いだった。
じっくりと、数時間かけて燻す。
煙が食材に染み込み、水分を奪い、保存成分をまとわせていく。
千兵衛は、煙の出方や温度を注意深く見守った。
燻製が完了した。
釜から取り出した大豆は、煮ただけの大豆よりも色が濃くなり、独特の燻香を纏っている。
手に取ると、しっかりとした硬さがある。
そのまま一粒、口に運んでみる。
もぐもぐと噛みしめる。
煮ただけの大豆のぷちぷちとした食感とは違う、しっかりとした歯ごたえ。
そして、噛むほどにじわりと広がる、大豆本来の甘みと、スモーキーな香ばしさ。
これは美味い。
乾燥と塩だけでは出せない、深みのある味わいだ。
そして、煙によって水分が飛んでいるため、通常の煮豆よりも格段に日持ちするはずだ。
千兵衛は、完成した燻製大豆を兵糧奉行の執務所に持っていった。
役人たちは興味深そうにそれを見た。
幻斎に代わって、筆頭の役人が試食する。
役人は燻製大豆を一口食べ、その香ばしさと食感に驚いた表情を見せた。
千兵衛は、完成した燻製大豆を役人たちに示し、その持つ可能性を語った。
湿気に強く、虫もつきにくい保存性。
そのまま行動食になる手軽さ。
そして、何よりも、この香ばしさは、味気ない干飯や粥に混ぜるだけで、格段に食欲を増進させること。
そして、その手に燻製大豆を乗せながら、信念を込めて言った。
「乏しき中にこそ、美味は宿る。
これぞ、いくさ飯。」
役人たちは顔を見合わせ、そして次々に燻製大豆を試食した。
皆、その風味と保存性の高さに感心した。
「これならば、あの湿気の中でも、大豆を無駄にせずに済むかもしれぬ……」
「そのまま食えるのも良いな」
筆頭役人は、千兵衛の燻製大豆が持つ潜在能力を認めた。
大規模に行うには、設備や燃料の手配など課題は多いが、試してみる価値はある。
千兵衛は、この燻製技術を他の食材にも応用できないか、そして大量に行う方法について検討するように命じられる。
長雨は去ったが、湿気と腐敗、そして虫という見えざる敵は、兵糧を静かに蝕み続けていた。
兵站の危機は、食料の絶対量の不足だけでなく、いかにして今ある食料を維持するかという、新たな局面に突入していたのだ。
だが、千兵衛は、燻製という古来の知恵を応用することで、この困難に立ち向かう糸口を見つけた。
この香ばしい燻製大豆が、来るべき大戦の食糧事情にどのような影響を与えるのだろうか。
千兵衛の戦いは、さらに深く、そして複雑になっていく。
【今回のいくさ飯】
『雨ニモマケズ! 桜香燻製大豆 ~秘伝の燻し技~』
大豆を煮てから、桜や楢などの香りの良い木材で時間をかけて燻製にしたもの。
燻煙による殺菌・防虫効果で保存性が飛躍的に高まり、湿気に強い。
そのまま行動食として、また砕いて料理に加えるなど応用範囲が広い。
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