【完結】『いくさ飯の若武者 ~乾坤一擲、兵糧奮闘記~』

月影 朔

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第四部:決戦、飢餓の戦場

第四十六話:澱を紡ぐ、将の覚悟

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 戦場の夜は、生者の苦痛を吸い込み、鉛のように重く垂れ込めていた。

 幾日も続く飢餓は、兵士たちの肉体だけでなく、精神までもを深く蝕んでいた。

 かつての精悍さは失われ、誰もが力なく地面に崩れ落ち、その身を横たえている。

 武器を持つ腕は震え、盾を構える力すら残っていない。
戦場のあちらこちらから、弱々しい呻き声と、それに交じる腹の虫の音だけが響く。

 戦は、もはや人間の戦いではなく、飢餓という見えざる敵との一方的な消耗戦と化していた。

 千兵衛と彼の兵糧隊もまた、限界を迎えていた。全ての食料、滋養液、そして戦場の生命水すら、とうに尽きている。

 彼らの周囲には、空になった桶や袋が転がり、文字通りの「無」が広がっていた。

 千兵衛の顔に、絶望の色がよぎる。

 これまで、どんな乏しい状況でも知恵を絞って糧を生み出してきた。
しかし、この「無」を前にしては、為す術がないように思えた。

 兵士たちは、藁や枯れた根をかじり、泥水を啜っている。
中には、倒れた仲間の懐を探る者さえいた。

 飢餓は、人間の尊厳を容易く踏みにじる。

 千兵衛は、この凄惨な光景に、心が引き裂かれる思いだった。

 兵士たちが飢えで死んでいくのを、ただ見ていることしかできないのか?

 井上治部少輔が、重い足取りで千兵衛の傍らにやってきた。

 彼の顔もまた、飢餓と絶望に深く刻まれている。かつての厳格な兵站観は、今、生存そのものへの厳然たる執念に変わっていた。

 彼は、戦場の惨状を静かに見つめている。
彼の過去のトラウマが、現実の悲劇となって目の前に展開しているのだ。

「千兵衛……
状況は、極限だ。
このままでは、夜明けまでもつまい」

 井上治部少輔の声は、掠れていた。

 千兵衛は、言葉もなく頷くしかない。

 その時、千兵衛の目に、戦場に斃れた軍馬の姿が映った。
多くの軍馬が、戦いや飢えで力尽き、横たわっている。

 兵士たちは、飢えてはいるが、まだ「人間」であることを保とうとしてか、倒れた軍馬を食べるという最終手段には至っていない者が多かった。

 しかし、その境界線も、もはや風前の灯火だ。

 千兵衛は、その軍馬を見て、そして飢えに苦しむ兵士たちの顔を見て、奥歯を噛み締めた。 

 肉は無理でも、骨や、硬いすじ、蹄(ひづめ)。前回は避けざるを得なかった、さらに利用困難な部位。

 そして、この泥濘の戦場に、しぶとく根を張る、一見食用とは思えない植物たち。

 これらの戦場の「残滓」に、まだ命を繋ぐかすかな可能性が残されているのではないか?

 それは、人間が食するものとは言い難い。
禁忌に近い発想かもしれない。

 しかし、この飢餓の戦場では、生き残るために、その禁忌に触れる覚悟が必要だ。

 千兵衛の兵糧哲学、「乏しき中にこそ、美味は宿る」は、今、「無」の中から「命」を紡ぎ出すという、さらに過酷な試練に直面していた。

「治部少輔様……
まだ、全てが尽きたわけでは……」

 千兵衛は、絞り出すような声で言った。
そして、斃れた軍馬の骨や、泥濘の植物に視線を向けた。

 井上治部少輔は、その視線の意味するところを即座に理解した。

 彼の眉間に深い皺が刻まれる。

「……あれを、利用するというのか。
それは、もはや人が食うものではないかもしれんぞ」

「そのままでは。
しかし、手立てはあります。
毒は抜き、硬い部分は時間をかけて煮崩す……
命を繋ぐための『澱(おり)』を紡ぎ出すのです」

 千兵衛は、自身の兵糧知識と、極限の状況で研ぎ澄まされた感覚に賭けるしかなかった。

 「澱」とは、液体の中に沈殿した、わずかな固形物。
それは、戦場の底に沈殿した、命の残り滓を拾い集めることに他ならない。

 井上治部少輔は、千兵衛の提案の危険性と、その先に待つであろう兵士たちの苦痛を理解していた。

 しかし、同時に理解したのは、何もしなければ確実に全滅するということ。

 そして、千兵衛の目に宿る、諦めない光だった。

 彼は、過去の悲劇を繰り返したくない。この極限状況で、わずかでも生き残るための可能性に賭けたい。

 そしてもし、わずかでも兵士たちに力を与えられれば、この絶望的な戦況を打開する「一撃」を放つ機会を、自らが作り出せるかもしれない。

「……やれ」

 井上治部少輔は、重く、しかし明確な声で命じた。

「千兵衛、貴様に任せる。兵糧隊に、私の兵も数名付けよう。
安全を確保し、残った者は千兵衛の指示に従え。
この『澱』が、我々にわずかでも生き残る力を与えるならば……
この戦場で、活路を見出すための、最後の機会となるかもしれん」

 井上治部少輔の言葉には、兵士の命を繋ぐという目的だけでなく、この状況を打破し、敵将の首級を挙げるという武将としての覚悟が滲んでいた。

 兵糧隊の活動が、単なる延命ではなく、戦局を動かすための布石となりうる。

 千兵衛は、井上治部少輔の言葉に、新たな使命感を覚えた。

 これは、兵士たちを生かすだけでなく、この戦いを終わらせるための兵糧戦線だ。

 千兵衛と兵糧隊は、井上治部少輔から加えられた兵と共に、再び戦場の暗闇へと分け入った。

 彼らは、斃れた軍馬の硬い骨や、血と泥にまみれた皮革の切れ端、そして泥濘に生える毒々しい野草を、無言で集め始めた。

 それは、人間が食べるものを集める作業とは、あまりにもかけ離れた、生命の「澱」を拾い集める、陰鬱な作業だった。

 戦場の片隅で、再び最小限の火が起こされる。
集められた「澱」は、血や泥を洗い流され、釜に入れられる。

 硬い骨は砕かれ、皮革は細かく刻まれる。
野草は、千兵衛の指示で何度も水にさらされ、毒を抜くための処理が施される。

 釜からは、獣の生臭さと、草の青臭さ、そして何か得体の知れないものが混じり合った、不快な匂いが漂う。

 それは、美味さとは真逆の、生存本能を直接刺激するような匂いだ。

 何時間もの煮込みの後、薄く濁った液体、骨の髄を固めたもの、そして青白く変色した野草の一部が完成した。

 これこそが、この絶望的な戦場で、千兵衛が捻り出した究極の「いくさ飯」、戦場の「命の澱」だった。

 それは、見てくれも悪く、匂いも凄惨だ。
しかし、これに、わずかでも兵士たちを生かす力があるならば。

 そしてその力が、井上治部少輔が戦局を動かすための、ほんの一瞬の機会を生み出すならば。

 千兵衛は、出来上がった「澱」を前に、静かに目を閉じた。

 そして、兵士たちに配るべく、立ち上がった。

 戦場の夜は、まだ長い。
そして、この「命の澱」が、彼らに何をもたらすのか、誰も知る由もなかった。

【今回のいくさ飯】
 戦場の「命の澱」。硬骨髄、皮革片、毒抜き野草の煮込み。

 第四十六話で全ての食料が尽きた極限状況下で、戦場にわずかに残された、通常食用としない部位や植物から生み出された究極の「いくさ飯」。
美味さや滋養はほとんどないが、飢餓の苦痛を一時的に和らげ、わずかでも体力を繋ぎ止めるための最後の手段。井上治部少輔が戦局打開の機会を作るための、文字通りの「命綱」としての意味合いも持つ。
(井上治部少輔の覚悟、戦局打開への布石、さらなる非通常食資源の活用、絶望の中のわずかな希望)
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