【完結】『いくさ飯の若武者 ~乾坤一擲、兵糧奮闘記~』

月影 朔

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第四部:決戦、飢餓の戦場

第四十七話:澱を啜り、将は駆ける

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 夜明け前の冷たい空気の中、「戦場の命の澱」の配給が始まった。

 それは、薄濁った液体、異様な形に固まった髄、そして青白く変色した野草だった。

 器を差し出された兵士たちは、その凄惨な見た目と、鼻腔を衝く不快な匂いに、本能的な拒否反応を示した。

 何日も飢えに苦しめられた腹は、もはや固形物を受け付けられる自信すらなかった。

 しかし、井上治部少輔の兵や、兵糧隊の兵士たちが、無言で器を配り続ける。

 その顔には、同情だけでなく、これを食べるしかないのだという厳然たる現実が映っていた。
兵士たちは、他に選択肢がないことを悟る。

 生きるためには、これを口にするしかない。

 震える手で器を受け取り、兵士たちは覚悟を決めてそれを啜った。

 まずい。
あまりにもまずい。

 生臭さと、土のような風味、そして得体の知れない苦みが口いっぱいに広がる。

 液体は胃にすとんと落ちず、塊は喉を通るのを拒むかのようだ。

 嘔吐きそうになる者、実際に小さく吐き戻してしまう者もいる。
それは、美味さとは真逆の、生存本能を直接刺激するような味だった。

 それでも、兵士たちは必死に飲み込んだ。胃の中に「何か」が入ったという感覚だけが、飢餓による全身を焼かれるような苦痛を、ほんのわずかに和らげるような気がした。

 それは、物理的な満腹感とは程遠い、ただ虚無が少し埋められただけのような感覚だった。

 しかし、同時に吐き気や腹痛といった副作用も現れ始め、かえって苦しむ兵士も少なくなかった。

 千兵衛は、兵糧隊の者たちと共に、兵士たちの様子を見守っていた。

 自分が生み出したものが、兵士たちをさらに苦しめているかもしれないという痛みが胸を締め付ける。

 だが、これが、今の彼らに与えられる、唯一の「いくさ飯」なのだ。

 これがなければ、彼らは飢えで死ぬ。
吐き気や腹痛に苦しむとしても、それは生きているからこその苦しみだ。

 井上治部少輔は、この様子を硬い表情で見つめていた。

 彼が求めているのは、兵士たちが跳ね起きて戦えるようになることではない。
ただ、完全に崩壊するのを防ぎ、わずかでも意識を保ち、命令を聞ける状態を維持することだ。

 そして、もし好機が訪れるならば、そのわずかな力を結集して、決定的な一撃を放つこと。

 彼の視線は、遠くの敵陣に向けられていた。

 彼は、その機会を待っている。
自らが、敵将の首級を挙げる、その時を。

「この『澱』で、どれだけもつ?」
 千兵衛に問う。

「せいぜい、半日か一日といったところかと……。
それも、個人差が大きいでしょう」

「そうか……」

 短いやり取りの後、再び沈黙が訪れる。

 その沈黙を破ったのは、遠くの敵陣から響く、ざわめきと、そして鬨の声だった。

 小規模な部隊が、こちらの陣地の最も手薄な部分へと殺到してくる。

「敵襲!
 構えろ!
 構えるんだ!」

 井上治部少輔の声が響くが、その指示に従える兵は少ない。

 多くの兵士は、体を起こすことすらままならない。
武器を持つ腕は震え、まるで泥の中から生えたかのように動きが鈍い。

 敵兵は、抵抗できない兵士たちを容易く斬り伏せ、あるいは踏みにじっていく。

 戦場は、一方的な殺戮の場と化しつつあった。

「うぐっ……!」

 飢餓の苦痛と、敵の刃による傷。兵士たちの弱々しい呻き声が、絶望的な戦場に響き渡る。

 もはや、戦術もへったくれもない。
ただ、飢えと衰弱した体が、生存本能だけでかろうじて抗おうとしている。

 千兵衛は、兵糧隊の者たちと共に、この惨状を目の当たりにしていた。

 彼らにできることはほとんどない。

 倒れた兵士を安全な場所に移動させるか、わずかに残った水を与えるか……
しかし、敵兵の接近により、それすら困難になってくる。

 彼の作った「命の澱」は、兵士たちの命を繋ぎ止めたかもしれない。
だが、戦う力を与えるには、あまりにも微力すぎた。

 井上治部少輔は、この絶望的な状況の中、冷静に戦場を見据えていた。敵の数はそれほど多くない。

 おそらく、こちらの状況を探るための斥候、あるいは飢餓に乗じた小規模な突撃だろう。
しかし、このままでは、その小部隊にすら全滅させられてしまう。

 彼の視線は、敵兵の動きを追い、その隙を探していた。

 敵の本体はまだ動いていない。
だが、このままでは時間の問題だ。

 どこかに、活路はないのか?

 彼は、敵の小部隊が一点に集中していることに気づいた。
そして、そのさらに奥に、敵の指揮官らしき人物が、数名の護衛と共に陣取っているのが見えた。

 距離はある。
そして、そこに辿り着くには、この殺到してくる敵兵を突破しなければならない。

「……あれだ」

 井上治部少輔の目に、鋭い光が宿った。
全軍での抵抗は不可能だ。

 しかし、もし、もしあの敵将の首を取ることができれば。

 敵は混乱し、この場の危機を脱することができるかもしれない。
それは、絶望的な状況下での、あまりにもリスキーな賭けだった。

 だが、他に道はない。

 井上治部少輔は、自らの周囲にいる、かろうじて立っている兵士たちを見た。
飢餓と疲労で、皆やつれ果てている。

 しかし、その目には、まだ諦めていない光が宿っている者もいる。
そして、兵糧隊の千兵衛も、絶望的な顔でこちらを見ている。

「我に続けられる者、いるか!」

 井上治部少輔が、絞り出すような、しかし圧倒的な気迫を込めて叫んだ。

 彼の声は、戦場の喧騒にかき消されそうになりながらも、兵士たちの耳に届いた。

 彼の呼びかけに応じたのは、十数名の兵士だけだった。
彼らもまた、体はボロボロだ。

 しかし、その目に宿る光は、まだ消えていない。
そして、その中には、兵糧隊の兵士や、千兵衛の姿もあった。

 千兵衛は、武器こそ持っていないが、兵糧隊として井上治部少輔の行動を支えようとしている。

「治部少輔様……
どこへ?」

 兵士の一人が、掠れた声で尋ねる。

 井上治部少輔は、敵陣の奥にいる指揮官を指差した。

「あの首を、取る」

 その言葉に、兵士たちの間に張り詰めた空気が走る。
それは、あまりにも無謀な目標だ。

 しかし、同時に、この絶望を打ち破る、唯一の希望の光のように思えた。

 井上治部少輔は、自らの得物を握りしめた。
彼の体もまた、飢餓で悲鳴を上げている。

 しかし、彼の心には、武将としての覚悟と、兵士たちを生かすという強い意志があった。

 そして、彼が待っていた「機会」は、この敵の小部隊による攻撃という形で訪れた。

 この混乱に乗じて、敵の防御が手薄になった一点を突き崩す。

「行くぞ!」

 井上治部少輔は、そう叫ぶと、集まった十数名の兵士たちと共に、敵の波の中へと突撃した。

 それは、あまりにも小さな波だった。
しかし、その波紋が、この飢餓に沈む戦場に、最後の希望の光を灯すかもしれない。

 戦場の夜は、凄惨な殺戮と、井上治部少輔たちの決死の突撃によって、その終わりを迎えようとしていた。

 飢餓の戦場は、最後のクライマックスへと突入する。

【今回のいくさ飯】
 戦場の「命の澱」の効果と、それが生んだわずかな機会。硬骨髄、皮革片、毒抜き野草の煮込み。

 飢餓の苦痛をわずかに和らげ、完全に意識を失うことを防ぐ程度の効果と副作用を伴う。
しかし、そのおかげでわずかな兵士たちが意識を保ち、井上治部少輔の呼びかけに応じることができた。
これが、井上治部少輔が敵将討ち取りという決死の策に出るための、文字通りの「命綱」となった。
(「命の澱」の効果、敵の攻撃、井上治部少輔の決断と突撃、千兵衛の同行、決戦への突入)
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