『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第一部 江戸闇聴聞 ~師の血痕~

第一話 闇に聴く者

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 江戸は生きていた。いや、呼吸していたと言った方が正確かもしれない。
 
 早朝の魚河岸から立ち上る湯気と喧騒、寺子屋から漏れる子供たちの朗々とした声、夕暮れ時、長屋の軒先で惣菜を煮る匂い。それらは全て、この大都市の生命の息吹だった。

 盲目の女按摩師、市は、その呼吸の一つ一つを、研ぎ澄まされた感覚で聴き取っていた。

 市の庵は、裏通りにひっそりと佇んでいた。表向きはしがない按摩師の仕事場。だが、市のもとを訪れる人々は、体の凝りや痛みだけでなく、心の内に抱える澱みや秘密までをも、いつの間にか市に打ち明けていた。市の指先は、筋肉の僅かな緊張、皮膚の温度や湿度の変化から、客の体調や抱える病を見抜く。そして、声の調子、息遣い、座る姿勢、衣擦れの音。市にとって、それらは言葉以上に雄弁に、客の心模様を物語っていた。

 幼い頃に患った熱病で視力を失った市は、当初絶望の淵にあった。だが、失った視覚は、他の感覚を異様なまでに鋭敏に磨き上げた。風の音、雨の匂い、遠くで鳴る鐘の響き。それらが以前とは全く異なる情報となって、市の脳裏に鮮やかな情景を描き出すようになった。
特に聴覚と嗅覚は、常人のそれを遥かに超え、町のざわめきの中から特定の音だけを拾い上げ、無数の匂いの中から僅かな違和感を嗅ぎ分けることができた。

「市さん、いつものように頼むよ。どうも最近、寝つきが悪くてな」

 ガラリと戸を開けて入ってきたのは、古着屋の吉蔵だ。歳の頃は四十過ぎ。人当たりの良い男だが、最近、彼の声に微かな苛立ちと、隠しきれない疲労の色が混じるようになったことに、市は気づいていた。

「吉蔵さん、いらっしゃい。少し痩せられましたね。お顔の色も冴えません」

 市は吉蔵を寝台に案内し、肩に触れた。相変わらずの猫背だが、以前よりも筋肉が硬くなっている。特に首筋から肩甲骨にかけての凝りは、まるで石のようだ。これは単なる肩こりではない。強い精神的なストレスが体に表れている証拠だ。

「いや、それが… 店のことでちょいと厄介事ができてしまってな。帳簿がどうも合わねぇんだ。奉公人にも見せたんだが、どこをどう間違えたのかさっぱりで… 夜中まで頭を抱えてるもんで、どうも眠れなくてな」

 吉蔵はため息交じりに話す。声の響きに、嘘をついている様子はない。しかし、市は吉蔵の息遣いが、話している最中に一瞬だけ詰まることに気づいた。それは、何かを言い淀む時や、心に隠し事がある時に現れる、体の無意識の反応だ。

 市は黙って施術を続けた。鍼を使い、吉蔵の体の緊張を丹念に解いていく。鍼先が特定のツボに触れると、吉蔵の息遣いが僅かに乱れる。そこには、帳簿の不一致以上の何かがある。それはもしかしたら、吉蔵自身が何かを隠している、あるいは誰かを庇っているのかもしれない。

「吉蔵さん、体の凝りは、心の凝りからくることも多いのです。無理に解決しようとせず、一度全てを白紙に戻して考えてみてはいかがでしょう。案外、思わぬところに見落としがあるものです」

 市は鍼を抜きながら、静かに語りかけた。体の緊張が少し和らいだ吉蔵は、ぼんやりとした声で答えた。

「白紙に… そうか…」

 市は傍らに置いていた土鍋から、湯気の立つ小さな器に薬膳粥をよそった。

「これは棗と百合根のお粥です。気を巡らせ、心を落ち着かせる効果があります。無理せず、温かいうちに召し上がってください。体と心を休めれば、きっと良い考えも浮かびますよ」

 吉蔵はお粥をゆっくりと口にした。ほんのりとした甘さと優しい香りが広がったのだろう、その顔に幾分か安堵の色が浮かんだ。

「美味えな、市さんのお粥は。体がじんわりと温まるようだ」

 市は微笑んだ。人の体と心は深く繋がっている。薬膳や養生食の知識は、市が独学で身につけたものだ。体の内側から整えることが、心の平穏にも繋がることを知っていたからだ。市は、客の症状や悩みに合わせて、簡単な薬膳茶の淹れ方や、旬の食材を使った養生料理のレシピを教えることもあった。それは、市なりの、人々の生活に寄り添う方法だった。

 江戸は、情報が洪水のように流れ込む町だった。瓦版、辻説法、井戸端会議。様々な形で噂や出来事が広まっていく。しかし、その情報の表層の下には、人の欲望や打算が渦巻き、様々な策謀が静かに進行していることも、市は感じ取っていた。町に漂う空気の淀み、人々の声に含まれる猜疑心や恐れ。それらは、江戸の闇が深まっていることを示唆していた。市は、持ち前の鋭敏な感覚で、その闇の片鱗を感じ取っていた。

 ある日、市のもとに珍しい客が訪れた。声には威厳があり、足音は重く、衣擦れの音は上等な絹のものだ。ただ者ではない。案内に従って入ってきた人物は、江戸でも屈指の大店、呉服問屋・和泉屋の主人、徳兵衛だと名乗った。

「これはこれは、和泉屋様。私のような者にご用とは、恐れ入ります」

 市は丁寧に挨拶した。徳兵衛の声には、表向きの威厳とは裏腹に、深い疲労と、どうにも隠しきれない怯えが滲んでいる。息遣いは浅く、心臓の鼓動が速いのが聞こえる。庵に入る前から、どこか落ち着きのない気配を感じていた。

「いや、評判はかねがね伺っております。市の御身手にかかれば、どんな凝りも忽ち消えるとか。実は… 体ももちろんだが、どうにも眠れぬ日々が続いておりましてな」

 徳兵衛は市の前の座布団に座り、重いため息をついた。その手は、見た目には立派だが、触れてみると氷のように冷たく、微かに震えている。

「眠れない、とのこと。何か、心当たりが…?」

 市が静かに問いかけると、徳兵衛はあたりを見回すようにした後、絞り出すような声で言った。

「それが… 夜になると、どうも何者かの気配を感じるのです。屋敷のどこかに、見えない誰かが潜んでいるような… じっとこちらを見ているような… 恐ろしくて、目が冴えてしまうのです」

 徳兵衛の声は恐怖に歪んでいた。その言葉が幻聴や妄想でないことは、徳兵衛の体の反応が物語っている。脈拍は乱れ、筋肉は異常なほど緊張している。

「気配、でございますか… それは、お辛いことでございましょう。一度、和泉屋様の屋敷に伺い、按摩を施させていただいてもよろしいでしょうか。あるいは、その『気配』とやらを、この耳で聴いてみましょう」

 市の提案に、徳兵衛は藁にもすがる思いだったのだろう。深く頭を下げた。

「おお、ぜひ。お願いします。このような話、誰にしても正気ではないと思われるばかりで…」

 こうして市は数日後、日本橋にある和泉屋の広大な屋敷を訪れることになった。門を潜った瞬間から、市には違和感があった。広々とした庭園は美しく手入れされているが、漂ってくる空気はどこか重く、淀んでいる。人の気配はするものの、活気に満ちているというよりは、何かを押し殺しているような静けさが勝っている。

 徳兵衛の部屋に通され、市は早速按摩に取り掛かった。徳兵衛の体は、庵で触れた時よりも更に硬くこわばっていた。その緊張は、単なる不眠からくるものではない。何か、切羽詰まった、重大な恐怖に苛まされているのだ。

 市は施術を続けながら、五感を研ぎ澄ませた。屋敷全体の音に耳を澄ます。風の音、木々の葉擦れ、遠くで聞こえる町の喧騒。それらに混じって、市には微かな、しかし確かに存在する音が聞こえてくる。屋敷の奥、おそらく蔵があると思われる方向から、ごく僅かな物音。それは、注意していなければ決して気づかないような、しかし人工的な、意図を持った動きの音のように感じられた。

 そして、匂い。屋敷全体に漂う高級な香の匂いに混じって、市には微かな、しかし妙に鼻につく、薬草のような刺激臭が感じられた。それは、普通の香や薬の匂いとは違う。何か、作為的なものを感じさせる匂いだ。さらに、空気。屋敷内の空気の流れに、不自然な淀みや、何かが高速で移動した後に残るような微細な空気の乱れがあることを、肌で感じ取った。

 市は施術の手を休めずに、徳兵衛に語りかけた。

「和泉屋さん、随分と体に力が入っていますね。まるで何かから身を守ろうとしているかのようです。このお屋敷には、和泉屋様が誰にも言えない、何か秘密がおありなのではありませんか?」
 
 市の言葉に、徳兵衛の体が硬直した。筋肉の緊張が瞬間的に最高潮に達する。声は上ずり、震えている。

「い、いや… 秘密など…」

 徳兵衛は露骨に動揺していた。その声の震えは、恐怖だけでなく、何か重大な秘密を隠していることへの後ろめたさも含まれている。市は、彼の脈拍がさらに速く、不規則になったのを感じ取った。

 市はそれ以上追及しなかった。無理に秘密を聞き出すことはしない。市の役目は、あくまで按摩師として、客の心と体の不調を和らげることだ。しかし、徳兵衛の体の反応と、屋敷全体から伝わってくる不穏な気配は、何か良からぬことが起こりつつあることを示唆していた。それは、市の按摩師としての範疇を超える何かだ。
だが、徳兵衛が抱える恐怖、そして屋敷に潜む「気配」の正体が何であれ、市にはそれを感じ取る特別な感覚がある。

 市は施術を終え、徳兵衛に安眠を促すための薬膳スープとお香の調合について助言した。

「この薬膳は、和泉屋様の心と体を休める一助となるでしょう。しかし、もしお屋敷に漂うあの妙な『匂い』や、『音』が原因で眠れないのであれば、効果は薄れるかもしれません」

 市の言葉を聞いた徳兵衛の顔色は、蝋のように青ざめた。彼は市の目が見えないはずなのに、まるで全てを見透かされたかのような表情で、市を見つめていた。

 市は和泉屋を後にした。夕闇が迫る江戸の町は、昼間の喧騒が幾分か収まり、提灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始めている。雑踏の音、夕餉の匂い。それらの音や匂いに混じって、市にはまだ、和泉屋で感じた不穏な空気、あの妙な香、そして微かな物音が、耳と鼻に残っていた。

 徳兵衛の依頼は、単なる体の不調では片付けられない。あの屋敷には、きっと何か隠されている。そして、その秘密が、徳兵衛を、そして和泉屋全体を脅かしているのだ。

 市は、その予感に静かに耳を澄ませた。次に何が起こるのか、それはまだ分からない。だが、市自身の感覚が、これから起こるであろう不可解な出来事へと、否応なしに引き寄せられていることを感じていた。
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