『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第一部 江戸闇聴聞 ~師の血痕~

第二話 盗まれた密約と血の痕

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 和泉屋の屋敷を訪れて以来、市はどこか落ち着かない日々を送っていた。目にこそ見えないが、あの屋敷に漂っていた重苦しい空気、徳兵衛の体にこびりついていたような恐怖の気配、そして何よりも、市自身の感覚が捉えた微かながら不自然な匂いと音。それらが、市の心に得体の知れない予感として残り続けていた。

 そんなある日の午後、市の庵の戸がけたたましく開けられた。飛び込んできたのは、顔色を変えた町の若い衆だ。息を切らせて、掠れた声で叫んだ。

「市さん! 大変だ! 和泉屋さんの旦那が、旦那が…!」

 市はすぐに事態の異常を察知した。この若い衆の声には、驚きと、そしてはっきりとした恐怖が混じっている。心臓の鼓動が異常に速い。

「落ち着いてください。一体何があったのです?」

 市の静かな問いかけに、若い衆は震える声で語った。
「和泉屋さんの屋敷に、夜中、泥棒が入ったそうで! 蔵が荒らされて、旦那様が襲われたって! 大怪我なさったとかで… 今、奉行所のお役人様方が大勢駆けつけてるんだ!」

 泥棒。そして徳兵衛の負傷。市の胸に、あの屋敷で感じた不穏な予感が現実になったのだという思いが駆け巡った。単なる泥棒だろうか? あの屋敷に潜んでいた「気配」は、市にはとても単なる盗賊のそれとは思えなかった。

 市はすぐに支度を整え、和泉屋へ向かった。町中が和泉屋の騒動で持ち切りだった。人々がざわめき、噂話が飛び交う。市の耳には、不安や好奇心、そして事態の大きさを物語る様々な声が飛び込んできた。

 和泉屋の門前は、既に奉行所の役人たちでごった返していた。厳重な警戒が敷かれ、物見高い野次馬が遠巻きに見守っている。市のことを知っている町の者が道を譲ってくれた。市は慣れた足取りで門を潜った。

 屋敷の中は、外以上に騒然としていた。役人たちが慌ただしく行き交い、和泉屋の奉公人たちが顔色を失くしている。市は、屋敷全体に漂う、血の匂いと、そしてあの時感じた不自然な薬草のような刺激臭が、以前よりも強く、濃厚になっているのを感じ取った。

 徳兵衛は奥の部屋で、医師の手当てを受けていると聞いた。市は案内を乞い、徳兵衛のもとへ向かった。部屋に入ると、鉄の匂いと薬の匂いが鼻をつく。徳兵衛は布団に横たわり、顔色は土気色だった。額には包帯が巻かれ、全身が小さく震えている。医師が傍らで処置をしている。

 市は徳兵衛の傍らに静かに座り、そっとその手に触れた。徳兵衛の手は氷のように冷たく、脈拍は速く乱れている。そして、体に触れると、尋常ではないほどの緊張が伝わってきた。それは、肉体的な痛みだけでなく、精神的な恐怖によるものだ。

「和泉屋さん… お怪我は…」

 市が優しく声をかけると、徳兵衛はビクリと体を震わせ、市の声に気づいた。しかし、その目は焦点が合わず、言葉を発することができないようだった。口を固く閉じ、ただ恐怖に耐えている。

 市は、徳兵衛の脈を取りながら、彼の体のこわばりからある確信を得た。この恐怖は、単なる盗賊に襲われたからではない。襲った相手は、徳兵衛が以前から恐れていた、あるいは深い関わりを持っていた人物、あるいは組織なのだ。そして、盗まれたものが、徳兵衛にとって命よりも大切な、あるいは、命を脅かすほど重要なものであることも、その体の反応から察することができた。

 そこへ、一人の同心が近づいてきた。歳の頃は三十半ばだろうか。鋭い目つきだが、どこか苦労を重ねたような雰囲気がある。市の存在に気づき、訝しげな視線を向けた。

「お前さんは? 和泉屋の者ではないようだが」

「失礼いたしました。私はこの近くで按摩師をしております、市と申します。和泉屋様には以前、お体のことでお世話になりました」

 市が答えると、同心は市の盲目であることに気づいたらしい。少し驚いた様子を見せた。

「按摩師か… しかし、こんな騒ぎの時に、なぜここに?」

「和泉屋様が大変だと聞き、心配で駆けつけました。何か、私にお役に立てることがあれば…」

 市の言葉に、同心はフンと鼻を鳴らしたが、その表情に僅かな興味の色が浮かんだ。

「按摩師が、この事件に? 役人に口出しするつもりか?」

「滅相もございません。ただ… 私は目が不自由な代わりに、他の感覚が人より少しばかり鋭敏なものですから… もし、何かお役人様方が見落とされた僅かなことでも、私の感覚が拾えることがあるやもしれません」

 市は率直に自分の能力を伝えた。同心は市の言葉を吟味するように、しばし沈黙した。現場の捜査は難航しているのだろう。有力な手掛かりが見つかっていない焦りが、その表情の奥に見え隠れしていた。

「…面白いことを言うな。役に立つかどうか分からぬが、ものは試しだ。丁度、蔵の現場検証が終わったところだ。見てみるか? もっとも、お前さんには何も見えぬだろうがな」

 同心はやや皮肉めいた口調で言ったが、市の能力に一縷の望みを託しているようだった。市は徳兵衛に一礼し、同心に案内されて蔵へと向かった。

 蔵の中は、一目で荒らされたと分かる状態だった。棚は倒され、箱がひっくり返されている。しかし、役人たちが捜査した跡だろう、大きな混乱は収まっている。

 市は同心の傍らに立ち、静かに呼吸を整えた。そして、五感を最大限に研ぎ澄ませた。

 まず、匂い。第一話で感じた不自然な薬草のような刺激臭が、ここではさらに強く感じられる。それは、単なる薬草の匂いではない。何かを燻したような、鼻腔を刺激する独特な香りだ。市は、この香りが、特定の薬草を調合して作られたものであることを、直感的に感じ取った。それは、人の感覚を鈍らせる、あるいは意識を朦朧とさせるような効果を持つ香ではないだろうか。

 そして、血の匂い。鉄の匂いと混じって、生々しい血の匂いが漂っている。それは、徳兵衛のものだけではない。市の嗅覚は、微かに、しかし確かに、別の血の匂いを捉えた。それは、おそらく犯人の血だ。犯人もまた、この場で負傷したのだ。

 次に、聴覚。蔵の中に響く、かすかな音の残響に耳を澄ませる。物が倒れた音、引きずった音、そして、何かが壁や床に打ち付けられたような鈍い音。それらの残響は、犯人が複数人であること、そして慌ただしく行動したことを示唆している。そして、市の耳は、ある特定の場所から聞こえる、ごく微かな、しかし不自然な「音の歪み」を捉えた。それは、物が置かれたことによって生じる、空気の反響の僅かな変化だ。

 最後に、触覚。市は同心の許可を得て、ゆっくりと蔵の中を歩いた。足裏に伝わる床の感触。荒らされた棚や箱に触れる。木材の擦過痕、布地の裂け目。そして、床。市は足裏で、特定の場所に僅かに異なる感触があることに気づいた。それは、誰かがそこに立ち止まり、何かをした痕跡だ。そして、微かに湿っているような感触。血だろうか? あるいは、香を落とした跡?

 市は同心に向き直った。
「お役人様。この蔵には、二種類の血の匂いが残っています。一つは和泉屋様のものでしょう。しかし、もう一つ、別の血の匂いがします。犯人も負傷したようです」

 市の言葉に、同心は目を見開いた。役人たちは血痕を見つけられなかったのか?

「血だと? どこだ?」

 市は同心の手を取り、床のある場所へと誘導した。
「ここです。私の足裏に、微かな湿り気と、独特の匂いが感じられます」

 同心はかがみ込み、市が示した場所を注意深く調べた。しばらくして、驚いたような声を出した。

「…確かに。肉眼では分からぬほど微かだが…!」

 市は続けた。
「そして、この蔵には、強力な『香』の匂いが充満しています。それは、ただの香ではありません。人を眠らせるか、あるいは惑わせるような、特殊な薬草が使われています。この香は、私が先日和泉屋様にお目にかかった時には、ここまで強くは感じませんでした。おそらく、犯人が侵入する際に使用したのでしょう」

 同心は腕を組み、唸った。普通の盗賊が、そんな特殊な香を使うだろうか?

「香… そういえば、奉行所の者も、妙な匂いがすると言っていたが…」

「さらに… 蔵の奥、あの辺りから、ごく微かな、しかし不自然な『音の歪み』が聞こえます。まるで、そこに何かが置かれていたかのような…」

 市は耳を澄ませながら、特定の場所を示した。同心は市の言葉に半信半疑といった様子だったが、念のため部下にその辺りを調べさせた。

「よし、分かった。引き続き捜査を進める。協力、感謝する」

 同心は市の言葉に耳を傾けつつも、まだ完全に信用しているわけではないようだった。それは当然だろう。目が見えない按摩師が、五感だけで事件の真相に迫ろうなど、常人には理解しがたいことだ。

 しかし、市には確信があった。この事件は、単なる強盗ではない。盗まれた「取引台帳」は、おそらく徳兵衛の秘密、そして彼が抱える恐怖と深く関わっている。犯人は、その台帳を奪うために、特殊な香と、そしておそらくは常人離れした技を持つ者たちだ。そして、彼らはこの場で負傷した。その血痕と、残された香、そして音の痕跡。それらが、犯人の手がかりとなる。

 市は、徳兵衛の憔悴しきった姿を思い出した。あの恐怖に歪んだ顔。そして、頑なに口を閉ざす様子。彼は、何かを深く恐れている。そして、その恐れが、今回の事件を引き起こしたのだ。市には、徳兵衛の心に寄り添い、その恐怖の原因を取り除く手伝いがしたいという思いが湧き上がってきた。それは、按摩師として、人の心身の苦痛を取り除くという自身の使命とも重なる。

 市は、同心に改めて協力を申し出た。
「お役人様。私は、和泉屋様のあの深い恐怖を感じ取ることができました。そして、この蔵に残された手掛かりが、単なる盗賊の仕業ではないことを物語っています。もしよろしければ、引き続き私の感覚が、お役人様の捜査の一助となれば幸いです。和泉屋様の恐怖を取り除き、この不可解な事件の真相を明らかにしたいのです」

 市の真摯な言葉に、同心はしばらく市の顔をじっと見つめた。

 そして、やがて口を開いた。
「…分かった。市の能力がどれほどのものか、まだ計り知れんが… 現状、手掛かりは乏しい。お前の言う『感覚』とやら、試させてもらおう。ただし、無茶はするなよ。お前さんはあくまで協力者だ」

 こうして、盲目の女按摩師・市は、江戸の闇に潜む不可解な事件に、本格的に足を踏み入れることになった。

 蔵に残された血痕、特殊な香の匂い、そして微かな音の痕跡。それらが、市にとって、闇夜を照らす唯一の道標となるのだ。
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