『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第一部 江戸闇聴聞 ~師の血痕~

第三話 音と匂いの道標

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 和泉屋での騒動から数日が経ったが、町の噂は和泉屋の盗難事件で持ちきりだった。江戸でも指折りの大店に、夜中に何者かが忍び込み、旦那を襲い、蔵から何かを盗んでいったという前代未聞の出来事に、人々は不安と好奇心を掻き立てられていた。

 市は普段通りの日常を送っていた。庵には客が訪れ、市は彼らの心身の不調に耳を傾け、手当てを施す。だが、その耳の奥には、和泉屋の蔵で聴いた微かな物音、鼻の奥には、あの刺激的な薬草のような香りの記憶がこびりついて離れなかった。同心からの捜査協力の依頼を受け入れたものの、市には役人のような捜査手法は取れない。市ができるのは、自身の研ぎ澄まされた五感だけを頼りに、闇の中に隠された真実の糸口を探ることだけだ。

 市は、蔵で感じ取ったあの特殊な「香」から手掛かりを掴むことにした。同心から、蔵に残っていた香の成分の一部を嗅がせてもらう許可を得ていた。それは、市が以前感じた、屋敷に漂う不自然な香とは明らかに異なるものだった。より濃厚で、刺激的で、そしてどこか… 意識を遠ざけるような不快感を伴う香りだ。

 市はまず、馴染みの薬草問屋を訪ねた。店の奥に通され、様々な薬草の匂いの中に身を置く。市の鼻は、一つ一つの薬草の香りを正確に嗅ぎ分け、記憶の中の香りと照合していく。

「おや、市さん、珍しいね。何か探し物かい?」
 店の主人が声をかけてきた。市は、同心から得た香の匂いを思い出しながら、その特徴を言葉で伝えた。

「ご主人。最近、何か変わった香りの薬草や、珍しい調合の香が出回っているという話を聞きませんか? 例えば、人を眠らせるような、あるいは… 気分を悪くさせるような、刺激的な香りです」

 主人は顎に手を当てて考え込んだ。
「眠らせる香、ねぇ… うーん、そういやあ、最近ちょいと変わった香の注文が入り出したって話は聞くな。特定の薬草を、普段とは違う割合で混ぜるとか、何か隠し味を入れるとか… 何に使うのかは知らねぇが、問屋の間でも、妙な香りがするって噂になってたよ」

 主人は、いくつかの薬草の名前を挙げた。それらは市が嗅いだ香りの成分に含まれている可能性のあるものだった。特に、「曼陀羅華(まんだらげ)」や「附子(ぶし)」といった、使い方を間違えれば毒にもなるような薬草の名前が出た時、市の心臓は僅かに跳ねた。それらの薬草の匂いは、確かにあの香りに含まれていた。

「そういった香りは、誰がどのような目的で使うのでしょうか?」

 市が尋ねると、主人は顔色を変えた。
「さあね。ただ、あまり表沙汰にはならねぇ筋の者たちが使うって話だ。何かの儀式に使うとか、あるいは…」

 主人はそこで言葉を濁した。だが、市には分かった。それは、人を害する目的で使われる香なのだ。おそらく、標的の意識を奪ったり、抵抗力を削いだりするために。

 香の手がかりと並行して、市は蔵で感じた「音」と「感触」からも情報を引き出そうとした。蔵の床に感じた複数の足跡の感触。それは、草鞋や下駄といった庶民的な履き物ではない。布や革でできた、足音を立てにくい、しかし滑りにくい特殊な履き物だったようだ。そして、足跡の数。少なくとも二人、あるいはそれ以上の人数がいた可能性がある。

 蔵の奥で感じた「音の歪み」は、物が急に消えたことによる空気の反響の変化だろう。そこには何が置かれていたのだろうか? そして、壁に残された微細な擦過痕。それは、鋭利な金属が擦れたような感触だった。刀か、あるいは何か別の道具か。

 次に、市は情報収集のために、馴染みの小料理屋「ほっこり庵」を訪れた。ここは、女将のお清さんが作る薬膳料理が評判で、町の様々な人間が出入りする賑やかな場所だ。市も時折ここを訪れ、お清さんと話したり、簡単な薬膳料理を振る舞ったりしていた。

「いらっしゃい、市さん! 今日はどうしたんだい? いつもより少し顔色が冴えないようだね」

 お清さんは温かい声で市を迎えてくれた。市はお清さんに、和泉屋で起こった事件のこと、そして自身が捜査に協力していることを話した。お清さんは驚いた様子だったが、市の話を聞くと、真剣な顔になった。

「和泉屋さんの事件かい… 町じゃあ持ちきりだよ。旦那様が大変な怪我をしたって聞いて、皆心配してるんだ。まさか、市さんがそんなことに巻き込まれるなんて…」

 市は、お清さんに頼み、店に集まる客たちの会話に耳を澄ませた。様々な噂が飛び交っている。盗まれたのは、とんでもない価値のあるものらしいとか、旦那様は何か大きな秘密を抱えていたらしいとか。

 市は、お清さんに渡された温かい薬膳茶を啜りながら、尋ねた。
「お清さん、この辺りで、何か変わった連中の噂を聞きませんか? 例えば、夜中にこっそり動き回るとか、妙な匂いを使うとか…」

 お清さんは少し考え込み、小声になった。
「変わった連中、ねぇ… 最近、ちょいと物騒な話を聞くようになったよ。なんでも、『無音組(むおんぐみ)』って呼ばれてる連中がいるらしいんだ」

「無音組…」

 市の耳がピンと張った。その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「ええ。なんでも、彼らは足音を一切立てずに忍び込むとか。壁をまるで地面のように歩くって話も聞くよ。そして… 標的に気づかれずに、何かしらの方法で意識を奪うんだとか。まさか、和泉屋さんの事件と関係があるのかい?」

 お清さんの言葉は、市が蔵で感じ取った手掛かりと見事に一致した。足音を立てない特殊な履物。そして、標的の意識を奪うような特殊な香。

「その『無音組』について、もう少し詳しく知っていることはありませんか? 彼らは何を目的としている集団なのですか?」

 市が尋ねると、お清さんは首を横に振った。
「いやあ、詳しいことは分からないんだ。ただ、裏社会で暗躍してるって話で… 上等な着物を着た武士や商人なんかが、彼らに仕事を依頼してるって噂も聞くよ。金のためか、恨みのためか… あるいは、もっと別の何か…」

 無音組。その名は、市が掴んだ点と点を線で結びつける、決定的な情報だった。彼らが、あの特殊な香と、足音を立てない技術を使って和泉屋に忍び込み、徳兵衛を襲い、取引台帳を奪った可能性が高い。

 盗まれた「取引台帳」。それは、単なる金の取引記録ではないだろう。徳兵衛があれほど恐れていたのは、その台帳に記された内容が、彼自身の、あるいは誰かの命に関わるような秘密だったからだ。そして、無音組はその秘密を手に入れるために動いたのだ。

 市は、お清さんに礼を言い、ほっこり庵を後にした。外は既に夜の帳が下りている。闇の中を歩きながら、市の頭の中では、和泉屋の蔵で感じた情報と、無音組の噂が繋がっていた。

 あの香りの成分。蔵に残された足跡の感触。壁の擦過痕。それらは全て、無音組という存在を指し示している。彼らは、単なる盗賊ではない。組織的な動きをする、恐るべき敵だ。そして、彼らが盗んだ取引台帳は、江戸を揺るがすほどの重大な秘密に関わっているのかもしれない。

 市は、これから自分が立ち向かう相手が、どれほど危険であるかを肌で感じていた。しかし、同時に、自身の感覚が、この闇の中に潜む真実を明らかにする鍵となるという確信も深まっていた。

 徳兵衛を襲い、恐怖に陥れた無音組。彼らの手口と目的を明らかにすることが、事件解決への道標となる。そして、その道標は、音と匂い、そして肌で感じる微かな情報の中にあるのだ。

 市は、闇夜の中、感覚を研ぎ澄ませながら、次の行動を決意した。無音組という見えざる刺客。彼らの術を見破るために、市独自の捜査が、今、本格的に始まる。
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