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第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~
第十三話 運河に潜む絡繰り
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深川の夜は、昼間の活気とは異なる、重く湿った空気を纏っていた。
市と木暮同心、そして奉行所の者たちは、市の聴覚が絞り込んだ、運河沿いの古びた倉庫周辺に身を潜めていた。材木がうず高く積まれた陰、水面に揺れる月の光。
市の耳には、かすかな潮の音と、そして、あの「ピィー」という不自然な音が、以前よりもはっきりと、しかし注意深く聴かなければ聞き逃してしまうほどの音量で響いてくる。
「間違いない。あの音は、あの倉庫の中からだ」
市は、木暮同心に小声で告げた。鼻腔には、あの甘く淀んだ香りが、倉庫の換気口のような場所から漏れてくるのを感じる。影の組織は、この倉庫に潜伏し、何かを企んでいる。
「奴らが動き始めたら、合図を送る。決して無茶はするな」
木暮同心は市の肩に手を置き、緊張した面持ちで言った。市は頷く。
今回の相手は、無音組よりも上位の存在だ。
彼らが仕掛ける「絡繰り」は、きっと想像以上に巧妙だろう。
どれほど時間が経っただろうか。倉庫の中から漏れてくる音が、僅かに変化した。あの「歯車が回るような音」が、以前よりも大きくなり、規則的に響き始めたのだ。そして、それに合わせて、あの「ピィー」という音も、より短い間隔で鳴り始めた。それは、影の組織が作業を開始した合図だ。
「始まります… 『絡繰り』が動き始めました…」
市は、木暮同心に合図を送った。木暮同心は、部下たちに指示を出す。緊迫した空気が張り詰める。
市の指示に基づき、奉行所の者たちが倉庫を取り囲んだ。
そして、木暮同心と共に、市は倉庫の入り口へと静かに近づいた。
木製の扉の隙間から漏れてくる光と、あの甘く淀んだ香りの濃度が上がっているのが分かる。そして、中から響いてくる、「歯車が回るような音」と、低いうめき声のようなもの。
「踏み込むぞ!」
木暮同心の声と共に、奉行所の者たちが一斉に倉庫の扉を破って突入した。市は、木暮同心に手を引かれ、倉庫の中へと入った。
倉庫の中は、予想以上に広かった。積み上げられた材木の隙間、奥には作業台のようなものが見える。そして、目にこそ見えないが、市の感覚は、複数の人の気配と、あの甘く淀んだ香りが充満していることを捉えた。
「動くな! 奉行所だ!」
木暮同心の声が響き渡る。倉庫の中にいた影の組織の者たちが、一瞬動きを止める気配を感じた。しかし、すぐに、慌ただしい物音と、低い声での指示が飛び交い始めた。
市の鼻腔に、あの甘く淀んだ香りが強く流れ込んできた。まるで、その香りが、市たちの動きを鈍らせようとしているかのようだ。しかし、市にはもう、その香りに惑わされることはない。それは、師の死の時に感じた香り、そして、影の組織の非道な手口を象徴する香りだ。
市の耳は、影の組織のメンバーたちの足音を捉えようと研ぎ澄まされた。しかし、彼らの足音は、まるで地面から浮いているかのように微かだ。無音組と同様、足音を立てない「術」を使っている。
しかし、市には、彼らが纏う甘く淀んだ香りの濃淡の変化、そして、空気の微細な動き、衣擦れの音、そして、彼らが発する微かな息遣いが聞こえる。
それらを総合することで、市は彼らのおおよその位置と動きを把握する。
「木暮さん! 右奥に二人! 左手、材木の陰に一人!」
市は、自身の感覚が捉えた情報を素早く木暮同心に伝える。木暮同心は、市の指示に従い、部下たちに指示を出す。
影の組織のメンバーたちは、市の指示に驚いているようだ。自分たちの気配を、盲目の按摩師に見抜かれるとは、思ってもみなかったのだろう。
彼らは、さらに香りを強く散布しようとする。甘く淀んだ香りが、倉庫全体に充満する。視界が効く者ならば、この香りで意識を朦朧とさせられるだろう。しかし、市には関係ない。
「あの音… 歯車が回るような音は、どこからだ?」
市は、あの音の発生源を探る。音は、倉庫の奥、作業台の辺りから強く響いている。そして、そこからは、微かに、金属と油の匂い、そして、盗まれた「絡繰り」の道具から漂ってくるであろう、材木と薬品のような匂いが混じり合っている。
市は、音と匂いを頼りに、作業台の方向へと進んだ。足元に積まれた材木に躓かないよう、触覚で地面の感触を確かめながら。木暮同心も、市の傍らで警戒している。
やがて、市の指先が、作業台に触れた。そして、その上で何かが動いている感触。
それは、複雑な歯車が噛み合い、微細な動きを繰り返している感触だ。そして、そこからは、盗まれた「絡繰り」の道具と同じ匂いが強く漂っている。
「これです… 盗まれた絡繰り道具が、ここで使われている…!」
市が叫んだ。その瞬間、傍らにいた影の組織のメンバーが、市に襲いかかってくる気配を感じた。微かな衣擦れの音、そして、急速に近づいてくる、あの甘く淀んだ香り。
市は咄嗟に身を翻した。同時に、傍らにあった材木の切れ端を掴み、地面に叩きつけた。ドス! と鈍い音が響く。影の組織は音を嫌う。彼らの動きが一瞬止まる。
その隙に、木暮同心が影の組織のメンバーに斬りかかった。金属がぶつかり合う音、怒声。倉庫の中は、混乱に包まれる。
市は、混乱の中で、あの「歯車が回るような音」が、以前よりも速く、激しくなっていることに気づいた。影の組織は、絡繰り道具を使って、何かを急いで完成させようとしているのだ。
そして、あの「ピィー」という音も、より高い音程で、短い間隔で鳴り始めた。それは、危険を知らせる合図なのか、あるいは、何らかの「絡繰り」を発動させるための音なのか。
「急いでください! 絡繰りを止めるのです!」
市は、木暮同心に叫んだ。このままでは、影の組織の企みが実行されてしまうかもしれない。
混乱と香りの充満する倉庫の中、市の五感だけが、真実の糸口を捉え続けていた。影の組織が仕掛ける「絡繰り」は、物理的な力だけでなく、音と香りを駆使した、見えない罠だ。
しかし、市には、その罠を見抜く力がある。深川の闇に潜む、影の組織との緊迫した「聴戦」が続いていた。
市と木暮同心、そして奉行所の者たちは、市の聴覚が絞り込んだ、運河沿いの古びた倉庫周辺に身を潜めていた。材木がうず高く積まれた陰、水面に揺れる月の光。
市の耳には、かすかな潮の音と、そして、あの「ピィー」という不自然な音が、以前よりもはっきりと、しかし注意深く聴かなければ聞き逃してしまうほどの音量で響いてくる。
「間違いない。あの音は、あの倉庫の中からだ」
市は、木暮同心に小声で告げた。鼻腔には、あの甘く淀んだ香りが、倉庫の換気口のような場所から漏れてくるのを感じる。影の組織は、この倉庫に潜伏し、何かを企んでいる。
「奴らが動き始めたら、合図を送る。決して無茶はするな」
木暮同心は市の肩に手を置き、緊張した面持ちで言った。市は頷く。
今回の相手は、無音組よりも上位の存在だ。
彼らが仕掛ける「絡繰り」は、きっと想像以上に巧妙だろう。
どれほど時間が経っただろうか。倉庫の中から漏れてくる音が、僅かに変化した。あの「歯車が回るような音」が、以前よりも大きくなり、規則的に響き始めたのだ。そして、それに合わせて、あの「ピィー」という音も、より短い間隔で鳴り始めた。それは、影の組織が作業を開始した合図だ。
「始まります… 『絡繰り』が動き始めました…」
市は、木暮同心に合図を送った。木暮同心は、部下たちに指示を出す。緊迫した空気が張り詰める。
市の指示に基づき、奉行所の者たちが倉庫を取り囲んだ。
そして、木暮同心と共に、市は倉庫の入り口へと静かに近づいた。
木製の扉の隙間から漏れてくる光と、あの甘く淀んだ香りの濃度が上がっているのが分かる。そして、中から響いてくる、「歯車が回るような音」と、低いうめき声のようなもの。
「踏み込むぞ!」
木暮同心の声と共に、奉行所の者たちが一斉に倉庫の扉を破って突入した。市は、木暮同心に手を引かれ、倉庫の中へと入った。
倉庫の中は、予想以上に広かった。積み上げられた材木の隙間、奥には作業台のようなものが見える。そして、目にこそ見えないが、市の感覚は、複数の人の気配と、あの甘く淀んだ香りが充満していることを捉えた。
「動くな! 奉行所だ!」
木暮同心の声が響き渡る。倉庫の中にいた影の組織の者たちが、一瞬動きを止める気配を感じた。しかし、すぐに、慌ただしい物音と、低い声での指示が飛び交い始めた。
市の鼻腔に、あの甘く淀んだ香りが強く流れ込んできた。まるで、その香りが、市たちの動きを鈍らせようとしているかのようだ。しかし、市にはもう、その香りに惑わされることはない。それは、師の死の時に感じた香り、そして、影の組織の非道な手口を象徴する香りだ。
市の耳は、影の組織のメンバーたちの足音を捉えようと研ぎ澄まされた。しかし、彼らの足音は、まるで地面から浮いているかのように微かだ。無音組と同様、足音を立てない「術」を使っている。
しかし、市には、彼らが纏う甘く淀んだ香りの濃淡の変化、そして、空気の微細な動き、衣擦れの音、そして、彼らが発する微かな息遣いが聞こえる。
それらを総合することで、市は彼らのおおよその位置と動きを把握する。
「木暮さん! 右奥に二人! 左手、材木の陰に一人!」
市は、自身の感覚が捉えた情報を素早く木暮同心に伝える。木暮同心は、市の指示に従い、部下たちに指示を出す。
影の組織のメンバーたちは、市の指示に驚いているようだ。自分たちの気配を、盲目の按摩師に見抜かれるとは、思ってもみなかったのだろう。
彼らは、さらに香りを強く散布しようとする。甘く淀んだ香りが、倉庫全体に充満する。視界が効く者ならば、この香りで意識を朦朧とさせられるだろう。しかし、市には関係ない。
「あの音… 歯車が回るような音は、どこからだ?」
市は、あの音の発生源を探る。音は、倉庫の奥、作業台の辺りから強く響いている。そして、そこからは、微かに、金属と油の匂い、そして、盗まれた「絡繰り」の道具から漂ってくるであろう、材木と薬品のような匂いが混じり合っている。
市は、音と匂いを頼りに、作業台の方向へと進んだ。足元に積まれた材木に躓かないよう、触覚で地面の感触を確かめながら。木暮同心も、市の傍らで警戒している。
やがて、市の指先が、作業台に触れた。そして、その上で何かが動いている感触。
それは、複雑な歯車が噛み合い、微細な動きを繰り返している感触だ。そして、そこからは、盗まれた「絡繰り」の道具と同じ匂いが強く漂っている。
「これです… 盗まれた絡繰り道具が、ここで使われている…!」
市が叫んだ。その瞬間、傍らにいた影の組織のメンバーが、市に襲いかかってくる気配を感じた。微かな衣擦れの音、そして、急速に近づいてくる、あの甘く淀んだ香り。
市は咄嗟に身を翻した。同時に、傍らにあった材木の切れ端を掴み、地面に叩きつけた。ドス! と鈍い音が響く。影の組織は音を嫌う。彼らの動きが一瞬止まる。
その隙に、木暮同心が影の組織のメンバーに斬りかかった。金属がぶつかり合う音、怒声。倉庫の中は、混乱に包まれる。
市は、混乱の中で、あの「歯車が回るような音」が、以前よりも速く、激しくなっていることに気づいた。影の組織は、絡繰り道具を使って、何かを急いで完成させようとしているのだ。
そして、あの「ピィー」という音も、より高い音程で、短い間隔で鳴り始めた。それは、危険を知らせる合図なのか、あるいは、何らかの「絡繰り」を発動させるための音なのか。
「急いでください! 絡繰りを止めるのです!」
市は、木暮同心に叫んだ。このままでは、影の組織の企みが実行されてしまうかもしれない。
混乱と香りの充満する倉庫の中、市の五感だけが、真実の糸口を捉え続けていた。影の組織が仕掛ける「絡繰り」は、物理的な力だけでなく、音と香りを駆使した、見えない罠だ。
しかし、市には、その罠を見抜く力がある。深川の闇に潜む、影の組織との緊迫した「聴戦」が続いていた。
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