『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

文字の大きさ
28 / 36
第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第二十八話 地下への潜行、絡繰りの呼吸

しおりを挟む
 井伊家上屋敷の井戸が、影の組織のアジトへの隠し通路である可能性が高い。

 市と木暮同心は、井伊家の家臣である山田平蔵という心強い協力者を得ていた。山田から提供された井伊家内部、特に地下に関する情報は、地下アジトへの潜入計画を立てる上で非常に役立った。

「井戸から地下室へ繋がる通路は、普段は塞がれています。しかし、特定の場所に仕掛けがあり、それを作動させれば通路が開くはずです」

 山田平蔵は、自身が知る井伊家上屋敷の秘密を市と木暮同心に伝えた。彼の声は真摯で、提供される情報も具体的だ。市は、山田の言葉から彼の誠実さを感じ取っていた。命を救われた恩、そして、井伊家のために影の組織と戦おうとする彼の姿に、市は感謝と信頼を深めていた。

 市と木暮同心は、山田から得た情報と、市の五感による情報(井戸からの音、匂い、振動)を組み合わせて、地下アジトへの潜入計画を練った。深夜、井伊家上屋敷の警備が手薄になる時間帯を狙う。山田は、井戸の仕掛けの場所と作動方法を市と木暮同心に伝えた。

 夜陰に紛れ、市と木暮同心、そして山田平蔵は、井伊家上屋敷の井戸へと近づいた。周囲は静寂に包まれているが、市の耳は、警備の侍の足音、風に揺れる木の葉の音、そして、井戸の底から微かに響く、あの不自然な「音」を捉えている。低く、規則的な響き。それは、影の組織が地下で活動している「絡繰り」の呼吸だ。

 山田平蔵の案内で、市と木暮同心は井戸の脇にある石畳の一角に近づいた。山田は、そこに特定の仕掛けがあることを市に伝えた。市の指先が、石畳の表面を慎重に探る。微かに、石畳の継ぎ目に不自然な隙間がある。そして、その隙間から、あの薬品のような匂いが、かすかに漏れてくる。
影の組織は、この仕掛けを使って出入りしているのだ。

 山田平蔵が、仕掛けを作動させた。石畳が、微かな音を立ててゆっくりと横にスライドし、暗い地下へと続く階段が現れた。

 湿った土と、あの薬品のような匂いが混じり合った空気が、地下から立ち上ってくる。そして、あの不自然な「音」が、以前よりも大きく響いてくる。それは、地下空間に反響し、複雑な響き方をしている。

「ここが、地下室への入り口です。中は暗く、足元が悪いのでご注意ください」
 山田平蔵が言った。彼は、市と木暮同心に続いて、地下へと降りようとする。

 市は、井戸の底から響いてくる音に耳を澄ませた。あの「音絡繰り」の音、そして、遠くで聞こえる「歯車が回るような音」。それは、古寺の蔵で聞いた音よりも、さらに深く、そして、数多くの歯車が複雑に噛み合っているような音だ。影の組織は、井伊家上屋敷の地下で、大規模な「絡繰り」を進めているのだ。

 地下への階段を降りる。空気は冷たく湿っており、鼻腔を薬品のような匂いが強く刺激する。視界は完全に閉ざされているが、市の五感は、地下通路の構造、壁の感触、足元の地面の感触を正確に捉える。閉鎖空間では、音の反響が市の感覚をより鋭敏にする。壁の素材、通路の広さ、曲がり角… 音の反響が、市に地下空間の地図を描き出す。

 地下通路を進むにつれて、あの不自然な「音」は大きくなる。そして、その音に混じって、かすかに、人の話し声、そして、特定の作業をしているような音(金属が擦れる音、何かを叩く音など)が聞こえてくる。影の組織のメンバーが、地下で活動している証拠だ。

 市の鼻腔は、地下通路に漂う様々な匂いを嗅ぎ分ける。湿った土の匂い、薬品の匂い、金属の匂い。そして、微かに、あの甘く淀んだ香りの澱み。影の組織が、この地下通路を移動している際に残した痕跡だ。

 円盤の符号が、地下通路の特定の場所を示しているように感じられる。分岐点、部屋の入り口… 符号のパターンと、地下通路の構造が符合する。円盤は、この地下アジトの地図であり、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の設計図の一部なのだ。

 地下通路は、予想以上に長く、複雑に入り組んでいた。影の組織は、この地下空間を巧妙に利用し、迷路のようにしている。
しかし、市の五感は、音、匂い、そして空気の流れの変化を頼りに、正しい方向を見失わない。

 しばらく進むと、あの「歯車が回るような音」が、以前よりも近くで聞こえてくるようになった。

 そして、薬品のような匂いと、血のような匂いが、より強く漂ってくる。それは、影の組織が「絡繰り」を製造している場所に近いことを示唆しており、生体に関わる非道なものである可能性を改めて感じさせる。

 地下通路の奥から、影の組織のメンバーらしき気配が複数感じられる。彼らは、この通路の奥で警戒しているのかもしれない。緊張感が高まる。井伊家上屋敷の地下に隠された、影の組織のアジトはもう目の前だ。

 山田平蔵は、市の傍らで、静かに息を潜めている。彼の体からは、微かな緊張と、そして、市や木暮同心を案じているような気配が伝わってくる。彼は、本当に心強い味方だ。

 市は、自身の五感を信じ、木暮同心、そして山田平蔵と共に、地下通路の奥へと進んだ。

 影の組織が仕掛ける「絡繰り」の核心、そして、彼らの非道な企みが、今、白日の下に晒されようとしている。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。 飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。 大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。 愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。 だが、彼女は、立ち上がる! 人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。 奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ! これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!  ――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...