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第三章:京への帰還、迫る刺客の刃
第九話:薬師の老婆
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夜明け前の京の町を抜け、さつきはひたすら南の山を目指した。
小夜の命が危ない。その事実だけが、彼女の足を動かす原動力となっていた。
まだ暗闇に包まれた山道は、獣の気配や、足元の不安定な土に、常に危険が潜んでいる。しかし、さつきは迷うことなく、玄心から渡された地図を頼りに、険しい道を進んだ。
山に入るにつれて、空気はひんやりと肌を刺し、草木の匂いが濃くなった。時折、毒々しい色をした植物が足元に生えているのを目にする。玄心が言っていた「毒の薬草が多く自生する山」という言葉が、さつきの頭をよぎった。不用意に触れれば、自分も小夜と同じ目に遭うかもしれない。
日の出の時刻が近づくにつれて、空の東の端が、微かに白み始めた。さつきは、残された時間が少ないことを悟り、さらに速度を上げた。彼女の全身から汗が噴き出し、肺は焼けつくようだったが、立ち止まるわけにはいかない。小夜の顔が、瞼の裏に焼き付いている。
獣道のような細い道を分け入り、玄心が地図に示した場所に近づくと、周囲の草木が一段と鬱蒼としてきた。ひときわ大きな岩がそびえるその場所は、明らかに人が踏み入れない聖域のような雰囲気を醸し出していた。
その岩の陰に、小さな庵があるのをさつきは見つけた。こんな山奥に、誰が住んでいるのだろうか。警戒しながら庵に近づくと、中から微かな灯りが漏れている。
「ごめんください」
さつきは、庵の戸を叩いた。返事はない。しかし、中から人の気配がする。
意を決して戸を開けると、庵の中は、薬草の独特な匂いで満ちていた。壁には様々な薬草が吊るされ、棚には奇妙な瓶が並んでいる。その中央には、小さな囲炉裏があり、火が静かに燃えていた。そして、その囲炉裏の傍らで、一人の老婆が、背を丸めて座っていた。
老婆は、深く顔に刻まれた皺と、白髪混じりの髪を、古びた手ぬぐいで覆っていた。彼女の目は、さつきをじっと見つめた。その眼差しは、森の奥深くを見通すような、鋭い輝きを放っていた。
「おや、珍しい客じゃ。こんな山奥まで、何の用じゃな」
老婆の声は、年の割にしっかりとしていた。
さつきは、小夜が紅蜘蛛の毒に侵されたこと、そして、玄心から解毒薬の材料となる薬草を採りに来たことを説明した。
地図を老婆に見せると、老婆は目を細めてそれを見た。
「ふむ…玄心坊主か。あやつも、相変わらず忙しいことじゃ。そして、お主が探しておる薬草は、この庵の裏手にある崖に生えておる。日の出とともに花を開き、日没と共にしぼむ、幻の花じゃ」
老婆は、そう言って、静かに立ち上がった。その動きには、老いを感じさせない力強さがあった。
「あの崖に…!?」
さつきは驚いた。庵の裏手には、見上げるような切り立った崖がそびえていたのだ。
「うむ。しかし、あの崖は危険じゃ。並の者では、たどり着くことすら叶わぬ。だが…お主には、見覚えがあるのう」
老婆は、そう言うと、さつきの顔をじっと見つめた。その瞳には、何かを探るような光が宿っていた。
「わしは、綾小路の姫様の顔を知っておる。お主、もしや…」
老婆の言葉に、さつきは息を呑んだ。まさか、こんな山奥で、自分の素性を知る者に会うとは。
「なぜ、私のことを…」
「昔、綾小路様のお屋敷に、薬草を届けに参ったことがあった。その時に、まだ幼かったお主の姿を、一度だけ見かけたのじゃ。しかし…お主は、その薬草を何に使うのか?」
老婆は、再びさつきの顔を覗き込むように尋ねた。さつきは、小夜を救うためだと答えた。
「そうか…まさか、綾小路の姫様が、このような道を歩むことになろうとはのう。世の移ろいは、誠に早いものじゃ」
老婆は、どこか遠い目をして呟いた。そして、さつきの目を見て、静かに言った。
「その薬草は、確かに毒を解き、気を整える力を持つ。しかし、その力は、使い方を誤れば、刃にもなる。姫様のお母君も、薬の道を深く究めておられた。この山にも、何度か足を運んでおられたのじゃよ」
老婆の言葉に、さつきの心臓が大きく跳ねた。母が、この山に? そして、薬の道も究めていたと? さつきは、母が雅な公家として生きてきたとばかり思っていたが、その裏に、そのような一面があったとは、夢にも思わなかった。
「母が…薬の道を…?」
さつきは、驚きを隠せないでいた。
「うむ。綾小路の血筋には、古くから、薬の知識と、人の心を見通す力が受け継がれておると、伝え聞いておる。お主の母君も、その力の一端を秘めておられた。この庵に伝わる、毒に強い薬草の知識も、母君から学んだものじゃ」
老婆は、そう言って、さつきに一冊の古びた巻物を手渡した。
「これは…?」
「綾小路家に代々伝わる、薬の秘伝書じゃ。お主の母君が、ここに置いていかれたものじゃよ。いつか、お主がこの道を選ぶ時が来たら、渡すようにと」
さつきは、震える手で巻物を受け取った。母が残した、もう一つの遺産。それは、彼女の知らなかった、母の新たな一面を示すものであった。
東の空が、さらに明るくなり始めた。日の出が近い。
「さあ、急ぐのじゃ。幻の花は、間もなく咲き始める」
老婆が促した。
さつきは、巻物を大切に懐にしまい、老婆に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ずや、薬草を手に入れて参ります」
さつきは、庵を飛び出し、老婆に教えられた崖へと向かった。母の秘めたる一面、そして、受け継がれた薬の知識。それは、小夜を救う希望であると共に、さつき自身のルーツを辿る、新たな手がかりでもあった。
切り立った崖を前に、さつきは改めて気を引き締めた。この先に、小夜の命を救う薬草が、そして、母の面影が、きっと待っている。
小夜の命が危ない。その事実だけが、彼女の足を動かす原動力となっていた。
まだ暗闇に包まれた山道は、獣の気配や、足元の不安定な土に、常に危険が潜んでいる。しかし、さつきは迷うことなく、玄心から渡された地図を頼りに、険しい道を進んだ。
山に入るにつれて、空気はひんやりと肌を刺し、草木の匂いが濃くなった。時折、毒々しい色をした植物が足元に生えているのを目にする。玄心が言っていた「毒の薬草が多く自生する山」という言葉が、さつきの頭をよぎった。不用意に触れれば、自分も小夜と同じ目に遭うかもしれない。
日の出の時刻が近づくにつれて、空の東の端が、微かに白み始めた。さつきは、残された時間が少ないことを悟り、さらに速度を上げた。彼女の全身から汗が噴き出し、肺は焼けつくようだったが、立ち止まるわけにはいかない。小夜の顔が、瞼の裏に焼き付いている。
獣道のような細い道を分け入り、玄心が地図に示した場所に近づくと、周囲の草木が一段と鬱蒼としてきた。ひときわ大きな岩がそびえるその場所は、明らかに人が踏み入れない聖域のような雰囲気を醸し出していた。
その岩の陰に、小さな庵があるのをさつきは見つけた。こんな山奥に、誰が住んでいるのだろうか。警戒しながら庵に近づくと、中から微かな灯りが漏れている。
「ごめんください」
さつきは、庵の戸を叩いた。返事はない。しかし、中から人の気配がする。
意を決して戸を開けると、庵の中は、薬草の独特な匂いで満ちていた。壁には様々な薬草が吊るされ、棚には奇妙な瓶が並んでいる。その中央には、小さな囲炉裏があり、火が静かに燃えていた。そして、その囲炉裏の傍らで、一人の老婆が、背を丸めて座っていた。
老婆は、深く顔に刻まれた皺と、白髪混じりの髪を、古びた手ぬぐいで覆っていた。彼女の目は、さつきをじっと見つめた。その眼差しは、森の奥深くを見通すような、鋭い輝きを放っていた。
「おや、珍しい客じゃ。こんな山奥まで、何の用じゃな」
老婆の声は、年の割にしっかりとしていた。
さつきは、小夜が紅蜘蛛の毒に侵されたこと、そして、玄心から解毒薬の材料となる薬草を採りに来たことを説明した。
地図を老婆に見せると、老婆は目を細めてそれを見た。
「ふむ…玄心坊主か。あやつも、相変わらず忙しいことじゃ。そして、お主が探しておる薬草は、この庵の裏手にある崖に生えておる。日の出とともに花を開き、日没と共にしぼむ、幻の花じゃ」
老婆は、そう言って、静かに立ち上がった。その動きには、老いを感じさせない力強さがあった。
「あの崖に…!?」
さつきは驚いた。庵の裏手には、見上げるような切り立った崖がそびえていたのだ。
「うむ。しかし、あの崖は危険じゃ。並の者では、たどり着くことすら叶わぬ。だが…お主には、見覚えがあるのう」
老婆は、そう言うと、さつきの顔をじっと見つめた。その瞳には、何かを探るような光が宿っていた。
「わしは、綾小路の姫様の顔を知っておる。お主、もしや…」
老婆の言葉に、さつきは息を呑んだ。まさか、こんな山奥で、自分の素性を知る者に会うとは。
「なぜ、私のことを…」
「昔、綾小路様のお屋敷に、薬草を届けに参ったことがあった。その時に、まだ幼かったお主の姿を、一度だけ見かけたのじゃ。しかし…お主は、その薬草を何に使うのか?」
老婆は、再びさつきの顔を覗き込むように尋ねた。さつきは、小夜を救うためだと答えた。
「そうか…まさか、綾小路の姫様が、このような道を歩むことになろうとはのう。世の移ろいは、誠に早いものじゃ」
老婆は、どこか遠い目をして呟いた。そして、さつきの目を見て、静かに言った。
「その薬草は、確かに毒を解き、気を整える力を持つ。しかし、その力は、使い方を誤れば、刃にもなる。姫様のお母君も、薬の道を深く究めておられた。この山にも、何度か足を運んでおられたのじゃよ」
老婆の言葉に、さつきの心臓が大きく跳ねた。母が、この山に? そして、薬の道も究めていたと? さつきは、母が雅な公家として生きてきたとばかり思っていたが、その裏に、そのような一面があったとは、夢にも思わなかった。
「母が…薬の道を…?」
さつきは、驚きを隠せないでいた。
「うむ。綾小路の血筋には、古くから、薬の知識と、人の心を見通す力が受け継がれておると、伝え聞いておる。お主の母君も、その力の一端を秘めておられた。この庵に伝わる、毒に強い薬草の知識も、母君から学んだものじゃ」
老婆は、そう言って、さつきに一冊の古びた巻物を手渡した。
「これは…?」
「綾小路家に代々伝わる、薬の秘伝書じゃ。お主の母君が、ここに置いていかれたものじゃよ。いつか、お主がこの道を選ぶ時が来たら、渡すようにと」
さつきは、震える手で巻物を受け取った。母が残した、もう一つの遺産。それは、彼女の知らなかった、母の新たな一面を示すものであった。
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「ありがとうございます。必ずや、薬草を手に入れて参ります」
さつきは、庵を飛び出し、老婆に教えられた崖へと向かった。母の秘めたる一面、そして、受け継がれた薬の知識。それは、小夜を救う希望であると共に、さつき自身のルーツを辿る、新たな手がかりでもあった。
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