【完結】『月の影、刃の舞 ~女武芸者の隠された使命~』

月影 朔

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第三章:京への帰還、迫る刺客の刃

第十話:母の面影

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 夜明けの山は、まだ深い眠りの中にあったが、東の空は、かすかに茜色に染まり始めていた。

 さつきは、老婆に教えられた崖の前に立っていた。見上げるほどの断崖絶壁。そこには、わずかな岩の突起と、細い蔦が絡みついているばかりで、足場と呼べるものはほとんどない。しかし、この崖のどこかに、小夜を救う「幻の花」が咲くのだ。

 さつきは、懐にしまった母の秘伝書を強く握りしめた。母もまた、この険しい山に分け入り、薬の知識を深めていたという。その事実が、さつきの心を強く支えた。

 一歩、また一歩。さつきは、注意深く足場を探しながら、垂直に近い崖を登り始めた。足元には、脆い岩が崩れ落ち、小石が音を立てて谷底へと吸い込まれていく。

 しかし、さつきの動きは、迷いなく、そしてしなやかだった。鍛え抜かれた体幹と、武芸者として培われた平衡感覚が、彼女の命綱となる。

 どれほどの時間が経っただろうか。肌を掠める冷たい風が、徐々に生温かいものへと変わり、東の空からは、眩い光が差し込み始めた。日の出だ。

 その時、さつきの視界の隅で、微かな輝きが捉えられた。岩の隙間から、まるで星の瞬きのように、小さな花が咲き始めている。それは、薄い藤色をした、まるで蝶の羽のような花びらを持つ、可憐な花だった。

「これだ…!」

 さつきは、慎重にその花へと手を伸ばした。足場がほとんどない場所だ。一歩間違えれば、命を落とす。しかし、小夜を救うためには、この花を手に入れなければならない。

 ようやく花に手が届いた時、さつきは、その花の根元に、小さな木札が結びつけられているのを見つけた。

 そこには、見覚えのある達筆な文字で、歌が詠まれていた。

「朝露に ひそかに咲きて 命繋ぐ 藤色の花に 母の面影」

 それは、まぎれもなく母の筆跡だった。
さつきは、思わず目を見開いた。

 母は、この花を求めて、この険しい崖を登ったのだ。そして、この歌を詠んだ。それは、母がこの花に、自らの姿を重ねていたのかもしれない。幼い頃、病弱だったさつきのために、母がこの花を求めていたのだろうか。

 その歌を読んだ瞬間、さつきの脳裏に、母の優しい笑顔が鮮明に蘇った。いつも穏やかで、優雅な母。しかし、その奥には、病に苦しむ娘を案じ、時には危険を顧みず薬草を求める、強い意志を秘めていたのだ。

 小夜を救うために、この崖を登っている今の自分と、母の姿が重なった。
復讐に囚われ、ただ剣を振るうことだけを考えていたさつきの心に、温かい光が灯った。母は、人の命を救うために、薬の道を究めていた。その想いは、今、さつきの中で、確かに息づいている。

 さつきは、丁寧に花を摘み取ると、懐に大切にしまった。そして、再び木札に目をやる。

「母上…」

 さつきの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみだけではない、母への深い愛情と、自らの使命を再確認した、確かな涙であった。

 崖を降り、庵に戻ると、老婆は囲炉裏の傍らで、静かに茶を点てていた。

「無事に戻ったようじゃな」
 老婆は、さつきの手に握られた花を見て、満足そうに頷いた。

「はい。お陰様で。この花に…母の歌が結ばれていました」
 さつきは、摘み取った花と、木札を老婆に見せた。

 老婆は、木札の歌を読み、目を細めた。
「そうか…やはり、母君は、この花に、お主への想いを込めていたのじゃな。この花は、病を癒やすだけでなく、人の心にも力を与える、まことに不思議な力を持つ花じゃ」

 老婆の言葉に、さつきは深く頷いた。
「この秘伝書も…母が私に残してくれたものだと、教えてくださり、ありがとうございます」

 さつきは、懐から取り出した秘伝書を、改めて見つめた。そこには、母の面影が、確かに宿っているように感じられた。

「母君は、お主が剣の道を進むことを、決して反対はしておられなかった。しかし、剣は人を傷つけるもの。母君は、お主が、いつか剣を振るう意味を、深く考える日が来ることを願っておられたのじゃろう」

 老婆の言葉が、さつきの心に深く染み渡った。復讐のためだけに振るっていた剣。しかし、今、この山で、母の想いに触れたことで、その剣は、新たな意味を持つようになった。小夜を救うため、そして、理不尽な暴力に苦しむ人々を守るために。

 その時、庵の外から、足音が近づいてくるのが聞こえた。

「来たようじゃな、玄心坊主じゃろう」
 老婆が言った。

 やがて、戸が開き、玄心が姿を現した。彼の手には、いくつかの薬草が入った袋が握られている。

「皐月殿、無事であったか。そして、幻の花も手に入れたようだな」
 玄心は、さつきの手に握られた花を見て、安堵の表情を浮かべた。

「はい。お陰様で。さあ、玄心殿。小夜を…」
 さつきは、急いで玄心に花を差し出した。

「うむ。すぐに調合しよう」

 玄心は、老婆の囲炉裏の傍らに座り、素早く薬草の調合に取り掛かった。その手つきは、淀みなく、まるで長年の修練を積んだ職人のようであった。

 さつきは、母の面影を感じさせる秘伝書を胸に抱きしめ、玄心の調合を見守った。小夜の命が救われる。その希望が、さつきの心を温かく包み込んでいた。母が残してくれた想いと知識が、今、小夜の命を救う力となる。

 それは、さつきにとって、何よりも尊い、母との再会であった。
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