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20 ◇知らなかった世界
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一太の住んでいるというアパートまで、しんどそうな一太を支えるように歩いてきた晃は、その建物を見上げて言葉を失ってしまった。まずは外観に驚いた。二階建てだが、二階へ上がる階段は途中、段が無い。外壁はぽろぽろと崩れていて、ドアの塗装なども所々剥げていた。
「これは、ずいぶんと……」
言葉が継げずに建物を見上げていると、こっち、と手を引かれる。一応、石壁で仕切ってある敷地内に入っていった一太は、一階の真ん中の部屋の前で鍵を出した。
てっきり、家の周辺で、もういいと帰されると思っていた晃は、一太がここまで連れてきてくれたことに戸惑っていた。もういい、と言われても食い下がるつもりではあった。けれど、以前に住まいの話をしたとき、どこに住んでいるかを一太は頑なに教えてくれなかったから、余程隠したい事情があるのだと思ったのだ。
住んでいる建物が少し古びているのかもしれない、と予想はしていた。けれども、目の当たりにした建物は、そんな晃の予想の遥か上をいくものだった。
これは、人が住んでもいい建物だろうか。早く取り壊さないと危ないんじゃないか。
鍵を開けた一太は、晃に何も言わずに扉を開けて中へと入っていく。一太は相当、朦朧としているらしい。大学から徒歩で十分とかからない距離だったが、眠たそうにふらふらしていたというのに炎天下に歩かせてしまったことを、晃は今さらながらに後悔した。
止められなかったのをいいことに、一太について玄関へと足を踏み入れると、カーテンも無い狭い部屋の中は、サウナのようになっていた。
「いや、あっつ……」
すぐに冷房を、と晃が部屋を見回してみれば。
「え?」
その部屋に、電化製品と呼ばれる品物は、何も無かった。
エアコンはもちろん、テレビも冷蔵庫も電子レンジも洗濯機も、晃が、無いと生きていけないと思っている品が何もない。あるのは……。
カーテンの無いカーテンレールに、ジーパンが一枚と下着が二枚、半袖のTシャツ二枚に、春に着ていた襟つきのチェックのシャツが二枚、タオルが二枚干してある。玄関横の小さな流しにコップが一つ。歯ブラシと箸がコップに立ててあり、その横に散髪用の鋏と鏡とくし。固形の石鹸と小さな洗濯板。
そして、部屋の半分を使って布団が敷いてあり、空いている床に教科書と文房具が積まれていた。
「あ、いっちゃん……」
一太はさっさと靴を脱いで、所々変色している畳の部屋に上がると真っ直ぐ布団へ向かう。部屋に入った途端に更に噴き出した汗がぽたぽたと額を伝っていくが、窓を開けることもなく布団の上に乗ると、そのまま横になってしまった。タオルケットの上に乗ったので、汗がタオルケットを濡らしていく。
「いや。いやいやいやいや」
晃は慌てて窓を開けたが、一つしかない窓を開けた所で、真夏の昼に風が通る訳もない。部屋の温度は、何ほども変わらなかった。
「え? 待って。いっちゃん。無理。無理だよ。こんなとこで寝られる訳ないよ。え、待って? いっちゃん? 意識、意識ある? え、これ熱中症? き、救急車」
晃は震える手で救急車を呼んだ。自分も大汗をかきながら、ボランティア用の道具を入れたバッグから取り出した下敷きで必死に一太に風を送り続けた。熱い風がかき回されるだけだとしても、何もしないよりはましだと思ったのだ。
結局、救急車が到着して運ばれる間も一太は意識を取り戻すことなく、付き添いで救急車に乗った晃も目眩を起こし、軽い熱中症と脱水状態と診断されて点滴を受ける羽目になった。
外来患者用の処置室で点滴を繋がれている間にひと眠りして、起きた晃が目を開けると、不機嫌な次姉の顔が目に入った。
うわ。
慌てて目をつぶったが、はああ、とわざとらしい溜め息が聞こえて、仕方なくもう一度目を開く。
「脱水症状って、あんた馬鹿?」
「ごめん」
もともと心臓に欠陥を持って生まれた晃は、手術を受けて普通に生活ができるようになるまでの間、本当に些細なことにも気を付けて暮らしていた。心臓に負担をかけないようこまめに水分を取って、塩分を控えて、汗をかいたら冷えないようにしっかり拭いて。通常より風邪を引きやすく、動悸や息切れが酷い晃が、少しでも楽に暮らせるようにと家族は心を砕いて育ててくれた。
けれど、どんなに大人たちが気を付けていても、子どもというのは、楽しくなると約束を忘れてしまうことがある。周りにつられて走ってしまって、呼吸困難で倒れたことがあった。気温が低い季節や寒暖差が激しい季節は、どんなに気を付けていても、よく熱を出した。暑い夏にも、周りと一緒に汗だくで遊んだ後や水遊びの後に風邪を引いた。はらはらする場面は何度もあった。
晃は聞き分けのよい子どもで、時々、皆と同じにできないことで残念そうな顔を見せることはあっても、どうしてもやりたいと駄々をこねるような事はなかった。だから、家族は、たまの失敗は本当は怒らずに、次からは気を付けてね、と優しく言い聞かせたかったのだろう。それが、命に関わるものでなければ。
残念ながらどの失敗も、松島晃の命に関わる重大な体の不調をもたらした。何度も病院のベッドで目を覚まして、しんどいなか叱られて、ごめんなさい、と謝って。
そのうちに、物事が分かるようになった年齢には、ずいぶんと色んな事を、やる前から諦めてしまうようになった。自ら何かをやりたいとは言わない子どもになった。仕方ないことだったのかもしれない。やりたいと言っても、晃くんにはできないんだよ、と言われることが多く、あれも駄目これも駄目と言われていれば、やりたいと思うほど落胆は大きくなる。晃が自分を守るために編み出した心を守る方法だった。
ピアノを習ったのも書道を習ったのも親が連れていってくれたからだし、自分でしたいと言ったわけではなかった。ピアノはとても気に入って熱心に練習したが、それも根を詰めすぎると体に負担がかかるからいけない、と練習時間を減らされ、ピアニストの道は諦めた。
手術を終えて、何でも好きなことをしていいと言われても、その性質がすぐに変わるものでもなく。今までとさして変わらずに日々を過ごした。食事だけは、手術後に食べることができた濃い味のファーストフードにずいぶんとはまって、お小遣いを持って通ったこともあった。けれど、いくら何でもほどほどにしなさい、と言われれば、やはりあっさりと諦めた。
そんな風に淡々と生きてきた印象のある晃が、親や姉たちが勧めた家から通える大学の全てに首を振って拒絶し、一人暮らしをしたいと言ったときには、家族全員驚いたものだった。
しかも、短大でいいと言う。家族は、なりたい職業が保育士や幼稚園教諭ということにも驚いたが、その資格を得ることのできる四年制大学もあるのだからそちらにしたらよい、と言った父親に、資格さえ取れたらいいからそんなに長く通わなくていい、と自ら調べたことを述べた晃にも驚いた。
得意なピアノを生かせる職業を選んだと聞いて一応の納得はしたが、末っ子の晃に小さな子どもの相手ができるものだろうか、と家族は未だに疑いの気持ちでいる。
けれど、晃のほとんど初めての我儘を聞いてやろうと家族会議がまとまり、心配しながら一人暮らしを容認したのだったのだ。
そんな中始まった松島晃の大学生活である。半年も経たずに病院から電話連絡があれば、電車で二時間弱の距離から誰かが駆けつけてくることは分かっていた。分かっていたが、あまりの早さに驚きは隠せない。
起きてから心の準備をする時間が欲しかった、と晃は切実に思って心の中で溜め息を吐いた。
「あんたは点滴が終わってるから、目が覚めたらもう帰っていいって」
次姉が、晃の額に手を置いてそのまま頭をひと撫でしてから言う。熱が無いか、確かめながら頭も撫でるのは家族の癖だ。もうすっかり大きくなったのだからいい加減やめてほしいが、九つも下の弟など姉にとっては、いつまでも子どものままなのだろう。
あんたは、との言葉に隣のベッドを見る。そこに寝かされて、同じように点滴を繋がれていたはずの一太の姿が無かった。
「いっちゃんは?」
「あんたが救急車を呼んだ友達?」
頷くと、姉の淡々とした声が答えた。
「入院。あんたの点滴を外しにきた看護師さんが、病室に移したって言ってた。熱中症と脱水症状、過労、栄養失調。どれもすぐには帰せないって。あんた、あの子の家族の連絡先知ってる?」
入院。
その言葉に晃は息を飲む。
今日の午前中には、一緒に子どもたちをにこにこと笑顔でお世話していた。しんどそうにしていたけれど、そこまで酷い様子には見えなかった。
外を歩かせたのが良くなかったのだろうか。しんどそうにふらふらしていたのだから、タクシーでも呼べばよかった。
「ねえ、晃、聞いてる? あの子の家族の連絡先を教えてくれって病院の先生が言ってたんだけど」
「光里姉ちゃん、どうしよう。僕の所為だ。いっちゃん、しんどそうだったのに、ほんの十分くらいだからと外を歩かせちゃったから、入院するくらい酷いことになったのかも。どうしよう。いっちゃん、どうなってる? 目、覚めたかな。僕、いっちゃんの所に行かなきゃ……」
慌てて起き上がると、姉の手がぺしっと軽く頭を叩く。
「ちょっと落ち着いて。私の話、聞いてる? あの子の入院の症状、聞こえてた? 熱中症と脱水症状の他に過労と栄養失調よ。あんたの今日の、たった十分間の行動が原因な訳無いでしょう。あの子の家族の連絡先を病院に伝えて、とっとと帰るわよ。大学生になって一人暮らしになると食事が疎かになる子っているのよね、って看護師さんも言ってたわ。栄養失調にまでなって倒れるのは珍しいけど。まあ夏休みだから、家に帰ればきっと元気になれるわよ。私は、あんたをこのまま家に連れて帰ってこいって言われてるんだから、早く帰る準備しましょ。あんまりのんびりしてると、電車がなくなっちゃう。家に帰り着かなくなっちゃうわ」
いっちゃんの家族の連絡先? そんなもの知らない。まだお互いの話を全然していないことに、まさに今日気付いて、昼ごはんと夜ご飯を一緒に食べながら、少しずつ聞いてみようと思っていた所なのだから。
「連絡先、知らない、けど……。でも、もし分かっても連絡しない方がいい、気がする……」
外はまだまだ明るいけれど、時刻はもう五時を回っていた。一太は、このまま病院に泊まりであることは決定しているらしい。
点滴を受けて帰れたとしても、帰る部屋はまた、熱中症になりそうなあのアパートだ。その上、夜中にはバイクの集団が集まって寝られやしないのだから、涼しくて静かな病院で寝て、少しでも回復した方がいい。医者が、帰せないというくらいの症状があるのなら治してもらった方がいい。
よし。
気を失っているうちに運ばれるというのは、不安なものだ。何度か経験のある晃はそのことを知っていた。知らない場所で目を覚まして、更に知らない人ばかりだったら怖くて仕方ないだろう。
側にいてあげよう。
治療のために何もできなくても、目が覚めたときに僕が説明してあげられるように、側にいよう。
「僕も、いっちゃんと泊まるよ。僕は大丈夫だったって皆に伝えて。光里姉ちゃん、来てくれてありがとね」
「はあ? 馬鹿なこと言ってないで帰るわよ」
「駄目だよ。一人は心細いもん」
「あの子のことは病院にお任せすればいいでしょう? あんたはちゃんと病院に運んだんだから充分よ」
「とりあえず、いっちゃんの様子を見に行く」
押し問答していたら、看護師が顔を出した。
「松島さん、元気そうね。大したことなくて良かったわ」
「あの、村瀬くんは……」
「まだ目を覚ましていないの。熱も上がってきてるから、起きるのはしんどいかもしれないね」
「村瀬くんの付き添いはできますか?」
「家族以外は付き添いできない決まりなの。松島さんはお会計して一旦お帰りください」
一緒に家へ帰ろうとしつこい姉を駅で見送り、結局、一太に面会もできないまま、晃は渋々自分の住む学生マンションへと戻ったのだった。
「これは、ずいぶんと……」
言葉が継げずに建物を見上げていると、こっち、と手を引かれる。一応、石壁で仕切ってある敷地内に入っていった一太は、一階の真ん中の部屋の前で鍵を出した。
てっきり、家の周辺で、もういいと帰されると思っていた晃は、一太がここまで連れてきてくれたことに戸惑っていた。もういい、と言われても食い下がるつもりではあった。けれど、以前に住まいの話をしたとき、どこに住んでいるかを一太は頑なに教えてくれなかったから、余程隠したい事情があるのだと思ったのだ。
住んでいる建物が少し古びているのかもしれない、と予想はしていた。けれども、目の当たりにした建物は、そんな晃の予想の遥か上をいくものだった。
これは、人が住んでもいい建物だろうか。早く取り壊さないと危ないんじゃないか。
鍵を開けた一太は、晃に何も言わずに扉を開けて中へと入っていく。一太は相当、朦朧としているらしい。大学から徒歩で十分とかからない距離だったが、眠たそうにふらふらしていたというのに炎天下に歩かせてしまったことを、晃は今さらながらに後悔した。
止められなかったのをいいことに、一太について玄関へと足を踏み入れると、カーテンも無い狭い部屋の中は、サウナのようになっていた。
「いや、あっつ……」
すぐに冷房を、と晃が部屋を見回してみれば。
「え?」
その部屋に、電化製品と呼ばれる品物は、何も無かった。
エアコンはもちろん、テレビも冷蔵庫も電子レンジも洗濯機も、晃が、無いと生きていけないと思っている品が何もない。あるのは……。
カーテンの無いカーテンレールに、ジーパンが一枚と下着が二枚、半袖のTシャツ二枚に、春に着ていた襟つきのチェックのシャツが二枚、タオルが二枚干してある。玄関横の小さな流しにコップが一つ。歯ブラシと箸がコップに立ててあり、その横に散髪用の鋏と鏡とくし。固形の石鹸と小さな洗濯板。
そして、部屋の半分を使って布団が敷いてあり、空いている床に教科書と文房具が積まれていた。
「あ、いっちゃん……」
一太はさっさと靴を脱いで、所々変色している畳の部屋に上がると真っ直ぐ布団へ向かう。部屋に入った途端に更に噴き出した汗がぽたぽたと額を伝っていくが、窓を開けることもなく布団の上に乗ると、そのまま横になってしまった。タオルケットの上に乗ったので、汗がタオルケットを濡らしていく。
「いや。いやいやいやいや」
晃は慌てて窓を開けたが、一つしかない窓を開けた所で、真夏の昼に風が通る訳もない。部屋の温度は、何ほども変わらなかった。
「え? 待って。いっちゃん。無理。無理だよ。こんなとこで寝られる訳ないよ。え、待って? いっちゃん? 意識、意識ある? え、これ熱中症? き、救急車」
晃は震える手で救急車を呼んだ。自分も大汗をかきながら、ボランティア用の道具を入れたバッグから取り出した下敷きで必死に一太に風を送り続けた。熱い風がかき回されるだけだとしても、何もしないよりはましだと思ったのだ。
結局、救急車が到着して運ばれる間も一太は意識を取り戻すことなく、付き添いで救急車に乗った晃も目眩を起こし、軽い熱中症と脱水状態と診断されて点滴を受ける羽目になった。
外来患者用の処置室で点滴を繋がれている間にひと眠りして、起きた晃が目を開けると、不機嫌な次姉の顔が目に入った。
うわ。
慌てて目をつぶったが、はああ、とわざとらしい溜め息が聞こえて、仕方なくもう一度目を開く。
「脱水症状って、あんた馬鹿?」
「ごめん」
もともと心臓に欠陥を持って生まれた晃は、手術を受けて普通に生活ができるようになるまでの間、本当に些細なことにも気を付けて暮らしていた。心臓に負担をかけないようこまめに水分を取って、塩分を控えて、汗をかいたら冷えないようにしっかり拭いて。通常より風邪を引きやすく、動悸や息切れが酷い晃が、少しでも楽に暮らせるようにと家族は心を砕いて育ててくれた。
けれど、どんなに大人たちが気を付けていても、子どもというのは、楽しくなると約束を忘れてしまうことがある。周りにつられて走ってしまって、呼吸困難で倒れたことがあった。気温が低い季節や寒暖差が激しい季節は、どんなに気を付けていても、よく熱を出した。暑い夏にも、周りと一緒に汗だくで遊んだ後や水遊びの後に風邪を引いた。はらはらする場面は何度もあった。
晃は聞き分けのよい子どもで、時々、皆と同じにできないことで残念そうな顔を見せることはあっても、どうしてもやりたいと駄々をこねるような事はなかった。だから、家族は、たまの失敗は本当は怒らずに、次からは気を付けてね、と優しく言い聞かせたかったのだろう。それが、命に関わるものでなければ。
残念ながらどの失敗も、松島晃の命に関わる重大な体の不調をもたらした。何度も病院のベッドで目を覚まして、しんどいなか叱られて、ごめんなさい、と謝って。
そのうちに、物事が分かるようになった年齢には、ずいぶんと色んな事を、やる前から諦めてしまうようになった。自ら何かをやりたいとは言わない子どもになった。仕方ないことだったのかもしれない。やりたいと言っても、晃くんにはできないんだよ、と言われることが多く、あれも駄目これも駄目と言われていれば、やりたいと思うほど落胆は大きくなる。晃が自分を守るために編み出した心を守る方法だった。
ピアノを習ったのも書道を習ったのも親が連れていってくれたからだし、自分でしたいと言ったわけではなかった。ピアノはとても気に入って熱心に練習したが、それも根を詰めすぎると体に負担がかかるからいけない、と練習時間を減らされ、ピアニストの道は諦めた。
手術を終えて、何でも好きなことをしていいと言われても、その性質がすぐに変わるものでもなく。今までとさして変わらずに日々を過ごした。食事だけは、手術後に食べることができた濃い味のファーストフードにずいぶんとはまって、お小遣いを持って通ったこともあった。けれど、いくら何でもほどほどにしなさい、と言われれば、やはりあっさりと諦めた。
そんな風に淡々と生きてきた印象のある晃が、親や姉たちが勧めた家から通える大学の全てに首を振って拒絶し、一人暮らしをしたいと言ったときには、家族全員驚いたものだった。
しかも、短大でいいと言う。家族は、なりたい職業が保育士や幼稚園教諭ということにも驚いたが、その資格を得ることのできる四年制大学もあるのだからそちらにしたらよい、と言った父親に、資格さえ取れたらいいからそんなに長く通わなくていい、と自ら調べたことを述べた晃にも驚いた。
得意なピアノを生かせる職業を選んだと聞いて一応の納得はしたが、末っ子の晃に小さな子どもの相手ができるものだろうか、と家族は未だに疑いの気持ちでいる。
けれど、晃のほとんど初めての我儘を聞いてやろうと家族会議がまとまり、心配しながら一人暮らしを容認したのだったのだ。
そんな中始まった松島晃の大学生活である。半年も経たずに病院から電話連絡があれば、電車で二時間弱の距離から誰かが駆けつけてくることは分かっていた。分かっていたが、あまりの早さに驚きは隠せない。
起きてから心の準備をする時間が欲しかった、と晃は切実に思って心の中で溜め息を吐いた。
「あんたは点滴が終わってるから、目が覚めたらもう帰っていいって」
次姉が、晃の額に手を置いてそのまま頭をひと撫でしてから言う。熱が無いか、確かめながら頭も撫でるのは家族の癖だ。もうすっかり大きくなったのだからいい加減やめてほしいが、九つも下の弟など姉にとっては、いつまでも子どものままなのだろう。
あんたは、との言葉に隣のベッドを見る。そこに寝かされて、同じように点滴を繋がれていたはずの一太の姿が無かった。
「いっちゃんは?」
「あんたが救急車を呼んだ友達?」
頷くと、姉の淡々とした声が答えた。
「入院。あんたの点滴を外しにきた看護師さんが、病室に移したって言ってた。熱中症と脱水症状、過労、栄養失調。どれもすぐには帰せないって。あんた、あの子の家族の連絡先知ってる?」
入院。
その言葉に晃は息を飲む。
今日の午前中には、一緒に子どもたちをにこにこと笑顔でお世話していた。しんどそうにしていたけれど、そこまで酷い様子には見えなかった。
外を歩かせたのが良くなかったのだろうか。しんどそうにふらふらしていたのだから、タクシーでも呼べばよかった。
「ねえ、晃、聞いてる? あの子の家族の連絡先を教えてくれって病院の先生が言ってたんだけど」
「光里姉ちゃん、どうしよう。僕の所為だ。いっちゃん、しんどそうだったのに、ほんの十分くらいだからと外を歩かせちゃったから、入院するくらい酷いことになったのかも。どうしよう。いっちゃん、どうなってる? 目、覚めたかな。僕、いっちゃんの所に行かなきゃ……」
慌てて起き上がると、姉の手がぺしっと軽く頭を叩く。
「ちょっと落ち着いて。私の話、聞いてる? あの子の入院の症状、聞こえてた? 熱中症と脱水症状の他に過労と栄養失調よ。あんたの今日の、たった十分間の行動が原因な訳無いでしょう。あの子の家族の連絡先を病院に伝えて、とっとと帰るわよ。大学生になって一人暮らしになると食事が疎かになる子っているのよね、って看護師さんも言ってたわ。栄養失調にまでなって倒れるのは珍しいけど。まあ夏休みだから、家に帰ればきっと元気になれるわよ。私は、あんたをこのまま家に連れて帰ってこいって言われてるんだから、早く帰る準備しましょ。あんまりのんびりしてると、電車がなくなっちゃう。家に帰り着かなくなっちゃうわ」
いっちゃんの家族の連絡先? そんなもの知らない。まだお互いの話を全然していないことに、まさに今日気付いて、昼ごはんと夜ご飯を一緒に食べながら、少しずつ聞いてみようと思っていた所なのだから。
「連絡先、知らない、けど……。でも、もし分かっても連絡しない方がいい、気がする……」
外はまだまだ明るいけれど、時刻はもう五時を回っていた。一太は、このまま病院に泊まりであることは決定しているらしい。
点滴を受けて帰れたとしても、帰る部屋はまた、熱中症になりそうなあのアパートだ。その上、夜中にはバイクの集団が集まって寝られやしないのだから、涼しくて静かな病院で寝て、少しでも回復した方がいい。医者が、帰せないというくらいの症状があるのなら治してもらった方がいい。
よし。
気を失っているうちに運ばれるというのは、不安なものだ。何度か経験のある晃はそのことを知っていた。知らない場所で目を覚まして、更に知らない人ばかりだったら怖くて仕方ないだろう。
側にいてあげよう。
治療のために何もできなくても、目が覚めたときに僕が説明してあげられるように、側にいよう。
「僕も、いっちゃんと泊まるよ。僕は大丈夫だったって皆に伝えて。光里姉ちゃん、来てくれてありがとね」
「はあ? 馬鹿なこと言ってないで帰るわよ」
「駄目だよ。一人は心細いもん」
「あの子のことは病院にお任せすればいいでしょう? あんたはちゃんと病院に運んだんだから充分よ」
「とりあえず、いっちゃんの様子を見に行く」
押し問答していたら、看護師が顔を出した。
「松島さん、元気そうね。大したことなくて良かったわ」
「あの、村瀬くんは……」
「まだ目を覚ましていないの。熱も上がってきてるから、起きるのはしんどいかもしれないね」
「村瀬くんの付き添いはできますか?」
「家族以外は付き添いできない決まりなの。松島さんはお会計して一旦お帰りください」
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