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72 ◇◇誰かにとっての良い事が、全ての人にとっての良い事であるとは限らない
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「あー、あっちー。家入ろうぜ。飯食いたいし」
兄の一太の髪を引っ張って、望が靴を脱ぐ。
「望くん!」
すっかり呆然としていた椛田は慌てて望の名前を呼んだ。だが、蹴り飛ばされて尻もちを付いている間に、玄関の扉が閉められてしまった。立ち上がってドアノブを回した時には、鍵がかかっていて開かなかった。
「望くん、開けなさい。望くん!」
「うるせえ」
一言、それだけ聞こえて声が遠ざかった。椛田は、とんでもない事になったとようやく気付く。何とか、何とかしなければ……。焦りつつ周辺をうろつき、裏手に回ることができた時には、部屋が一階で良かったと、的外れな感想を抱いた。
「早く立てよ。ほんとお前、弱くなったなあ。前はもっと大丈夫だったじゃん。あー、もう。何で家の中も暑いんだよ。エアコン無えの?」
望の話す声が、洗濯物が干された小さなベランダの向こうから聞こえてくる。窓が開いていることに少しほっとして、椛田はかがみながら、そおっと、二人が入っていった部屋の方へと近付いていった。
ちっ、と舌打ちした望が、部屋をぐるぐる歩き回りながら、機嫌良く喋っている。
「良いとこ住んでんな。お前のことだから、風呂無しのぼろアパートとかにいるんじゃねえかと、それだけが心配だったんだよ。そんなの、絶対嫌じゃん? まあ、これからはお前の名前で金も借り放題だし、その金で家借りればいいから、何とかなるとは思ったんだけどさ。ここならそのまま住んでやってもいいわ。ってかさあ、どんだけ隠して貯め込んでたんだよ。大学? 通ってるんだっけ? あれって、すげえ金かかるんだろ? その上にこの部屋? お前、どんだけ持ってったんだよ。無いわー。まじ、無いわー。お前の稼いだ金は、俺が使うんだって決まってんのにさあ。お前がいなくなった所為で、母ちゃんまで出てったじゃん。俺の生きてく金、どうしろってんだよ」
椛田は、望を保護してから今までずっと、望が涙を堪えて話す言葉を聞いてきた。
兄が金を持ち逃げした。だから、こんな風に一家はばらばらになってしまった。でも、ずっと優しく俺の世話をしてくれた兄のことを慕っているし、何か理由があったとは思っている。俺が、公立の高校に入れないくらい頭が悪かったのが、良くなかったんだ。私立はお金がかかるから、もっとお金がいるって言ったのが良くなかったのかもしれない。でも、勉強がどうしても苦手で、頑張ってもやっぱり無理だったんだ。俺がもう少し頭が良かったら、お兄ちゃんもお母さんも出ていかなかったのかなあ。
悲しげに笑うその顔が可哀相で、せめて居場所の分かる家族に会わせてあげたいと、そう思った。
電話連絡した兄は、弟さんが会いたがっていると告げると、会いたくない、と言った。家のお金を持ち出したことで、気まずいのかもしれない、と椛田は考えた。でも弟さんは、そんなお兄さんも許すと言っているのだから、会って話せば和解は出来るはずだ。何より、持ち出したお金を弟さんに返すべきだ、と思う。そうすれば、わだかまりも解けるだろう。
だから椛田は、まずは自分が兄である一太に会って、弟である望と面会して話してくれるように、頑張って説得した。家族なんだから、会えば、会って話せば必ず分かりあえると思っていた。だというのに、兄の方はやはり、もう二度と会いたくないなんて冷たいことを言う。
どうして、そんなに冷たいことを言えるのか。世の中には色んな人がいて、家族といえども分かりあえないこともあると知っているが、とりあえず、まずは会って話をしないと、分かりあえる筈がない。やはり、どうしても二人が手を取り合えなかったとして、会わないままそうなるなんてよくない、とそう思ったのだ。
だから、面会を望まない一太に会うために、仕事が休みの日に自費で、望を連れて来た。全くの善意からの行動だった。
椛田にとっては、望の願いを叶え、自分の気持ちを納得させるために必要な行動だった。
でも。
一太にとっては?
椛田は、殴られ、髪の毛を掴まれ、無表情に吐いていた一太の白い顔を思い出す。
会いたくありません、と彼は言っていた。
ちゃんと、言っていたのに。
兄の一太の髪を引っ張って、望が靴を脱ぐ。
「望くん!」
すっかり呆然としていた椛田は慌てて望の名前を呼んだ。だが、蹴り飛ばされて尻もちを付いている間に、玄関の扉が閉められてしまった。立ち上がってドアノブを回した時には、鍵がかかっていて開かなかった。
「望くん、開けなさい。望くん!」
「うるせえ」
一言、それだけ聞こえて声が遠ざかった。椛田は、とんでもない事になったとようやく気付く。何とか、何とかしなければ……。焦りつつ周辺をうろつき、裏手に回ることができた時には、部屋が一階で良かったと、的外れな感想を抱いた。
「早く立てよ。ほんとお前、弱くなったなあ。前はもっと大丈夫だったじゃん。あー、もう。何で家の中も暑いんだよ。エアコン無えの?」
望の話す声が、洗濯物が干された小さなベランダの向こうから聞こえてくる。窓が開いていることに少しほっとして、椛田はかがみながら、そおっと、二人が入っていった部屋の方へと近付いていった。
ちっ、と舌打ちした望が、部屋をぐるぐる歩き回りながら、機嫌良く喋っている。
「良いとこ住んでんな。お前のことだから、風呂無しのぼろアパートとかにいるんじゃねえかと、それだけが心配だったんだよ。そんなの、絶対嫌じゃん? まあ、これからはお前の名前で金も借り放題だし、その金で家借りればいいから、何とかなるとは思ったんだけどさ。ここならそのまま住んでやってもいいわ。ってかさあ、どんだけ隠して貯め込んでたんだよ。大学? 通ってるんだっけ? あれって、すげえ金かかるんだろ? その上にこの部屋? お前、どんだけ持ってったんだよ。無いわー。まじ、無いわー。お前の稼いだ金は、俺が使うんだって決まってんのにさあ。お前がいなくなった所為で、母ちゃんまで出てったじゃん。俺の生きてく金、どうしろってんだよ」
椛田は、望を保護してから今までずっと、望が涙を堪えて話す言葉を聞いてきた。
兄が金を持ち逃げした。だから、こんな風に一家はばらばらになってしまった。でも、ずっと優しく俺の世話をしてくれた兄のことを慕っているし、何か理由があったとは思っている。俺が、公立の高校に入れないくらい頭が悪かったのが、良くなかったんだ。私立はお金がかかるから、もっとお金がいるって言ったのが良くなかったのかもしれない。でも、勉強がどうしても苦手で、頑張ってもやっぱり無理だったんだ。俺がもう少し頭が良かったら、お兄ちゃんもお母さんも出ていかなかったのかなあ。
悲しげに笑うその顔が可哀相で、せめて居場所の分かる家族に会わせてあげたいと、そう思った。
電話連絡した兄は、弟さんが会いたがっていると告げると、会いたくない、と言った。家のお金を持ち出したことで、気まずいのかもしれない、と椛田は考えた。でも弟さんは、そんなお兄さんも許すと言っているのだから、会って話せば和解は出来るはずだ。何より、持ち出したお金を弟さんに返すべきだ、と思う。そうすれば、わだかまりも解けるだろう。
だから椛田は、まずは自分が兄である一太に会って、弟である望と面会して話してくれるように、頑張って説得した。家族なんだから、会えば、会って話せば必ず分かりあえると思っていた。だというのに、兄の方はやはり、もう二度と会いたくないなんて冷たいことを言う。
どうして、そんなに冷たいことを言えるのか。世の中には色んな人がいて、家族といえども分かりあえないこともあると知っているが、とりあえず、まずは会って話をしないと、分かりあえる筈がない。やはり、どうしても二人が手を取り合えなかったとして、会わないままそうなるなんてよくない、とそう思ったのだ。
だから、面会を望まない一太に会うために、仕事が休みの日に自費で、望を連れて来た。全くの善意からの行動だった。
椛田にとっては、望の願いを叶え、自分の気持ちを納得させるために必要な行動だった。
でも。
一太にとっては?
椛田は、殴られ、髪の毛を掴まれ、無表情に吐いていた一太の白い顔を思い出す。
会いたくありません、と彼は言っていた。
ちゃんと、言っていたのに。
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