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242 どこにも「普通」はなかった
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昼食は、お祝いという事で焼肉屋に入った。大学近くの、ランチが安い焼肉屋だ。ランチは、ご飯と汁物とサラダとお肉がセットになっていて、一番安いものは七百九十円。食べ放題でも千九百八十円という安さの店だ。この値段が、焼肉屋の中ではとんでもなく安いのだということを一太はもう知っている。本当に、この二年近くで色んなことを知った。
「私、焼肉屋さん初めて!」
岸田が店内をきょろきょろと見渡しながら言ったので、一太はびっくりした。
「そうなの?」
「うん」
自分以外の人は皆、どんな店屋にも遊び場にも行ったことがあって、同じ経験を重ねているのではないかと一太は思っていた。自分だけが何も知らず、普通ではないのではないか、と。
そうではない。そうではなかったのだ。
確かに、一太の経験はかなり少ない。小学校や中学校で当たり前に行くはずの社会見学や修学旅行にも行っていない。けれどそれは、一太だけじゃなかった。病気だった晃にも行っていない時期があった。晃にもできなかった学校行事があった。小学校で、水泳の授業に一度も参加していないことも同じだった。晃は、遊園地に行ったことはあっても乗り物にはほとんど乗ったことがなかったし、岸田はこうして、焼肉屋に来るのが初めてだと言った。それぞれに、してきたこととしていない事があるのだ。
誰もが何かの習い事をできる訳じゃないから、ピアノが弾ける人も弾けない人もいる。大学でピアノ室が取り合いだったのは、一太と同じでピアノを習ったことのない者が結構いたことを表しているじゃないか。
そう考えると、普通って何だろうと首を傾げてしまう。村瀬くんはおかしい、普通じゃないと言われ続けていたから、ずっと普通を探していたが、色んなことを知れば知るほど、一太には普通が分からなくなってきていた。
二十歳になるまで焼肉屋に入ったことがない岸田さんって普通じゃないよね、と誰かに言われたら、そんなことはないと一太は答えるだろう。自分がしている事が、誰もがしている事って訳じゃない。
「村瀬くん、来たことあるの?」
「うん」
「すごい。どれが美味しいか教えてね」
俺が? と一太は思ったが、一度食べて、ものすごく美味しいと思ったお肉が確かにある。二度目に焼肉屋に入った時はぼんやりしていて、入った覚えはあっても、何を食べたか正直ほとんど覚えていない。けれど、次もこれを食べたいと思いながら好きな肉を噛んでいたような気がする。あれが好きだった。薄く切ってあって最初から味が付いている肉。それに、さつまいもをじっくり焼くのも好きだ。かぼちゃも。すぐに焦げてしまうキャベツをじっと見張っているのも楽しい。
「俺の好きなの、いっぱいあるかも」
「うわ、楽しみ」
お祝いだから、と皆で食べ放題コースにした。七人で大きめの個室に入って、二つ運ばれてきた七輪の上で色んなお肉や野菜を焼いた。それぞれのお勧めのお肉や野菜で、初心者の岸田のお皿の上はいっぱいになっていた。
学食で、あれもこれもと晃が色んなメニューの味見をさせてくれていた事を思い出して、あれはこんな気持ちだったのか、と一太は笑った。
スーツが焼肉臭くなった、と大騒ぎしながら、安倍と岸田、安倍の母と笑顔で別れた。絶対また一緒に遊ぼうな、と約束をして。一太は、次は何をして遊ぶんだろうとわくわくした。
安倍くんは遊びの天才だから、きっとまた楽しいことを考えてくれるに違いない。
一太には何故か、その約束が守られることが確信できた。その「また」が何年も先だったとしても、必ずまた一緒に遊ぶ日はくる、と信じられる。不思議だった。また来るよ、と言った児童相談員が、自発的にまた一太を訪ねてきたことなどなく、またなんていう曖昧な約束は守られないと知っているはずなのに。
約束をする相手が違うだけで、こんなにも約束は特別なものになるのか。
「たくさん泣いて、たくさん笑ったわ」
「いい卒業式だったね」
すっかり仲良くなった陽子と安倍の母も、またねと別れていた。またお話しましょう、と。大人になってからも、こうして仲良くなって約束を交わしたりするんだなあ、と一太は思った。大人になったら一人で生きていける、早く大人になりたいとずっと考えていたけれど、そうではなかったみたいだ。
大人になっても、分からないことは誰かに聞かなければずっと分からないままだった。大人になっても、一人は寂しいままだった。大人になったからって、何でもできるようにはならなかった。大人になってからも、誰かにぎゅって抱っこしてもらいたい気持ちは消えなかった。
「さ。大家さんにご挨拶して帰ろうかな」
「大家さん?」
「そうよ。お世話になっているでしょ」
直接的にお世話になっている感覚はないので、一太は首を傾げた。会えば挨拶をして、ひとことふたこと言葉を交わすくらいだ。家賃は振り込みだから、毎月お金を渡しに行くわけでもない。入居した時に町内のことを教えてもらったが、それだけ。晃も首を傾げている。
「お隣に住んでくださってるの、本当に心強いわ。そういえば、旅行した時にお土産は買ってきた? 留守をお任せしたお礼をしなくちゃ駄目よ」
「え?」
「ああ。こういうの、ちゃんと教えてなかったわね。何日か家を空ける時は、大家さんに言っておくのよ。きっと留守の間の家を注意して見てくれるから。そしてお土産を買ってきてお礼を言うの」
「はい」
「へええ」
一太は、そうだったのかと頷いた。晃も隣で驚いている。本当に、大人になったからといって、急に色んなことが分かるようになるわけじゃないんだと実感した。大人も、知らないことは聞かなければ知らないままだ。教えてくれる存在のなんと有難いことか。
大人になれば何でも一人でできるようになる、と考えていた一太の夢は叶わなかったけれど。でも。
一太は、できない事を手伝ってくれて、知らないことを教えてくれる人を得た。
一人じゃなくなった。
「あらー! 卒業式だったの? おめでとう!」
二人のスーツ姿を見た大家さんは、盛大に祝ってくれた。これからもよろしくお願いします、と言うと、こちらこそ、と返してくれる。
「困ったことがあったら何でも言ってね」
一人でできないことは頼ってもいいのだ、と色んな人が言ってくれている。本当に頼るかどうかは別として、その手があると思うだけでなんて心強いんだろう、と一太は思った。
「二人のバイト先にもご挨拶したい所だけれど、それはやり過ぎな気がするからやめておくわ」
「それはやめて!」
陽子と晃のそんな会話を最後に、車に乗った二人に手を振った時だった。一太の携帯電話が、着信を知らせてポケットで震え始めた。
「私、焼肉屋さん初めて!」
岸田が店内をきょろきょろと見渡しながら言ったので、一太はびっくりした。
「そうなの?」
「うん」
自分以外の人は皆、どんな店屋にも遊び場にも行ったことがあって、同じ経験を重ねているのではないかと一太は思っていた。自分だけが何も知らず、普通ではないのではないか、と。
そうではない。そうではなかったのだ。
確かに、一太の経験はかなり少ない。小学校や中学校で当たり前に行くはずの社会見学や修学旅行にも行っていない。けれどそれは、一太だけじゃなかった。病気だった晃にも行っていない時期があった。晃にもできなかった学校行事があった。小学校で、水泳の授業に一度も参加していないことも同じだった。晃は、遊園地に行ったことはあっても乗り物にはほとんど乗ったことがなかったし、岸田はこうして、焼肉屋に来るのが初めてだと言った。それぞれに、してきたこととしていない事があるのだ。
誰もが何かの習い事をできる訳じゃないから、ピアノが弾ける人も弾けない人もいる。大学でピアノ室が取り合いだったのは、一太と同じでピアノを習ったことのない者が結構いたことを表しているじゃないか。
そう考えると、普通って何だろうと首を傾げてしまう。村瀬くんはおかしい、普通じゃないと言われ続けていたから、ずっと普通を探していたが、色んなことを知れば知るほど、一太には普通が分からなくなってきていた。
二十歳になるまで焼肉屋に入ったことがない岸田さんって普通じゃないよね、と誰かに言われたら、そんなことはないと一太は答えるだろう。自分がしている事が、誰もがしている事って訳じゃない。
「村瀬くん、来たことあるの?」
「うん」
「すごい。どれが美味しいか教えてね」
俺が? と一太は思ったが、一度食べて、ものすごく美味しいと思ったお肉が確かにある。二度目に焼肉屋に入った時はぼんやりしていて、入った覚えはあっても、何を食べたか正直ほとんど覚えていない。けれど、次もこれを食べたいと思いながら好きな肉を噛んでいたような気がする。あれが好きだった。薄く切ってあって最初から味が付いている肉。それに、さつまいもをじっくり焼くのも好きだ。かぼちゃも。すぐに焦げてしまうキャベツをじっと見張っているのも楽しい。
「俺の好きなの、いっぱいあるかも」
「うわ、楽しみ」
お祝いだから、と皆で食べ放題コースにした。七人で大きめの個室に入って、二つ運ばれてきた七輪の上で色んなお肉や野菜を焼いた。それぞれのお勧めのお肉や野菜で、初心者の岸田のお皿の上はいっぱいになっていた。
学食で、あれもこれもと晃が色んなメニューの味見をさせてくれていた事を思い出して、あれはこんな気持ちだったのか、と一太は笑った。
スーツが焼肉臭くなった、と大騒ぎしながら、安倍と岸田、安倍の母と笑顔で別れた。絶対また一緒に遊ぼうな、と約束をして。一太は、次は何をして遊ぶんだろうとわくわくした。
安倍くんは遊びの天才だから、きっとまた楽しいことを考えてくれるに違いない。
一太には何故か、その約束が守られることが確信できた。その「また」が何年も先だったとしても、必ずまた一緒に遊ぶ日はくる、と信じられる。不思議だった。また来るよ、と言った児童相談員が、自発的にまた一太を訪ねてきたことなどなく、またなんていう曖昧な約束は守られないと知っているはずなのに。
約束をする相手が違うだけで、こんなにも約束は特別なものになるのか。
「たくさん泣いて、たくさん笑ったわ」
「いい卒業式だったね」
すっかり仲良くなった陽子と安倍の母も、またねと別れていた。またお話しましょう、と。大人になってからも、こうして仲良くなって約束を交わしたりするんだなあ、と一太は思った。大人になったら一人で生きていける、早く大人になりたいとずっと考えていたけれど、そうではなかったみたいだ。
大人になっても、分からないことは誰かに聞かなければずっと分からないままだった。大人になっても、一人は寂しいままだった。大人になったからって、何でもできるようにはならなかった。大人になってからも、誰かにぎゅって抱っこしてもらいたい気持ちは消えなかった。
「さ。大家さんにご挨拶して帰ろうかな」
「大家さん?」
「そうよ。お世話になっているでしょ」
直接的にお世話になっている感覚はないので、一太は首を傾げた。会えば挨拶をして、ひとことふたこと言葉を交わすくらいだ。家賃は振り込みだから、毎月お金を渡しに行くわけでもない。入居した時に町内のことを教えてもらったが、それだけ。晃も首を傾げている。
「お隣に住んでくださってるの、本当に心強いわ。そういえば、旅行した時にお土産は買ってきた? 留守をお任せしたお礼をしなくちゃ駄目よ」
「え?」
「ああ。こういうの、ちゃんと教えてなかったわね。何日か家を空ける時は、大家さんに言っておくのよ。きっと留守の間の家を注意して見てくれるから。そしてお土産を買ってきてお礼を言うの」
「はい」
「へええ」
一太は、そうだったのかと頷いた。晃も隣で驚いている。本当に、大人になったからといって、急に色んなことが分かるようになるわけじゃないんだと実感した。大人も、知らないことは聞かなければ知らないままだ。教えてくれる存在のなんと有難いことか。
大人になれば何でも一人でできるようになる、と考えていた一太の夢は叶わなかったけれど。でも。
一太は、できない事を手伝ってくれて、知らないことを教えてくれる人を得た。
一人じゃなくなった。
「あらー! 卒業式だったの? おめでとう!」
二人のスーツ姿を見た大家さんは、盛大に祝ってくれた。これからもよろしくお願いします、と言うと、こちらこそ、と返してくれる。
「困ったことがあったら何でも言ってね」
一人でできないことは頼ってもいいのだ、と色んな人が言ってくれている。本当に頼るかどうかは別として、その手があると思うだけでなんて心強いんだろう、と一太は思った。
「二人のバイト先にもご挨拶したい所だけれど、それはやり過ぎな気がするからやめておくわ」
「それはやめて!」
陽子と晃のそんな会話を最後に、車に乗った二人に手を振った時だった。一太の携帯電話が、着信を知らせてポケットで震え始めた。
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