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百七十二
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「義母上」
うっすらと笑みを浮かべて、良時は慧慶院に話し掛けた。伊良は、良時のそんな顔を見たことがなかった。このような宥めるような声音も聞いた事がない。優しげな顔と声音であるのに、何故か空恐ろしかった。
だが、辺りにはほっとした空気が漂った。良時がひどく腹を立てているのだと気付いたのは、伊良だけであるようだ。
「本日、ほとんど初めて顔を合わせるに等しい男女に、いきなりそのお話は多少不躾であるかと」
良時が淡々と述べた言葉に慧慶院がかっと顔を赤くする。怒りか羞恥か。そのどちらもだろうな、と伊良は思った。武家の女性とあまり関わった覚えがないが、こういった話を女性がするのははしたないと言われる事なのではないだろうか。それとも、母としての助言なればありなのか? 母、という存在をよく知らぬ伊良には分かりようもない。
慧慶院がすっと目を逸らしたので、助言としても少々行き過ぎていたようである。
「おばあさま」
その時、それまで黙って話を聞いていた松之助が声を上げた。可愛らしい声に、伊良は頬を緩めてしまう。
「おじうえはよい子ではなかったですか?」
「あ、いや、松之助さん。これは……」
「よい子ではないからおしかりですか? なにがだめですか」
真っ直ぐに見つめる松之助からも目を逸らすようにして、慧慶院は口を開く。
「あ、あなたの母上を、寿々を大事にしなさいとお伝えしていただけです。叱ってなど……ええ、叱ってなどおりませんとも。……いえ、でも、そう、そうです。殿の、武家として気高くないところはよろしくありません。よろしくないところはお伝えせねばなりませぬ。良いですか、松之助さん。藩主たるもの、いえ、武家たるもの、間違っても金がないなどと口にしてはならぬのです。それは御家の恥にございますれば」
「そうなのですか?」
松之助は良時を見上げて聞いた。
「いや」
良時はうっすら笑みを浮かべた表情のまま松之助に答える。
「良く聞け、松之助。藩主だろうが武家だろうがないものはないのだ。ない袖を振り続けていれば破産する。御家の恥だと隠した結果が一代ではとうてい返しきれぬほどの借財などと、そちらの方がよろしくないとは思わぬか」
「……ええっと。そうなのですか?」
「いえ、いいえ。いいえ、松之助さん。違います。違うのです」
尋ねられた慧慶院は必死に首を横に振った。それから、大きな溜め息を吐いて良時を睨みつける。
「あなたが藩主であることは致し方ないと認めましょう。なれど、この後藩主を継ぐ松之助さんにおかしな話を吹き込むことはなさらないで。それと、その側仕えをこういった席に同席させることもおやめください」
「どれも聞けません。申し訳ない」
良時の返事はよどみなく、慧慶院は渋い顔で気分が悪くなったと席を立った。
うっすらと笑みを浮かべて、良時は慧慶院に話し掛けた。伊良は、良時のそんな顔を見たことがなかった。このような宥めるような声音も聞いた事がない。優しげな顔と声音であるのに、何故か空恐ろしかった。
だが、辺りにはほっとした空気が漂った。良時がひどく腹を立てているのだと気付いたのは、伊良だけであるようだ。
「本日、ほとんど初めて顔を合わせるに等しい男女に、いきなりそのお話は多少不躾であるかと」
良時が淡々と述べた言葉に慧慶院がかっと顔を赤くする。怒りか羞恥か。そのどちらもだろうな、と伊良は思った。武家の女性とあまり関わった覚えがないが、こういった話を女性がするのははしたないと言われる事なのではないだろうか。それとも、母としての助言なればありなのか? 母、という存在をよく知らぬ伊良には分かりようもない。
慧慶院がすっと目を逸らしたので、助言としても少々行き過ぎていたようである。
「おばあさま」
その時、それまで黙って話を聞いていた松之助が声を上げた。可愛らしい声に、伊良は頬を緩めてしまう。
「おじうえはよい子ではなかったですか?」
「あ、いや、松之助さん。これは……」
「よい子ではないからおしかりですか? なにがだめですか」
真っ直ぐに見つめる松之助からも目を逸らすようにして、慧慶院は口を開く。
「あ、あなたの母上を、寿々を大事にしなさいとお伝えしていただけです。叱ってなど……ええ、叱ってなどおりませんとも。……いえ、でも、そう、そうです。殿の、武家として気高くないところはよろしくありません。よろしくないところはお伝えせねばなりませぬ。良いですか、松之助さん。藩主たるもの、いえ、武家たるもの、間違っても金がないなどと口にしてはならぬのです。それは御家の恥にございますれば」
「そうなのですか?」
松之助は良時を見上げて聞いた。
「いや」
良時はうっすら笑みを浮かべた表情のまま松之助に答える。
「良く聞け、松之助。藩主だろうが武家だろうがないものはないのだ。ない袖を振り続けていれば破産する。御家の恥だと隠した結果が一代ではとうてい返しきれぬほどの借財などと、そちらの方がよろしくないとは思わぬか」
「……ええっと。そうなのですか?」
「いえ、いいえ。いいえ、松之助さん。違います。違うのです」
尋ねられた慧慶院は必死に首を横に振った。それから、大きな溜め息を吐いて良時を睨みつける。
「あなたが藩主であることは致し方ないと認めましょう。なれど、この後藩主を継ぐ松之助さんにおかしな話を吹き込むことはなさらないで。それと、その側仕えをこういった席に同席させることもおやめください」
「どれも聞けません。申し訳ない」
良時の返事はよどみなく、慧慶院は渋い顔で気分が悪くなったと席を立った。
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