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百二十九
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「まあ! 伊良さま!」
入り口の戸を開け出てきたのは、うめであった。良庵の屋敷の、数少ない使用人の一人である。行成の護衛である辻本左近と所帯を持ってから、もう三、四年になるだろうか。うめは、城のほど近くに家を借りての二人暮らしをしながら、変わらず良庵の屋敷に通ってくれていた。左近が行成の供として将軍様のお膝元へ行っている間は、一人では物騒だと夜は実家に戻っていたようだ。子どもはまだないが、仲睦まじい夫婦である。そのうめが、こんな山深い隠れ里の一軒家から出てくるとは。
「うめ?」
「はい、うめですよ。一足早く旦那様に会いに参りました」
明るく答える笑顔がまぶしい。あの道とも言えぬ道を進んで、すぐには家に戻れなくなった左近に会いに来たのか。逞しいことである。
「あちらの方に頼まれた文を良庵先生のお屋敷に届けに行ったら、近くにいるなら会いに行く、案内しろと迫られまして」
庭番の一人が、眉を下げて小声で言う。あちら、と指した先には、気配薄くたたずむ左近の姿が見えた。左近も、藤兵衛と同じく体格に恵まれた方ではない。それでも、藩主の伴侶の専属護衛を任されるほどの強さを誇るのには訳があるようだ。荒事はからっきしの伊良には、それが何であるのかはっきりと分かってはいないのだが。
目が合った左近は、ほんの少し笑って伊良たちの近くに寄ってきた。ひょうひょうとした雰囲気はいつも通りであるが、目の下には濃い隈がある。
「こう見えて頑固で」
左近は視線をふっとうめにやってから、伊良たちにぽつりと言った。うめの、そんなところもきっと好もしいと考えているのだろう笑顔のままで。
「あら。でも、女手は必要だったでしょう?」
「ああ。その通りだな」
なるほど。うめはたすき掛けして、小脇には大きめのたらいを抱えている。たらいの中には、洗濯板といくつかの着物が入っていた。部屋の中に目をやれば、布団に横たわる時行とその横に座り込む行成のほど近くに、手つかずの握り飯と汁椀が見える。他にいる人物が時行の護衛の土井嗣治となれば、残った面子では、草庵も含めて家事仕事のできる者がいなかったようだ。うめが駆けつけてくれたのは、大層助かったに違いない。
とはいえ、主が賊に襲われて隠れたという場所に、よくも歩いてきたものだ。流石は、あの年をとってもまだ意気軒高なたみさんの下でけろりと働き続け、継ぐ家を持たぬとはいえ侍に請われて伴侶となることをあっさり受け入れた人である。純朴な町娘といった容姿に見合わぬ豪胆さを持ち合わせているらしい。
「伊良さまが来てくださったなら安心だ」
と、左近は言った。
「どうか行成さまをよろしくお願いします」
「ああ」
伊良は力強く頷いた。
出入り口でこれほど話しているのに振り向きもしない行成。その目は、横たわる時行をひたと見つめて離さない。落ちくぼんだその目は、暗く黒く沈んでいた。
入り口の戸を開け出てきたのは、うめであった。良庵の屋敷の、数少ない使用人の一人である。行成の護衛である辻本左近と所帯を持ってから、もう三、四年になるだろうか。うめは、城のほど近くに家を借りての二人暮らしをしながら、変わらず良庵の屋敷に通ってくれていた。左近が行成の供として将軍様のお膝元へ行っている間は、一人では物騒だと夜は実家に戻っていたようだ。子どもはまだないが、仲睦まじい夫婦である。そのうめが、こんな山深い隠れ里の一軒家から出てくるとは。
「うめ?」
「はい、うめですよ。一足早く旦那様に会いに参りました」
明るく答える笑顔がまぶしい。あの道とも言えぬ道を進んで、すぐには家に戻れなくなった左近に会いに来たのか。逞しいことである。
「あちらの方に頼まれた文を良庵先生のお屋敷に届けに行ったら、近くにいるなら会いに行く、案内しろと迫られまして」
庭番の一人が、眉を下げて小声で言う。あちら、と指した先には、気配薄くたたずむ左近の姿が見えた。左近も、藤兵衛と同じく体格に恵まれた方ではない。それでも、藩主の伴侶の専属護衛を任されるほどの強さを誇るのには訳があるようだ。荒事はからっきしの伊良には、それが何であるのかはっきりと分かってはいないのだが。
目が合った左近は、ほんの少し笑って伊良たちの近くに寄ってきた。ひょうひょうとした雰囲気はいつも通りであるが、目の下には濃い隈がある。
「こう見えて頑固で」
左近は視線をふっとうめにやってから、伊良たちにぽつりと言った。うめの、そんなところもきっと好もしいと考えているのだろう笑顔のままで。
「あら。でも、女手は必要だったでしょう?」
「ああ。その通りだな」
なるほど。うめはたすき掛けして、小脇には大きめのたらいを抱えている。たらいの中には、洗濯板といくつかの着物が入っていた。部屋の中に目をやれば、布団に横たわる時行とその横に座り込む行成のほど近くに、手つかずの握り飯と汁椀が見える。他にいる人物が時行の護衛の土井嗣治となれば、残った面子では、草庵も含めて家事仕事のできる者がいなかったようだ。うめが駆けつけてくれたのは、大層助かったに違いない。
とはいえ、主が賊に襲われて隠れたという場所に、よくも歩いてきたものだ。流石は、あの年をとってもまだ意気軒高なたみさんの下でけろりと働き続け、継ぐ家を持たぬとはいえ侍に請われて伴侶となることをあっさり受け入れた人である。純朴な町娘といった容姿に見合わぬ豪胆さを持ち合わせているらしい。
「伊良さまが来てくださったなら安心だ」
と、左近は言った。
「どうか行成さまをよろしくお願いします」
「ああ」
伊良は力強く頷いた。
出入り口でこれほど話しているのに振り向きもしない行成。その目は、横たわる時行をひたと見つめて離さない。落ちくぼんだその目は、暗く黒く沈んでいた。
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