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「やっと来てくれたね。あと一日遅かったら、名前も分からない君のために学園内を隈無く探し回らなければならないところだった」
一週間振りに訪れた第三校舎の一室で、先輩は頬を膨らませて僕を睨みつけていた。幼い動作と柔らかな垂れ目には、こちらを怯えさせる効果はまったくなかった。
胸に引っかかりを感じながらも、部屋に一歩踏み入れる。
「すみません」
「本当にどうしてやろうか」
言葉に反して、声色は明るい。部屋の主は机に腰を下ろし、長い足をわざとらしく揺らし始めた。腰ほどもある白金が、それに釣られて左右に動く。
「私は悪魔じゃないからね、君が名前を教えてくれるのなら今回のことは水に流してあげよう」
「あっ、ありがとうございます」
「素直なのはいいことだ。こっちにおいで」
いじける素振りをやめて、手招きされた。ある程度近付いて立ち止まると、もっと近く、とあどけなく怒られる。
「そこじゃあ、私が聞き間違えてしまうかもしれないだろう」
そんなことはないと思いますけど、とはさすがに言えなかった。友人と話すような近さだし、何より僕は先輩の声がはっきりと聞こえている。
「私の近くに来て。そうだ、一歩、もう一歩」
命令されるままに足を動かすと、あっという間に距離というものがなくなってしまっていた。先輩はぐっと顔を近付けて、悪戯っぽく笑った。
視界には、先輩しかいない。左右は絹糸のような髪に遮られて、何も見ることが出来ない。
「これなら、聞き間違えることはなさそうだ」
冷たいものが唇をなぞる。少し遅れて、それが先輩の指であったと気付く。
「君のお名前は?」
触れられたときの微かな熱が、勝手に唇を動かしていた。
「イセル、です。イセル・ラ……」
言い掛けていた言葉は、しなやかな曲線を持つ指先に押さえつけられた。小さな子どもを叱るような、くすぐったい声で先輩は僕を注意する。
「第三校舎においては、生まれも育ちも関係ない。忘れてしまったのかな、イセル君?」
「あい……」
「ふふっ、可愛い音だね。だから君は家名を名乗る必要がないし、私も名乗らない。ここではそういう決まりなんだ」
先輩は指を離し、互いの境界線をさらに乱していく。形の良い唇が僕の顔のどこかに触れそうになって、思わず目を強く瞑った。
熱い吐息が、耳たぶをくすぐる。
「メルヴィン」
「へ……?」
驚きのままに目を開けば、先輩は意地悪な表情を僕の眼前に晒していた。
「私の名前だ。……おや、顔を真っ赤にしてどうしたのかな?」
「なっ、なんでもない、です」
そうか、と納得して、メルヴィン先輩は身体を少し持ち上げた。それに合わせて一歩足を後ろに引いたところで、ぱっと手首を掴まれる。
「間違えないように、綴りも教えてあげよう」
手のひらを上に向けたと思ったら、柔く爪を突き立てられた。大振りな筆跡は、皮膚の上をゆったりと滑っていく。くすぐったくて身を捩っても、先輩はお構いなしに文字を書き連ねている。
「メ、ル、ヴィ、ン」
指が文字を描くたびに、僕の心の内側もかき回されていた。もっと触れられたい、琥珀の中に留めて欲しい、この美しさの正体を知りたい、と様々な欲望が暴れ、混ざり合い、気がおかしくなりそうだった。
この人は、一体なんなんだろう。
本当に僕と同じ人間なのだろうか。こんなに心を惑わせる綺麗な生き物は、悪魔と言われた方がまだ納得がいく。
「覚えた?」
「あ、え、はい……」
「本当に? なんだか怪しいな」
書くのをやめて、今度は人差し指を優しく包んだ。手首を掴んでいた手を僕の方に見せつける。
薄ピンクの皮膚の上に、僕の指は押しつけられていた。
「ほら、書いてみて。メルヴィン、だ」
指がどこまでも深く落ちていきそうな心地良さと、誰にも傷付けることの出来ないような弾力を、薄ピンクは兼ね備えていた。自分の指先にわずかに触れる感覚に、全身の血が沸き上がる。
やっていることは子どものお遊びでしかないのに、妙な興奮を感じていた。文字が震える。指の通った一瞬だけ皮膚は白くなり、内側に文字を刻んでまた薄ピンクに戻っていく。
自分が何を書いているのか、書き終わったのかもよく分からなかった。ただ、上手に書けたね、と先輩が言ってくれたから、すべてを正しく綴れていたのだと気付いた。
「よく出来ました。ご褒美にお茶を振る舞ってあげよう、勿論お菓子も一緒にね」
先輩はするりと僕の横を抜けていき、白金は動きの余韻を残していった。ぼけっとしているのを背を向けていても見抜き、君は自分の椅子の用意を、と言われる。
浮ついた頭を起こすために両手で頬を叩き、赤い布の方へと向かった。下に眠っている椅子を一つ取って、前回と同じくぬいぐるみの右隣に置く。
座りながら隣人を眺めて、違和感に気付いた。茶色い短毛の毛皮が使われているようだが、パーツによって毛の長さも色の濃さも若干違う。お貴族様向けのぬいぐるみというのは、こういうものなのだろうか。
「さて、イセル君」
「は、はいっ!」
前を向くと、おかしいというように先輩の長髪が揺れていた。
「私に会いに来なかった言い訳を聞いてあげよう」
「……怒りませんか?」
「怒らないよ。名前を教え合って、私はもう君を許している。ただ、どんな理由があるのかと知りたいだけだ」
その表情は見えないが、きっと悪戯な笑みを浮かべているのだと想像出来た。かき乱された中に残る胸の引っかかりが、先輩によって外されていく。
「エドガーが、……えっと、僕の同級生が、先輩のキャディースプーンを返しに来たと思うんですが」
「そうだったね。イセルが来た翌日だったか、更に一日先だったか……。彼は私の元に来た」
「翌日です。エドガーは第三校舎に行って、それっきり寮には帰ってこなかった。第三校舎の階段で足を滑らせて、病院に運ばれたからです。教師に報告してくれたのって、メルヴィン先輩ですよね」
「ああ、私だ。彼とは世間話をしただけだったんだが、やはり一年生には最上級生が偉大な存在に見えてしまうらしい。どれだけ優しく声を掛けても終始怯えていてその帰り道に、という訳だ。……で、それが、君と関係あるのかな?」
固くなった音に、思わず下を向いた。正直に言えば、怖くなってしまったのだ。僕は運良く帰ってこれたけど、エドガーは違った。噂通り、自分一人では第三校舎から帰ってくることが出来なかった。キャディースプーンを渡したときも様子がおかしかったし、あれからエドガーの友人たちを中心として同級生たちからは遠巻きに見られている自覚がある。
やはり、ここは異質な場所なのだ。今までの忠告を正しく理解し、もう第三校舎には行かないつもりだった。
「はい。例えエドガーが自分で転げ落ちたのだとしても、もしかしたら彼は何か奇妙なものにやられたのかもしれないという疑念が拭えなくて。やっぱり、第三校舎には入るべきではないと思ったんです」
そう思えば思うほど、記憶の中の第三校舎は一層濃い匂いを放ち始めた。甘く、溶かすように、美しい人が僕をここに誘ってくる。そんな幻想が頭から離れず、気付いたら手は玄関の扉を開き、足は迷いなく一室を目指して進んでいた。
「入るべきでないと思ったのに、来たら先輩に会えると考えたら、身体が勝手に……」
「後輩にここまで慕われるのは初めてだ。嬉しいな」
こちらに振り返った先輩は、記憶よりもずっと輝かしい笑顔を浮かべていた。トレーを持って、近付いてくる。
「君の同級生はそういう運命を背負っていたんだろう。けれど、イセルは違う。何故だと思う?」
「え、えと、……わざわざ不幸にするほどの価値がないから?」
「私が君の運命を握っているから」
先輩はトレーを机に乗せて、何かを僕の口に押し込んだ。反射的に咀嚼すると、ほろほろとした触感の中から豊かな甘みが広がっていく。
「こうやって、焼き菓子を食べさせられているみたいにね。どう、美味しい?」
頷いて返事をすると、よかった、と言いながらお茶の用意をしてくれた。
「次に君がすべき行動はお茶を飲むことで、その次は私と話をすること。それから、毎日ここに遊びに来ることだ」
「……ん、と、毎日ですか?」
「毎日だ」
「でも、メルヴィン先輩と約束がある人はいますよね? 先週も先輩は誰かを待っていたようですし」
「あの日は誰も来る予定がなかった。それは、今日も、昨日も、明日も変わらない。イセルが来なければ、一人でお茶会をする寂しい奴なんだ。だから、駄目、かな……?」
目線を合わせるように身を屈め、琥珀色が寂しそうに僕を覗き込んできた。待ち合わせをしていないのなら、あれは誰に話しかけていたのだろう。もしかしたら、本当に悪魔がいて……。
「イセル」
輝かしい容貌に、翳りが生まれる。眉や、目元や、唇が、悲しみに歪んでいくのを見ると、胸がきゅっと苦しく締め付けられた。今まで考えていたことなんてどうでもよくて、この人の笑顔を取り戻すことこそが自分の運命なのだと、そう思わせる力が確かにあった。
「はっ、はい!」
「私といれば、君は不幸とは常に無縁の立場だと約束しよう。だから、遊びに来てくれないか?」
「分かり、ました」
言葉は反射的に出てきてしまっていた。取り返しのつかないことを宣言した自覚はあったが、エドガー達に虐げられてばかりだった情けない自分から脱却するための一歩を歩んだ証だと思うことにした。
「嬉しいよ……! ありがとう、イセル」
先輩の美貌がほころんだことで、これでよかったのだ、と理解する。溶けた琥珀の中に捕らえられているという事実が、優越感を与えてきた。
「これで、私達はもっと親しくなれるね。さあ、お菓子と紅茶がなくなるまで、互いを知り合おうじゃないか」
立ち上がって、二人分のカップをお茶で満たし、その片方を胸元で掲げていた。僕はただ、彼を見上げている。
メルヴィン先輩と約束をした通り、第三校舎にはほぼ毎日通い詰めた。ほぼ毎日、というのは、スポーツの応援や教員からのお使い等で門限まで拘束されることがあったからだ。前日までに分かればその旨を伝えておいたし、当日どうしてもとなった場合は急いで第三校舎の三階まで行って謝ってから、それに参加した。ただ、そういったものは先輩とのお茶会を重ねるにつれて、誘われることも頼まれることも減っていった。
その間、第三校舎内で他の人と出会うことも、先輩宛の来客もなかった。
互いを知れば知るほど、僕と先輩の間にある隔たりは大きくなっていった。第三校舎から一歩出てしまえば話しかけることも許されないような、そんな高貴な身分の人間なのだと会話や所作の節々から感じていた。
ある放課後にぬいぐるみのことを尋ねてしまった。
「このぬいぐるみ、可愛いですよね。でも、どうして毛皮がちぐはぐなんでしょうか」
先輩の定位置はいつも机の上で、そのときも机に腰を掛けて、僕を見下ろしていた。
「ああ、それはね、私が殺した子達の毛皮を使っているからだよ。毛が長く色が濃い方がマイロで、短く淡い方がベラ。私の最初の友達で、可愛くも勇敢な犬だ」
殺した、という平坦な音が、脳内で反響していた。なんてことないように言っているようだったが、そちらに視線を向けた瞬間、目元が一層垂れてしまったように見えた。
「そういう家なんだ。人の命に触れる覚悟を、私は理解しなければならなかった。頭では分かっていても、寂しくてね。彼らは兄妹だから、一つのぬいぐるみにした。……やはり、気味が悪いかな」
呟きを誤魔化すようにカップに口を付ける。ハンドルを摘む手は頼りなく、今にも指からこぼれ落ちていきそうだった。
はっきり言えば、気味が悪い。剥製にするわけではなく、二つの生き物の皮をわざわざ剥いで、一つのしかも別の生き物のぬいぐるみにしているのは、趣味が良くないと思う。でも、幼い先輩はそれでしか心を癒せなかったのだとしたら、気味悪さすら同情の火を燃やすための薪に変わる。
人の命に触れるとは、どんな運命を生まれながらに背負っているのだろう。高貴な身分の方々は苦しみの反対にいると思っていたのに、むしろ先輩はその中心にいるらしかった。
その苦しみを少しでも僕が請け負えればいいのに、と思いながら、唇を開く。
「気味が悪くなんか、ないです! その……、思い出が詰まっているのが、僕にはすごく伝わるので! どんな兄妹だったんですか?」
長い睫毛が揺れ、光が瞬いた。その輝きが、潤んだ唇を明るくした。
「マイロは大人しい子で、私の膝上で眠るのが好きだった。ベラは活発な子で、マイロの眠りの邪魔をしては喧嘩になって、でもいつの間にか仲直りをしている。本当に仲の良い兄妹だったんだよ」
先輩の家にやってきた日のこと、人の好き嫌いが激しかったこと、彼らが気に入っていた場所、二匹と幼い子どもの暖かな日々を口角を上向かせ、楽しそうに話してくれた。そして、その調子を崩さないまま、十歳の誕生日に彼らの命に手を掛けたんだ、と言った。微笑ましい出来事だと聞き流してしまいそうな穏やかさが、その言葉にはあった。
「我が家の教えとして、守ることが出来るのは自分の両腕に収まるものだけだ、と常々言われていたけれど、あの日ほど私という存在が無力なものだと感じた日はなかった」
先輩はカップを机に置いて、僕の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫で始めた。優しい手付きが心地良く、マイロとベラも同じ感情だったのだろうか、と無意識に思いを馳せる。
「なんてね。第三校舎では生まれも育ちも関係ない。そうだろう、イセル君?」
この綺麗で優しい手は、血に塗れている。けれど、今は関係ないと先輩は肯定して欲しいようだった。そうですね、と力強く返すと、綺麗ながらも綻びのある笑みを僕に送ってくれた。
逆に言えば、先輩の生まれや育ちに関係する話は、その程度だった。話したがらないわけではなく、僕に質問をすることの方がずっと楽しいかららしかった。
この学校に通っている理由を聞かれた。父さんが道端で助けた人がこの学校の卒業生で、そのお礼として家庭教師と入学の推薦状を準備してくれたからだと答えた。
家族構成を聞かれた。両親と年の離れた弟と、叔父夫婦が近所に住んでいると答えた。
学校生活について聞かれた。僕だけ身分が違うから当然友人らしい友人もおらず、寮は偶然にも一人部屋だと答える。
答えるたびに、僕を見下ろす人の美しさに気付かされる。彼の一挙一動は、どうしてこうも胸の内側をかき乱していくのだろう。初めは第三校舎に入ることを怖がっていたのに、いつしか第三校舎に入れなくなる日を怖く感じるようになっていた。
そして、長期休暇で実家に一度帰ったとき、胸を満たしていた邪な感情は爆発し、毎晩初めて会った日にもらったメモを読み、微かに残る匂いを辿り、見たこともない素肌を想像して目を開いたまま夢を見た。ハンドルを摘む骨ばった指に弄ばれ、思いを馳せるほどに甘い香りは部屋に充満していく。からかい混じりに名前を呼んで、僕の心を第三校舎へと導いた。高まった熱が冷めていくと、気付けば僕は学校とはほど遠い場所にいると気付く。してしまったことの愚かさを恥じ、メルヴィン先輩ごめんなさい、と呟いて、今度こそ瞼を閉じて眠る。メモにはもうあの人の匂いなど残っていない。
寮に戻ってから休みが開けるまでの数日間は、第三校舎に入ることが出来なかった。大人が、何人も出入りしていたのだ。覗いていたら、命が惜しいなら寮に帰りな、と素っ気なくあしらわれた。校内では見たことのない人達ばかりで、植物やら木材やらを運んでいたから、修繕業者なのかもしれないと勝手に結論付けた。古い校舎でもきちんと出入り出来るのは、それ相応の手入れが施されているからなのだろう。
それならきっと先輩もこの校舎に入ることが出来ず、どこかで暇を潰しているのかもしれない。だったら寮長にメルヴィン先輩のことを聞いて、と考えて、不快感を覚えた。どうしてか、他の人から先輩のことを教えてもらいたいとは思えない。一つ教えてもらうごとに、あの美しい人の一部を欠けさせて、奪っていくんじゃないかという不安さえ感じる。
入れない第三校舎、僕以外の中に存在するメルヴィン先輩……。その二つに苛まれ、結局学校が再開するまでは寮から出ることもなく過ごした。
永遠にも思われた時間がついに終わり、授業が終わってすぐに第三校舎へと駆けていって、中に足を踏み入れる。校舎内は相変わらず甘ったるい匂いに満ち、廊下や壁や至るところが古く朽ちている。業者が入ったはずでは、と中庭に視線を向ければ、室内庭園の花が入れ替わっており、その中心にちょっとしたベンチとテーブルらしきものがあることに気付いた。こんなもの、置いてあっただろうか。白く濁るガラスに顔を近付ける。ぼやけた中で、急にベンチが形を変え、立ち上がり、こちらに向かってくる。
人が、いる。
誰かがベンチで寝ていたらしかった。どうしよう、と思っている内に、どこかの扉が開く音がした。ぎいぎいと、気味悪く、足下を揺らす。
「おい」
恐る恐る声のする方を向くと、先輩とは系統の違う美形がいた。背の高さは僕と変わらないくらいで、緑色の瞳は気怠げだというのに、言い得ぬ圧がある。胸元にある蕾がこれから咲こうとする姿に、この人が二年生なのだと分かった。茶髪をかきあげながら、不機嫌さを隠そうとせず、言葉を発した。
「アンタ、何の用でここにいる」
「あ、え、えっと……」
頭を必死に回転させていると、先輩の注意書きの一節が咄嗟に口から飛び出た。
「おっ、お茶会の招待状を持っているんです。その、メルヴィン、せっ、先輩から、もらいましたっ……!」
「そうか」
視線が僕の言葉の綻びを探していた。全身を隈無く探って、オレも、と返される。
「えっ」
「オレも、メルヴィンに招待されている。でも、部屋の位置を忘れた」
僕のバッジを強く指で押し込まれる。金属部が布越しに刺さって、痛い。
「案内しろ、下級生」
はい、と返事をするのもやっとだった。喉が情けない音を慣らすと、ぴんと指先で身体を弾かれ、転びそうになる。方向を変えようとしたという態度で誤魔化し、階段に向かって廊下を歩き進めた。一階から二階に上がっても何も言ってくることはなく、三階までたどり着いたと同時に、三階だったか、ととぼけた調子で呟かれた。
気付かれない程度の早足で進み、助けを求めて扉を開く。
「今日は早いね。……って、どこでそれを捕まえてきたのかな、イセル君?」
「本当に招待客なのか、アンタ」
「お前と違ってね」
そう言っている先輩の表情は柔く砕けていて、胸がざわついた。後ろにいた人は僕を置き去りにして、先輩の方へと近付いていく。
「二人は仲良しだったのかな?」
「案内を買ってくれて、それから。楽しい道中だった」
「私の知らないところで仲良くなったなんて、妬けるな。次からはやめてくれ。お前とは喧嘩をしたくない」
「はいはい」
「破ったらお前の素晴らしいお兄様に報告するからな」
うえ、と言いながら、見知らぬ先輩はゆらゆらと移動し、メルヴィン先輩の席に勝手に座った。
そこは、先輩の場所のはずなのに。
火花が弾けるように、一瞬で頭が怒りに支配される。けれど、無力な僕には為す術もなく、ぐっと歯を食いしばって睨みつけるので精一杯だった。
「イセル」
柔い音が僕を支配していた熱情を包み、冷ましていく。身体から力が抜けていくのを感じながら、先輩の方を見た。
「は、い……っ!?」
喉上を指が滑り、返事を拒むようにくいと顎を上げられる。無理矢理合わされた視線に、首が痛む。
「私の忠告を破ったね?」
「見た目に寄らず度胸のある下級生だこと」
「お前は黙っていてくれ。……改めて聞こうか、君がどうしてあれと一緒にこの部屋に来たのか」
普段の穏やかさはどこにもなく、まるで犯罪者の罪状を見定めるようにきつく瞳を落としている。心臓がきゅっと怯え、言葉を発しようと思うと唇は重たく、喉が張り付いた。
顎に爪が食い込む。皮膚の下に潜って、僕の弁明を捕らえようと、力が入っていく。
「ぁ、えっ、あと、ぼ、ぼく……」
「イセル、教えてごらん」
「ご、ごめんなさい、室内庭園を覗いたんです。立ち入らなければ大丈夫だと思って、その、ガラスの向こうを覗いてしまいました……」
「下級生の言葉は間違っていない。無礼な奴だと思ってオレはソイツに接触した。そしたら、メルヴィンの話をしてくるから、本当か確かめてやろうと思った」
「そうか」
短く呟いて、僕の頬を指の腹で挟んだ。
「わっ!?」
むにむにと揉んで、間抜けな音をこぼす僕を先輩は笑っていた。さっきまでが嘘のように、目元の緊張を緩め、楽しそうに声を弾ませている。
「ふふ、私が怒ったと思って驚いた?」
「ひゃい……」
「イセルは私との約束を守る子だもの、あれがちょっかいをかけたとは分かっていた。……でもね」
綺麗な顔を近付け、僕にしか聞こえないほど小さな声で囁く。
「嫉妬したんだ。君の先輩は、私だけだと思っていたから」
不自然に睫毛を瞬かせ、寂しそうに瞳を揺らした。その一瞬の動作が、僕の胸の内側をおかしくしていく。
まるで、先輩にとって僕が特別な存在になったかのようだ。
勘違いだと自分に言い聞かせる隙もなく、身勝手な優越感が脳を支配する。気付けば唇はひとりでに動き出していた。
「ぼ、ぼくは、メルヴィンせんぱいが、ぼくにとってゆいいつの、せんぱいだと、おもってますっ」
「おや! ヴィンス、聞いた? 私が唯一の先輩だって!」
先輩はぱっと僕を手放して、長い髪を揺らしなが僕以外の人に近付いた。見たいものでもないのに、長身の脇からは僕を小馬鹿にするような表情が見える。目元に力が入りそうになったところで、彼の視線がこちらを射抜いていることに気付き、俯く。
僕は、先輩のことになると、どうしてこんなにもひどい奴になってしまうのだろう。まるで、エドガーの悪意が僕の魂に入ってきてしまったみたいだ。
「可哀想に」
「なあに、ヴィンス? もう一回聞かせてくれよ」
「素晴らしい下級生をお持ちで、と言ったんだ」
「そうだとも。イセルは本当に素晴らしい子だ、お前にはあげないよ」
「素晴らしいとは言ったが、欲しいとは言ってないし、いらない」
わざとらしい溜息をこぼして、喉が乾いた、と呟かれた。先輩はそれを掬い上げ、上機嫌な音を鳴らす。
「今日に相応しいものを用意してあげよう」
イセル、と柔らかく呼ばれ、顔を上げる。こちらを振り返る先輩の頬が明るく色付いているのが、まるであの人のおかげのような気がして、強く拳を握った。
「席についてなさい」
「は、い」
言われたままに身体を動かして、いつもの椅子を用意して座ると、必然的にあの人と向き合う形になってしまった。見慣れた後ろ姿が、彼のせいでわずかに欠けてしまっている。
向かいの男は僕の気持ちなどお構いなしに大きなあくびをして、机に突っ伏した。
「ヴィンセントだ、下級生」
「えっ」
「その子の名前だよ。昔からの付き合いで弟のようなものだからヴィンスって呼んでるけど、そうだな……、イセルは気軽に上級生って呼んであげて」
「オレは何でもいいが、上級生と言われて反応できる自信がない。本当に用があるときは、名前で頼む」
「我が儘なのも昔からだ」
「アンタほどじゃない」
気怠げな視線をこちらに向けてから、ゆっくりと瞼を落とした。
「ヴィンセント先輩……?」
「ヴィンセントさん、でいい。オレとアンタはそれくらいの距離感だろ」
はっきりとした寝言を口にして、彼は顔を腕の中に隠した。会話の終わりを知らせるように、肩が穏やかに上下し始める。
「悪いね、イセル。兄に甘やかされてきた子だから、手に負えないほど我が儘なんだ」
ソーサーやカップを並べる音に混じって、アンタほどじゃないし甘やかされてもいない、とくぐもった声が聞こえた。メルヴィン先輩は特に気に止めることなく紅茶を注ぎ入れてから、こちらにやってきた。
いつものように机に腰を掛け、互いの間にトレーを置いた。視線が動作に釣られる。
ティーセットも、お菓子も、一人分しかない。
「イセル、私はまだ君の事を許していないんだ。二人で秘め事を作ってきたのだと思うと、胸が強い怒りに支配されそうになる」
しなやかな曲線を持つ指がクッキーを掴み、僕の目の前に差し出される。よく分からないまま受け取ろうとした途端にそれは逃げ、唇の中に姿を隠した。口の中で砕かれ、喉仏が上下し、体内へと潜っていく。
「だから、今日は君の分を用意しなかった」
「すみませんでした……」
「可愛く謝られては、怒りの手を止めたくなってしまうだろう? 駄目だよ、イセル、私はこんなにも怒っているんだ」
先輩はもう一枚クッキーを掴み、唇の近くに運んだ。
「今日の私は怒っているんだ。だから、君には何もあげない。……でも、イセルが私から奪うのなら、それをどうしようが私は許そう」
焼き菓子に乗った真っ赤なジャムが、形の良い唇を艶めかせた。優しく挟み、身動きが取れないまま少しずつ近付く距離が、悪戯っぽい瞳が、僕に恐ろしいことを囁きかけてくる。よくないことだ。長い睫毛の一つひとつが、はっきりと見えてくる。そんなことをしてはいけない。琥珀色の中に、どうしようもない人間が捕らえられている。駄目。甘い匂いが、戒めるための言葉を、溶かしていく。
せんぱい、と言おうとした唇に、ざらついたものが触れた。鼻腔は魅了に落ち、視界は先輩でいっぱいだった。心臓の暴走が鼓膜を揺らしている。
あれを、食べたい。
思うのと、甘ったるさが舌に触れるのは同時だった。自分のしでかしたことから逃げようとすると、綺麗な顔がぐいとビスケットを押し込んでくる。上唇の山にわずかになにかが触れた気がした。
「奪われてしまったね、君に」
鼓膜が重たく揺らされる。手を口元に持って行って、焼き菓子を押し込んだ。指が震え、思わず上唇を押し上げる。べたっとしたものが指と唇をくっつけたように思えたが、それらは簡単に離れていった。
「焼き菓子も、紅茶も、まだあるからね」
見せつけるように差し出された一枚を見つめていると、可哀想に、と呆れるような音が聞こえた。咀嚼途中の口に、新たなビスケットが押し込まれる。琥珀色の瞳はもう僕から離れていて、苦しくなっていることにすら気付いてくれない。
「構ってもらえなくて寂しいのか、ヴィンス? お前の口はなんのためにあるんだ」
「アンタと兄さんに文句を言うためにある。おかわり」
「我が儘に育った弟だな」
「オレはアンタの弟じゃない」
しょうがない、と言って、先輩は机から降りた。あの人の元に近付いて、軽い言葉を交わし、チェストへと向かっていく。
「下級生」
鋭い声色が、僕に飛んでくる。
「一度しか言わない。穏やかな人生を送りたいなら、もうこの校舎に近付くな」
「ヴィンス、お兄様ごっこはよしてくれ。イセル、この子は誰かの上に立ってみたいんだ、末っ子の憧れだからね。愛想笑いで聞き流してくれ」
ヴィンセントさんはメルヴィン先輩に咎められても、一切気にしている様子はない。育ちの滲む指先でカップの中身を仰いだ。
「次に来ることがあるなら、盤上競技の一つでも勉強してこい。カード以外だ、両腕を奪われても問題ないような口頭でも戦えるものにしろ」
「ヴィンス」
「オレは、アンタが可哀想だと思った。ただ、好き好んで第三校舎に来てるなら、心の底から素晴らしいことだとも考える。以上」
食器を乱雑に退けたかと思うと、あくびをしながら机に突っ伏した。肩の動きが徐々に力の抜けたものに変わっていくのをぼんやりと見つめる。
僕のなにが可哀想だと思っているのだろう。
この人は苦手だ。高圧的で、自分勝手で、先輩の昔からの知り合いで、それなのに先輩には素っ気ない態度で……、出会ったばかりなのに苦手なところは山ほど浮かび上がってくる。聞き流してくれと先輩も言っていた。
でも、この人の言葉には悪意があるようには思えない。エドガー達の意地悪とは違うなにかが、気怠そうな中にある気がする。
「寝てしまっては飲めないだろう、まったく……。イセル、そこにあるのは君の分にしなさい。私は兄代わりとして彼の我が儘を受け止めないといけなくなった」
不機嫌そうに言いながら、こちらへとやってきた。机が揺れることもお構いなしにどかっと座り、僕を見下ろした。
「あれのことは気にしなくていいからね」
むすっとした表情すらも、輝いて見えた。
メルヴィン先輩の後輩でいることは、可哀想なことじゃない。むしろ、誇らしいことだ。この人の美しさは、それだけでなににも代え難い価値がある。
もし、美しさの中身を満たすものを知ることが出来るのなら。
一瞬にして浮かび上がった欲望が、唇を勝手に動かした。
「先輩は、盤上競技をされますか」
「どうして?」
「その……、僕は、またこの教室に来たいので……。ヴィンセントさんに認めてもらうために、一勝をあげれるようになりたくて教えていただけたらと……」
先輩は垂れ目を大きく開き、長い睫毛を素早く揺らした。トレイから離れた片手が、こちらに伸びてくる。
「頼る相手を間違えなかったことを褒めてあげよう。ヴィンスはね、私に一度も勝てた試しがないんだ」
優しい手付きで僕の頭を撫で、妬けるな、と微笑んだ。意地悪っぽく片目を瞑る姿に心を奪われながら、彼を見上げていた。
「下級生に勝つと気分が良い。もう一戦」
簡単なルールだけを覚えただけの僕を、ヴィンセントさんは容赦なく叩きのめした。先輩の師事を受けているのに情けない結果で終わってしまうたびに、次こそは勝ってやろうと自棄になってしまう。そうやって互いにのめり込んでいき、呆れた先輩が僕の駒を動かし始めることで、遊びを打ち切るのが常だった。
先輩の指先は、まるで自然災害だ。突如として表れ、僕たちで組み上げた盤上の光景を一瞬にして荒らしていってしまう。そして、いつの間にか先輩の動かした駒は王者としてその場に君臨している。
「メルヴィンが入ってくると面白くない」
「それはよかった。さあ、イセル、お茶にしよう」
築いたすべてを手で払って、盤の上にトレーを乗せる。場が完全に先輩の支配下に置かれると僕たちには為す術もなく、視線だけで次の一戦を約束してゲームは終わりとなる。
ヴィンセントさんは、最初の印象よりもずっと親しみやすい人だった。とにかく、行動が気紛れで、けれどもはっきりとしているのだ。勝負の最中は気怠さが吹き飛ぶくせに、飽きてきたら眠り、味が好みでなければ文句を言う。室内庭園の管理人であるらしく、僕が第三校舎にやってきてから寮に帰るまでずっとベンチで仮眠をとっている日もある。僕と変わらない身長なのも相俟って、年下の従兄弟の相手をしているような気分になる。彼を、ヴィンセントさん、と他人行儀に呼んでやっと、家柄の優れた年上の先輩であると思い出すのだった。
先輩との間柄を羨む心は消せないが、そこに少しずつ友情に似たものが同居するようになっていた。
「もしも下級生がオレに勝てたら、庭園でお祝いをしてやろう」
唇の片側をわずかに吊り上げて言う台詞に、ヴィンス、と呆れた音が重ねられるのがいつものことになっていた。
彼と何度戦っても、全く勝てる兆しはない。そして、勝敗の決め手を楽しそうに指しながら、同じ台詞を口にするのだ。
「可哀想な下級生。最初に出会ったのがオレなら、アンタを生涯の好敵手にしてやったのに」
一週間振りに訪れた第三校舎の一室で、先輩は頬を膨らませて僕を睨みつけていた。幼い動作と柔らかな垂れ目には、こちらを怯えさせる効果はまったくなかった。
胸に引っかかりを感じながらも、部屋に一歩踏み入れる。
「すみません」
「本当にどうしてやろうか」
言葉に反して、声色は明るい。部屋の主は机に腰を下ろし、長い足をわざとらしく揺らし始めた。腰ほどもある白金が、それに釣られて左右に動く。
「私は悪魔じゃないからね、君が名前を教えてくれるのなら今回のことは水に流してあげよう」
「あっ、ありがとうございます」
「素直なのはいいことだ。こっちにおいで」
いじける素振りをやめて、手招きされた。ある程度近付いて立ち止まると、もっと近く、とあどけなく怒られる。
「そこじゃあ、私が聞き間違えてしまうかもしれないだろう」
そんなことはないと思いますけど、とはさすがに言えなかった。友人と話すような近さだし、何より僕は先輩の声がはっきりと聞こえている。
「私の近くに来て。そうだ、一歩、もう一歩」
命令されるままに足を動かすと、あっという間に距離というものがなくなってしまっていた。先輩はぐっと顔を近付けて、悪戯っぽく笑った。
視界には、先輩しかいない。左右は絹糸のような髪に遮られて、何も見ることが出来ない。
「これなら、聞き間違えることはなさそうだ」
冷たいものが唇をなぞる。少し遅れて、それが先輩の指であったと気付く。
「君のお名前は?」
触れられたときの微かな熱が、勝手に唇を動かしていた。
「イセル、です。イセル・ラ……」
言い掛けていた言葉は、しなやかな曲線を持つ指先に押さえつけられた。小さな子どもを叱るような、くすぐったい声で先輩は僕を注意する。
「第三校舎においては、生まれも育ちも関係ない。忘れてしまったのかな、イセル君?」
「あい……」
「ふふっ、可愛い音だね。だから君は家名を名乗る必要がないし、私も名乗らない。ここではそういう決まりなんだ」
先輩は指を離し、互いの境界線をさらに乱していく。形の良い唇が僕の顔のどこかに触れそうになって、思わず目を強く瞑った。
熱い吐息が、耳たぶをくすぐる。
「メルヴィン」
「へ……?」
驚きのままに目を開けば、先輩は意地悪な表情を僕の眼前に晒していた。
「私の名前だ。……おや、顔を真っ赤にしてどうしたのかな?」
「なっ、なんでもない、です」
そうか、と納得して、メルヴィン先輩は身体を少し持ち上げた。それに合わせて一歩足を後ろに引いたところで、ぱっと手首を掴まれる。
「間違えないように、綴りも教えてあげよう」
手のひらを上に向けたと思ったら、柔く爪を突き立てられた。大振りな筆跡は、皮膚の上をゆったりと滑っていく。くすぐったくて身を捩っても、先輩はお構いなしに文字を書き連ねている。
「メ、ル、ヴィ、ン」
指が文字を描くたびに、僕の心の内側もかき回されていた。もっと触れられたい、琥珀の中に留めて欲しい、この美しさの正体を知りたい、と様々な欲望が暴れ、混ざり合い、気がおかしくなりそうだった。
この人は、一体なんなんだろう。
本当に僕と同じ人間なのだろうか。こんなに心を惑わせる綺麗な生き物は、悪魔と言われた方がまだ納得がいく。
「覚えた?」
「あ、え、はい……」
「本当に? なんだか怪しいな」
書くのをやめて、今度は人差し指を優しく包んだ。手首を掴んでいた手を僕の方に見せつける。
薄ピンクの皮膚の上に、僕の指は押しつけられていた。
「ほら、書いてみて。メルヴィン、だ」
指がどこまでも深く落ちていきそうな心地良さと、誰にも傷付けることの出来ないような弾力を、薄ピンクは兼ね備えていた。自分の指先にわずかに触れる感覚に、全身の血が沸き上がる。
やっていることは子どものお遊びでしかないのに、妙な興奮を感じていた。文字が震える。指の通った一瞬だけ皮膚は白くなり、内側に文字を刻んでまた薄ピンクに戻っていく。
自分が何を書いているのか、書き終わったのかもよく分からなかった。ただ、上手に書けたね、と先輩が言ってくれたから、すべてを正しく綴れていたのだと気付いた。
「よく出来ました。ご褒美にお茶を振る舞ってあげよう、勿論お菓子も一緒にね」
先輩はするりと僕の横を抜けていき、白金は動きの余韻を残していった。ぼけっとしているのを背を向けていても見抜き、君は自分の椅子の用意を、と言われる。
浮ついた頭を起こすために両手で頬を叩き、赤い布の方へと向かった。下に眠っている椅子を一つ取って、前回と同じくぬいぐるみの右隣に置く。
座りながら隣人を眺めて、違和感に気付いた。茶色い短毛の毛皮が使われているようだが、パーツによって毛の長さも色の濃さも若干違う。お貴族様向けのぬいぐるみというのは、こういうものなのだろうか。
「さて、イセル君」
「は、はいっ!」
前を向くと、おかしいというように先輩の長髪が揺れていた。
「私に会いに来なかった言い訳を聞いてあげよう」
「……怒りませんか?」
「怒らないよ。名前を教え合って、私はもう君を許している。ただ、どんな理由があるのかと知りたいだけだ」
その表情は見えないが、きっと悪戯な笑みを浮かべているのだと想像出来た。かき乱された中に残る胸の引っかかりが、先輩によって外されていく。
「エドガーが、……えっと、僕の同級生が、先輩のキャディースプーンを返しに来たと思うんですが」
「そうだったね。イセルが来た翌日だったか、更に一日先だったか……。彼は私の元に来た」
「翌日です。エドガーは第三校舎に行って、それっきり寮には帰ってこなかった。第三校舎の階段で足を滑らせて、病院に運ばれたからです。教師に報告してくれたのって、メルヴィン先輩ですよね」
「ああ、私だ。彼とは世間話をしただけだったんだが、やはり一年生には最上級生が偉大な存在に見えてしまうらしい。どれだけ優しく声を掛けても終始怯えていてその帰り道に、という訳だ。……で、それが、君と関係あるのかな?」
固くなった音に、思わず下を向いた。正直に言えば、怖くなってしまったのだ。僕は運良く帰ってこれたけど、エドガーは違った。噂通り、自分一人では第三校舎から帰ってくることが出来なかった。キャディースプーンを渡したときも様子がおかしかったし、あれからエドガーの友人たちを中心として同級生たちからは遠巻きに見られている自覚がある。
やはり、ここは異質な場所なのだ。今までの忠告を正しく理解し、もう第三校舎には行かないつもりだった。
「はい。例えエドガーが自分で転げ落ちたのだとしても、もしかしたら彼は何か奇妙なものにやられたのかもしれないという疑念が拭えなくて。やっぱり、第三校舎には入るべきではないと思ったんです」
そう思えば思うほど、記憶の中の第三校舎は一層濃い匂いを放ち始めた。甘く、溶かすように、美しい人が僕をここに誘ってくる。そんな幻想が頭から離れず、気付いたら手は玄関の扉を開き、足は迷いなく一室を目指して進んでいた。
「入るべきでないと思ったのに、来たら先輩に会えると考えたら、身体が勝手に……」
「後輩にここまで慕われるのは初めてだ。嬉しいな」
こちらに振り返った先輩は、記憶よりもずっと輝かしい笑顔を浮かべていた。トレーを持って、近付いてくる。
「君の同級生はそういう運命を背負っていたんだろう。けれど、イセルは違う。何故だと思う?」
「え、えと、……わざわざ不幸にするほどの価値がないから?」
「私が君の運命を握っているから」
先輩はトレーを机に乗せて、何かを僕の口に押し込んだ。反射的に咀嚼すると、ほろほろとした触感の中から豊かな甘みが広がっていく。
「こうやって、焼き菓子を食べさせられているみたいにね。どう、美味しい?」
頷いて返事をすると、よかった、と言いながらお茶の用意をしてくれた。
「次に君がすべき行動はお茶を飲むことで、その次は私と話をすること。それから、毎日ここに遊びに来ることだ」
「……ん、と、毎日ですか?」
「毎日だ」
「でも、メルヴィン先輩と約束がある人はいますよね? 先週も先輩は誰かを待っていたようですし」
「あの日は誰も来る予定がなかった。それは、今日も、昨日も、明日も変わらない。イセルが来なければ、一人でお茶会をする寂しい奴なんだ。だから、駄目、かな……?」
目線を合わせるように身を屈め、琥珀色が寂しそうに僕を覗き込んできた。待ち合わせをしていないのなら、あれは誰に話しかけていたのだろう。もしかしたら、本当に悪魔がいて……。
「イセル」
輝かしい容貌に、翳りが生まれる。眉や、目元や、唇が、悲しみに歪んでいくのを見ると、胸がきゅっと苦しく締め付けられた。今まで考えていたことなんてどうでもよくて、この人の笑顔を取り戻すことこそが自分の運命なのだと、そう思わせる力が確かにあった。
「はっ、はい!」
「私といれば、君は不幸とは常に無縁の立場だと約束しよう。だから、遊びに来てくれないか?」
「分かり、ました」
言葉は反射的に出てきてしまっていた。取り返しのつかないことを宣言した自覚はあったが、エドガー達に虐げられてばかりだった情けない自分から脱却するための一歩を歩んだ証だと思うことにした。
「嬉しいよ……! ありがとう、イセル」
先輩の美貌がほころんだことで、これでよかったのだ、と理解する。溶けた琥珀の中に捕らえられているという事実が、優越感を与えてきた。
「これで、私達はもっと親しくなれるね。さあ、お菓子と紅茶がなくなるまで、互いを知り合おうじゃないか」
立ち上がって、二人分のカップをお茶で満たし、その片方を胸元で掲げていた。僕はただ、彼を見上げている。
メルヴィン先輩と約束をした通り、第三校舎にはほぼ毎日通い詰めた。ほぼ毎日、というのは、スポーツの応援や教員からのお使い等で門限まで拘束されることがあったからだ。前日までに分かればその旨を伝えておいたし、当日どうしてもとなった場合は急いで第三校舎の三階まで行って謝ってから、それに参加した。ただ、そういったものは先輩とのお茶会を重ねるにつれて、誘われることも頼まれることも減っていった。
その間、第三校舎内で他の人と出会うことも、先輩宛の来客もなかった。
互いを知れば知るほど、僕と先輩の間にある隔たりは大きくなっていった。第三校舎から一歩出てしまえば話しかけることも許されないような、そんな高貴な身分の人間なのだと会話や所作の節々から感じていた。
ある放課後にぬいぐるみのことを尋ねてしまった。
「このぬいぐるみ、可愛いですよね。でも、どうして毛皮がちぐはぐなんでしょうか」
先輩の定位置はいつも机の上で、そのときも机に腰を掛けて、僕を見下ろしていた。
「ああ、それはね、私が殺した子達の毛皮を使っているからだよ。毛が長く色が濃い方がマイロで、短く淡い方がベラ。私の最初の友達で、可愛くも勇敢な犬だ」
殺した、という平坦な音が、脳内で反響していた。なんてことないように言っているようだったが、そちらに視線を向けた瞬間、目元が一層垂れてしまったように見えた。
「そういう家なんだ。人の命に触れる覚悟を、私は理解しなければならなかった。頭では分かっていても、寂しくてね。彼らは兄妹だから、一つのぬいぐるみにした。……やはり、気味が悪いかな」
呟きを誤魔化すようにカップに口を付ける。ハンドルを摘む手は頼りなく、今にも指からこぼれ落ちていきそうだった。
はっきり言えば、気味が悪い。剥製にするわけではなく、二つの生き物の皮をわざわざ剥いで、一つのしかも別の生き物のぬいぐるみにしているのは、趣味が良くないと思う。でも、幼い先輩はそれでしか心を癒せなかったのだとしたら、気味悪さすら同情の火を燃やすための薪に変わる。
人の命に触れるとは、どんな運命を生まれながらに背負っているのだろう。高貴な身分の方々は苦しみの反対にいると思っていたのに、むしろ先輩はその中心にいるらしかった。
その苦しみを少しでも僕が請け負えればいいのに、と思いながら、唇を開く。
「気味が悪くなんか、ないです! その……、思い出が詰まっているのが、僕にはすごく伝わるので! どんな兄妹だったんですか?」
長い睫毛が揺れ、光が瞬いた。その輝きが、潤んだ唇を明るくした。
「マイロは大人しい子で、私の膝上で眠るのが好きだった。ベラは活発な子で、マイロの眠りの邪魔をしては喧嘩になって、でもいつの間にか仲直りをしている。本当に仲の良い兄妹だったんだよ」
先輩の家にやってきた日のこと、人の好き嫌いが激しかったこと、彼らが気に入っていた場所、二匹と幼い子どもの暖かな日々を口角を上向かせ、楽しそうに話してくれた。そして、その調子を崩さないまま、十歳の誕生日に彼らの命に手を掛けたんだ、と言った。微笑ましい出来事だと聞き流してしまいそうな穏やかさが、その言葉にはあった。
「我が家の教えとして、守ることが出来るのは自分の両腕に収まるものだけだ、と常々言われていたけれど、あの日ほど私という存在が無力なものだと感じた日はなかった」
先輩はカップを机に置いて、僕の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫で始めた。優しい手付きが心地良く、マイロとベラも同じ感情だったのだろうか、と無意識に思いを馳せる。
「なんてね。第三校舎では生まれも育ちも関係ない。そうだろう、イセル君?」
この綺麗で優しい手は、血に塗れている。けれど、今は関係ないと先輩は肯定して欲しいようだった。そうですね、と力強く返すと、綺麗ながらも綻びのある笑みを僕に送ってくれた。
逆に言えば、先輩の生まれや育ちに関係する話は、その程度だった。話したがらないわけではなく、僕に質問をすることの方がずっと楽しいかららしかった。
この学校に通っている理由を聞かれた。父さんが道端で助けた人がこの学校の卒業生で、そのお礼として家庭教師と入学の推薦状を準備してくれたからだと答えた。
家族構成を聞かれた。両親と年の離れた弟と、叔父夫婦が近所に住んでいると答えた。
学校生活について聞かれた。僕だけ身分が違うから当然友人らしい友人もおらず、寮は偶然にも一人部屋だと答える。
答えるたびに、僕を見下ろす人の美しさに気付かされる。彼の一挙一動は、どうしてこうも胸の内側をかき乱していくのだろう。初めは第三校舎に入ることを怖がっていたのに、いつしか第三校舎に入れなくなる日を怖く感じるようになっていた。
そして、長期休暇で実家に一度帰ったとき、胸を満たしていた邪な感情は爆発し、毎晩初めて会った日にもらったメモを読み、微かに残る匂いを辿り、見たこともない素肌を想像して目を開いたまま夢を見た。ハンドルを摘む骨ばった指に弄ばれ、思いを馳せるほどに甘い香りは部屋に充満していく。からかい混じりに名前を呼んで、僕の心を第三校舎へと導いた。高まった熱が冷めていくと、気付けば僕は学校とはほど遠い場所にいると気付く。してしまったことの愚かさを恥じ、メルヴィン先輩ごめんなさい、と呟いて、今度こそ瞼を閉じて眠る。メモにはもうあの人の匂いなど残っていない。
寮に戻ってから休みが開けるまでの数日間は、第三校舎に入ることが出来なかった。大人が、何人も出入りしていたのだ。覗いていたら、命が惜しいなら寮に帰りな、と素っ気なくあしらわれた。校内では見たことのない人達ばかりで、植物やら木材やらを運んでいたから、修繕業者なのかもしれないと勝手に結論付けた。古い校舎でもきちんと出入り出来るのは、それ相応の手入れが施されているからなのだろう。
それならきっと先輩もこの校舎に入ることが出来ず、どこかで暇を潰しているのかもしれない。だったら寮長にメルヴィン先輩のことを聞いて、と考えて、不快感を覚えた。どうしてか、他の人から先輩のことを教えてもらいたいとは思えない。一つ教えてもらうごとに、あの美しい人の一部を欠けさせて、奪っていくんじゃないかという不安さえ感じる。
入れない第三校舎、僕以外の中に存在するメルヴィン先輩……。その二つに苛まれ、結局学校が再開するまでは寮から出ることもなく過ごした。
永遠にも思われた時間がついに終わり、授業が終わってすぐに第三校舎へと駆けていって、中に足を踏み入れる。校舎内は相変わらず甘ったるい匂いに満ち、廊下や壁や至るところが古く朽ちている。業者が入ったはずでは、と中庭に視線を向ければ、室内庭園の花が入れ替わっており、その中心にちょっとしたベンチとテーブルらしきものがあることに気付いた。こんなもの、置いてあっただろうか。白く濁るガラスに顔を近付ける。ぼやけた中で、急にベンチが形を変え、立ち上がり、こちらに向かってくる。
人が、いる。
誰かがベンチで寝ていたらしかった。どうしよう、と思っている内に、どこかの扉が開く音がした。ぎいぎいと、気味悪く、足下を揺らす。
「おい」
恐る恐る声のする方を向くと、先輩とは系統の違う美形がいた。背の高さは僕と変わらないくらいで、緑色の瞳は気怠げだというのに、言い得ぬ圧がある。胸元にある蕾がこれから咲こうとする姿に、この人が二年生なのだと分かった。茶髪をかきあげながら、不機嫌さを隠そうとせず、言葉を発した。
「アンタ、何の用でここにいる」
「あ、え、えっと……」
頭を必死に回転させていると、先輩の注意書きの一節が咄嗟に口から飛び出た。
「おっ、お茶会の招待状を持っているんです。その、メルヴィン、せっ、先輩から、もらいましたっ……!」
「そうか」
視線が僕の言葉の綻びを探していた。全身を隈無く探って、オレも、と返される。
「えっ」
「オレも、メルヴィンに招待されている。でも、部屋の位置を忘れた」
僕のバッジを強く指で押し込まれる。金属部が布越しに刺さって、痛い。
「案内しろ、下級生」
はい、と返事をするのもやっとだった。喉が情けない音を慣らすと、ぴんと指先で身体を弾かれ、転びそうになる。方向を変えようとしたという態度で誤魔化し、階段に向かって廊下を歩き進めた。一階から二階に上がっても何も言ってくることはなく、三階までたどり着いたと同時に、三階だったか、ととぼけた調子で呟かれた。
気付かれない程度の早足で進み、助けを求めて扉を開く。
「今日は早いね。……って、どこでそれを捕まえてきたのかな、イセル君?」
「本当に招待客なのか、アンタ」
「お前と違ってね」
そう言っている先輩の表情は柔く砕けていて、胸がざわついた。後ろにいた人は僕を置き去りにして、先輩の方へと近付いていく。
「二人は仲良しだったのかな?」
「案内を買ってくれて、それから。楽しい道中だった」
「私の知らないところで仲良くなったなんて、妬けるな。次からはやめてくれ。お前とは喧嘩をしたくない」
「はいはい」
「破ったらお前の素晴らしいお兄様に報告するからな」
うえ、と言いながら、見知らぬ先輩はゆらゆらと移動し、メルヴィン先輩の席に勝手に座った。
そこは、先輩の場所のはずなのに。
火花が弾けるように、一瞬で頭が怒りに支配される。けれど、無力な僕には為す術もなく、ぐっと歯を食いしばって睨みつけるので精一杯だった。
「イセル」
柔い音が僕を支配していた熱情を包み、冷ましていく。身体から力が抜けていくのを感じながら、先輩の方を見た。
「は、い……っ!?」
喉上を指が滑り、返事を拒むようにくいと顎を上げられる。無理矢理合わされた視線に、首が痛む。
「私の忠告を破ったね?」
「見た目に寄らず度胸のある下級生だこと」
「お前は黙っていてくれ。……改めて聞こうか、君がどうしてあれと一緒にこの部屋に来たのか」
普段の穏やかさはどこにもなく、まるで犯罪者の罪状を見定めるようにきつく瞳を落としている。心臓がきゅっと怯え、言葉を発しようと思うと唇は重たく、喉が張り付いた。
顎に爪が食い込む。皮膚の下に潜って、僕の弁明を捕らえようと、力が入っていく。
「ぁ、えっ、あと、ぼ、ぼく……」
「イセル、教えてごらん」
「ご、ごめんなさい、室内庭園を覗いたんです。立ち入らなければ大丈夫だと思って、その、ガラスの向こうを覗いてしまいました……」
「下級生の言葉は間違っていない。無礼な奴だと思ってオレはソイツに接触した。そしたら、メルヴィンの話をしてくるから、本当か確かめてやろうと思った」
「そうか」
短く呟いて、僕の頬を指の腹で挟んだ。
「わっ!?」
むにむにと揉んで、間抜けな音をこぼす僕を先輩は笑っていた。さっきまでが嘘のように、目元の緊張を緩め、楽しそうに声を弾ませている。
「ふふ、私が怒ったと思って驚いた?」
「ひゃい……」
「イセルは私との約束を守る子だもの、あれがちょっかいをかけたとは分かっていた。……でもね」
綺麗な顔を近付け、僕にしか聞こえないほど小さな声で囁く。
「嫉妬したんだ。君の先輩は、私だけだと思っていたから」
不自然に睫毛を瞬かせ、寂しそうに瞳を揺らした。その一瞬の動作が、僕の胸の内側をおかしくしていく。
まるで、先輩にとって僕が特別な存在になったかのようだ。
勘違いだと自分に言い聞かせる隙もなく、身勝手な優越感が脳を支配する。気付けば唇はひとりでに動き出していた。
「ぼ、ぼくは、メルヴィンせんぱいが、ぼくにとってゆいいつの、せんぱいだと、おもってますっ」
「おや! ヴィンス、聞いた? 私が唯一の先輩だって!」
先輩はぱっと僕を手放して、長い髪を揺らしなが僕以外の人に近付いた。見たいものでもないのに、長身の脇からは僕を小馬鹿にするような表情が見える。目元に力が入りそうになったところで、彼の視線がこちらを射抜いていることに気付き、俯く。
僕は、先輩のことになると、どうしてこんなにもひどい奴になってしまうのだろう。まるで、エドガーの悪意が僕の魂に入ってきてしまったみたいだ。
「可哀想に」
「なあに、ヴィンス? もう一回聞かせてくれよ」
「素晴らしい下級生をお持ちで、と言ったんだ」
「そうだとも。イセルは本当に素晴らしい子だ、お前にはあげないよ」
「素晴らしいとは言ったが、欲しいとは言ってないし、いらない」
わざとらしい溜息をこぼして、喉が乾いた、と呟かれた。先輩はそれを掬い上げ、上機嫌な音を鳴らす。
「今日に相応しいものを用意してあげよう」
イセル、と柔らかく呼ばれ、顔を上げる。こちらを振り返る先輩の頬が明るく色付いているのが、まるであの人のおかげのような気がして、強く拳を握った。
「席についてなさい」
「は、い」
言われたままに身体を動かして、いつもの椅子を用意して座ると、必然的にあの人と向き合う形になってしまった。見慣れた後ろ姿が、彼のせいでわずかに欠けてしまっている。
向かいの男は僕の気持ちなどお構いなしに大きなあくびをして、机に突っ伏した。
「ヴィンセントだ、下級生」
「えっ」
「その子の名前だよ。昔からの付き合いで弟のようなものだからヴィンスって呼んでるけど、そうだな……、イセルは気軽に上級生って呼んであげて」
「オレは何でもいいが、上級生と言われて反応できる自信がない。本当に用があるときは、名前で頼む」
「我が儘なのも昔からだ」
「アンタほどじゃない」
気怠げな視線をこちらに向けてから、ゆっくりと瞼を落とした。
「ヴィンセント先輩……?」
「ヴィンセントさん、でいい。オレとアンタはそれくらいの距離感だろ」
はっきりとした寝言を口にして、彼は顔を腕の中に隠した。会話の終わりを知らせるように、肩が穏やかに上下し始める。
「悪いね、イセル。兄に甘やかされてきた子だから、手に負えないほど我が儘なんだ」
ソーサーやカップを並べる音に混じって、アンタほどじゃないし甘やかされてもいない、とくぐもった声が聞こえた。メルヴィン先輩は特に気に止めることなく紅茶を注ぎ入れてから、こちらにやってきた。
いつものように机に腰を掛け、互いの間にトレーを置いた。視線が動作に釣られる。
ティーセットも、お菓子も、一人分しかない。
「イセル、私はまだ君の事を許していないんだ。二人で秘め事を作ってきたのだと思うと、胸が強い怒りに支配されそうになる」
しなやかな曲線を持つ指がクッキーを掴み、僕の目の前に差し出される。よく分からないまま受け取ろうとした途端にそれは逃げ、唇の中に姿を隠した。口の中で砕かれ、喉仏が上下し、体内へと潜っていく。
「だから、今日は君の分を用意しなかった」
「すみませんでした……」
「可愛く謝られては、怒りの手を止めたくなってしまうだろう? 駄目だよ、イセル、私はこんなにも怒っているんだ」
先輩はもう一枚クッキーを掴み、唇の近くに運んだ。
「今日の私は怒っているんだ。だから、君には何もあげない。……でも、イセルが私から奪うのなら、それをどうしようが私は許そう」
焼き菓子に乗った真っ赤なジャムが、形の良い唇を艶めかせた。優しく挟み、身動きが取れないまま少しずつ近付く距離が、悪戯っぽい瞳が、僕に恐ろしいことを囁きかけてくる。よくないことだ。長い睫毛の一つひとつが、はっきりと見えてくる。そんなことをしてはいけない。琥珀色の中に、どうしようもない人間が捕らえられている。駄目。甘い匂いが、戒めるための言葉を、溶かしていく。
せんぱい、と言おうとした唇に、ざらついたものが触れた。鼻腔は魅了に落ち、視界は先輩でいっぱいだった。心臓の暴走が鼓膜を揺らしている。
あれを、食べたい。
思うのと、甘ったるさが舌に触れるのは同時だった。自分のしでかしたことから逃げようとすると、綺麗な顔がぐいとビスケットを押し込んでくる。上唇の山にわずかになにかが触れた気がした。
「奪われてしまったね、君に」
鼓膜が重たく揺らされる。手を口元に持って行って、焼き菓子を押し込んだ。指が震え、思わず上唇を押し上げる。べたっとしたものが指と唇をくっつけたように思えたが、それらは簡単に離れていった。
「焼き菓子も、紅茶も、まだあるからね」
見せつけるように差し出された一枚を見つめていると、可哀想に、と呆れるような音が聞こえた。咀嚼途中の口に、新たなビスケットが押し込まれる。琥珀色の瞳はもう僕から離れていて、苦しくなっていることにすら気付いてくれない。
「構ってもらえなくて寂しいのか、ヴィンス? お前の口はなんのためにあるんだ」
「アンタと兄さんに文句を言うためにある。おかわり」
「我が儘に育った弟だな」
「オレはアンタの弟じゃない」
しょうがない、と言って、先輩は机から降りた。あの人の元に近付いて、軽い言葉を交わし、チェストへと向かっていく。
「下級生」
鋭い声色が、僕に飛んでくる。
「一度しか言わない。穏やかな人生を送りたいなら、もうこの校舎に近付くな」
「ヴィンス、お兄様ごっこはよしてくれ。イセル、この子は誰かの上に立ってみたいんだ、末っ子の憧れだからね。愛想笑いで聞き流してくれ」
ヴィンセントさんはメルヴィン先輩に咎められても、一切気にしている様子はない。育ちの滲む指先でカップの中身を仰いだ。
「次に来ることがあるなら、盤上競技の一つでも勉強してこい。カード以外だ、両腕を奪われても問題ないような口頭でも戦えるものにしろ」
「ヴィンス」
「オレは、アンタが可哀想だと思った。ただ、好き好んで第三校舎に来てるなら、心の底から素晴らしいことだとも考える。以上」
食器を乱雑に退けたかと思うと、あくびをしながら机に突っ伏した。肩の動きが徐々に力の抜けたものに変わっていくのをぼんやりと見つめる。
僕のなにが可哀想だと思っているのだろう。
この人は苦手だ。高圧的で、自分勝手で、先輩の昔からの知り合いで、それなのに先輩には素っ気ない態度で……、出会ったばかりなのに苦手なところは山ほど浮かび上がってくる。聞き流してくれと先輩も言っていた。
でも、この人の言葉には悪意があるようには思えない。エドガー達の意地悪とは違うなにかが、気怠そうな中にある気がする。
「寝てしまっては飲めないだろう、まったく……。イセル、そこにあるのは君の分にしなさい。私は兄代わりとして彼の我が儘を受け止めないといけなくなった」
不機嫌そうに言いながら、こちらへとやってきた。机が揺れることもお構いなしにどかっと座り、僕を見下ろした。
「あれのことは気にしなくていいからね」
むすっとした表情すらも、輝いて見えた。
メルヴィン先輩の後輩でいることは、可哀想なことじゃない。むしろ、誇らしいことだ。この人の美しさは、それだけでなににも代え難い価値がある。
もし、美しさの中身を満たすものを知ることが出来るのなら。
一瞬にして浮かび上がった欲望が、唇を勝手に動かした。
「先輩は、盤上競技をされますか」
「どうして?」
「その……、僕は、またこの教室に来たいので……。ヴィンセントさんに認めてもらうために、一勝をあげれるようになりたくて教えていただけたらと……」
先輩は垂れ目を大きく開き、長い睫毛を素早く揺らした。トレイから離れた片手が、こちらに伸びてくる。
「頼る相手を間違えなかったことを褒めてあげよう。ヴィンスはね、私に一度も勝てた試しがないんだ」
優しい手付きで僕の頭を撫で、妬けるな、と微笑んだ。意地悪っぽく片目を瞑る姿に心を奪われながら、彼を見上げていた。
「下級生に勝つと気分が良い。もう一戦」
簡単なルールだけを覚えただけの僕を、ヴィンセントさんは容赦なく叩きのめした。先輩の師事を受けているのに情けない結果で終わってしまうたびに、次こそは勝ってやろうと自棄になってしまう。そうやって互いにのめり込んでいき、呆れた先輩が僕の駒を動かし始めることで、遊びを打ち切るのが常だった。
先輩の指先は、まるで自然災害だ。突如として表れ、僕たちで組み上げた盤上の光景を一瞬にして荒らしていってしまう。そして、いつの間にか先輩の動かした駒は王者としてその場に君臨している。
「メルヴィンが入ってくると面白くない」
「それはよかった。さあ、イセル、お茶にしよう」
築いたすべてを手で払って、盤の上にトレーを乗せる。場が完全に先輩の支配下に置かれると僕たちには為す術もなく、視線だけで次の一戦を約束してゲームは終わりとなる。
ヴィンセントさんは、最初の印象よりもずっと親しみやすい人だった。とにかく、行動が気紛れで、けれどもはっきりとしているのだ。勝負の最中は気怠さが吹き飛ぶくせに、飽きてきたら眠り、味が好みでなければ文句を言う。室内庭園の管理人であるらしく、僕が第三校舎にやってきてから寮に帰るまでずっとベンチで仮眠をとっている日もある。僕と変わらない身長なのも相俟って、年下の従兄弟の相手をしているような気分になる。彼を、ヴィンセントさん、と他人行儀に呼んでやっと、家柄の優れた年上の先輩であると思い出すのだった。
先輩との間柄を羨む心は消せないが、そこに少しずつ友情に似たものが同居するようになっていた。
「もしも下級生がオレに勝てたら、庭園でお祝いをしてやろう」
唇の片側をわずかに吊り上げて言う台詞に、ヴィンス、と呆れた音が重ねられるのがいつものことになっていた。
彼と何度戦っても、全く勝てる兆しはない。そして、勝敗の決め手を楽しそうに指しながら、同じ台詞を口にするのだ。
「可哀想な下級生。最初に出会ったのがオレなら、アンタを生涯の好敵手にしてやったのに」
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聖女召喚の巻き添えで喚ばれた「オマケ」の男子高校生ですが、魔王様の「抱き枕」として重宝されています
八百屋 成美
BL
聖女召喚に巻き込まれて異世界に来た主人公。聖女は優遇されるが、魔力のない主人公は城から追い出され、魔の森へ捨てられる。
そこで出会ったのは、強大な魔力ゆえに不眠症に悩む魔王。なぜか主人公の「匂い」や「体温」だけが魔王を安眠させることができると判明し、魔王城で「生きた抱き枕」として飼われることになる。
僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
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俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
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二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
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