サクラメント300

朝顔

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4 濃すぎる男

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「三十階か……自力では降りれなそうですね」

 動かない数字を見ながら唸ってみたら、隣で腕を組んで壁にもたれていた男はクスッと笑った。

「降りるも何も、このエレベーターは一階から四十階まで出入り口がない。下まで落ちなければどの道逃げ場はない」

「お……落ちるだなんて、縁起でもないことを言わないでください」

 佐倉がビビりまくって両肩を抱きながら震えていると、男はますます面白そうな顔になって笑った。
 こいつは絶対いじめっ子だっただろうなと佐倉は思った。



 残業とエレベーターの点検、そして代わりに乗ったエレベーターの緊急停止。
 不運が続いて、同じエレベーターに乗っていた男と二人で閉じ込められてしまった。

 しばらくこのまま出られなそうなので、仕方なく話しかけてみたら、アルファのオーラがダダ漏れのこの男は、意外と気さくに返してくれた。

 こんなことでもない限り、一生話すことはなかった相手だ。
 不思議な縁を感じながら、佐倉も同じように壁に背をもたれた。

「梶智紀だ。学生時代にここで少し働いていたが、卒業後NY支社での研修を終えて、先月常務に就任した」

 男はごく自然に手を差し出してきた。
 誰かと握手をすることに慣れているのだろう。
 予想通り大物だった。
 いくら会社に疎い佐倉でも、名前を聞けば経営者一族の者だと嫌でも分かってしまった。

 握手に慣れていない佐倉は、ガチガチに緊張しながら梶と握手をした。
 手に汗をかいていたので、ズボンで擦ってから握るべきだったと早速後悔して恥ずかしくなった。

「私はヤマノクリーンの従業員で、佐倉未春といいます。このビルで働き始めて四年くらいです」

「年はいくつだ?」

「今年三十になりましたが……」

 こちらも挨拶しないわけにいかないので、佐倉は簡単に自己紹介したが、梶は首を捻って気に入らないという顔をしていた。

「なるほど、じゃあもっと気さくに話してくれないか?」

「はい?」

「この状況で狭い空間だ。会社の上下関係が入るとどうも気が滅入ってしまう。私は直属の上司というわけでもない。先は長そうだし、年上なんだから普通に話してくれ」

 直属ではないが、大元を辿ればたくさんある階級の大ボスであるのは間違いない。
 梶の無茶な要求に困ってしまったが、考えたらこんな普通じゃない状況で、この場限りの関係だ。
 この箱を出たら、お互いすれ違っても目を合わせることもないくらいの遠い存在だ。
 あれこれ考えたが、気を使う必要もないかと思った佐倉は息を吐いてから、分かったと返事をした。

「卒業後っていうと、今年の春か? ということは……」

「二十三だ」

「若いなぁ」

「大して変わらない」

 そう思うことすら佐倉からしたら若いと感じた。
 二十代と三十代では見える景色が違うのだ。
 一つ階段を登っただけでも、人生はガラリと変わってしまう。
 約束された人生を歩む男とは、時間の速度が違うのかもしれないが……

「正直言ってこっちに戻ってきてから、周りの態度に辟易していたんだ。全員俺の顔色を窺って、調子よく耳障りのいい言葉ばかり並べてくる。今までそれが当たり前の環境だったけど、一度離れてみると息が詰まってしまった。まぁ、慣れるしかないけどな」

 頭に手を置いた梶は、少し息を吐いてから自分のことを語り始めた。
 自分が言い出したからか、先ほどまでの堅い口調から少し柔らかいものになっていた。
 なぜ、自分にという気持ちしかなかったが、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれないと佐倉は思った。
 誰にでもそういう時はあるし、今はちょうどいい相手がいて時間がある、ということだろう。

「俺に言われてもなぁ……上流階級の話はよく分からない。友人はいないのか? 同じくらいのクラスのやつなら、そう言った悩みも分かってくれるだろう?」

「友人はいるけど、仕事の繋がりもあって気を抜いたところは見せられない。何かあれば足を引っ張ってやろうって考えているやつはどこにでもいるし、そういう危険を回避するのも仕事なんだ」

 ますます分からない世界だった。
 と言っても佐倉にも友人と呼べるような人間はいない。泰成は友人というより恩人に近いし、会社の上司になってしまった。
 何でも気軽に相談できるような相手がいる、ということはかなり貴重なのかもしれない。

「どうして今の仕事をしているんだ? まだ若いし、もっと稼げる仕事はいくらでもあるんじゃないか?」

「突っ込んで聞いてくるねぇ……、まぁ色々事情があって、人と関わらない仕事の方がいいんだわ」

 この辺はよく聞かれる話題なので、聞かれても何とも思わなかった。
 清掃員はどちらかというと年齢層が高いので、わざわざ若いうちにやる仕事ではないと思われてしまう。

「……前は、もしかしてコッチの方?」

 梶が指で頬を切るような仕草をしたので、何のことだか分かった佐倉は、苦笑して頭を振った。

「違うよ。定職には就かずフラフラってやつ。好きなことやって食わしてもらったり。まぁ周りに迷惑かけてたのは同じようなもんだ」

 ここまで言えば適当に遊んで暮らしていたと思うだろう。案の定、梶は興味を失った様子で、そうかと一言返してきた。

 質問タイムが終わって、再び、静かな時間が流れた。
 二人して逃げ場を求めるように窓の外に視線を向けたが、動いていないので当たり前だが、先ほどから見える景色は少しも変わらなかった。

「趣味は?」

「えっ、趣味?」

 もう興味を失ったかと思っていたのに、また質問が飛んできたので驚いた。しかも趣味とは何とも答えにくいものだった。

「……何もないよ。仕事して、飯食って、寝て。毎日そんだけ。休みの日も日雇いで働いているし」

「そんなに働いて、借金でもあるのか?」

「まあ、そんな感じ」

「……そうか」

「梶さんは? ゴルフとかクルーザー?」

 いかにもな例を出してみたら、今度は梶が苦笑する番だった。

「いや、付き合いで行くことはあるけど、どちらも好きじゃない。ゴルフはボール転がすだけで、ただ熱くて汗だくになるし、潮の匂いも苦手で泳げないから海は嫌いだ」

「はははっ、せっかく金持ちの家に生まれたのに、楽しめないなんて損だったな」

 どうやらお坊ちゃんはお金があってもインドアらしいと想像して、佐倉はつい笑ってしまった。
 梶は不快そうな様子など少しもなく、そうだなと言って、佐倉の笑いにつられるように一緒に笑っていた。

 それから座り込んで、二人で色々と話をした。
 当たり障りのない会話がほとんどだったが、梶が話題を振ってくれたので、会話が途切れることはなかった。

 最初のいかにもアルファという印象とは違い、梶は優しくていいやつのようだ。
 会社の経営陣の一人が、ここまで話が分かる人間なら、下々の不満も取り入れてくれるかもしれない。
 梶グループのいく末は明るいかもしれないと、自分の立場でしなくてもいい想像を膨らませてしまった。

「そういえば、君は前から担当だったか? いつも夜は腰の曲がった年配の……」

「ああ、小波さんかな。腰をやって負担が大きいから交代したんだ。先週から俺が上層階の担当になった。と言っても、小波さんの回復次第だからいつまでかは分からないけど」

「なるほど、それならこれからは顔を合わせることもあるな」

「え、まっまあ……そうだけど」

「私の部屋は最上階の右奥だから、最後に回ってきてくれ」

「へ?」

「気に入ったんだ。こんな風に話せる相手は初めてだから」

 なんと気まぐれなお坊ちゃんの、気まぐれな興味の糸に、たまたま引っ掛かってしまったようだ。
 参ったなと思ったが、泰成の顔がチラついて、やめておきますとは言えなかった。

「わ……分かった」

 そう言うと梶は目を細めて嬉しそうな顔をした。
 途端にブワッとアルファのフェロモンが放出されたので、あまりにも濃い匂いに佐倉はむせそうになった。

「ちょ、アンタ。アルファだろう、いつもこんなに出しまくってるのか? こんなのオメガが浴びたら即発情しちまうぞ」

「ん? おかしいな、抑える薬は飲んでいるのに……悪いな、気を抜いていた。オメガと違って、アルファは常にフェロモンを纏っているから、抑制剤を飲んでいても調節が難しいんだ」

「まぁ、それは何となく分かるよ。俺もアルファだから」

「えっ」

 梶は最初に見たときのような驚いた顔になった。
 外見はアルファの特徴があるが、どう見てもアルファらしくないというのは佐倉も分かっている。
 気軽に言って歩くわけではないが、たまに聞かれた時に驚かれることの方がほとんどだった。

「ベータだと思っただろう。まぁ、よくあることだから」

「いや」

 急に梶の目に力が入って、今までの柔らかさが消えた。
 真面目に気持ちを打ち明けるみたいな空気に、首を傾げていたら、梶は真剣な目で佐倉を見てきた。

「ベータには見えなかった。でもオメガとも違う……君は……」

 急にガタンっとエレベーターが揺れて、修理が終わって元通りになったのか、下に向かって動き始めた。

『お時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした。作業が終了しました。係の者が下におりますので、何かありましたらお声がけください』

 警備室のおじさんのやけに明るい声が狭いエレベーターの中に響いた。

「よかった、これでやっと帰れますね」

「………ああ」

 ずっと動かなかったのに、動き出したらあっという間に一階に到着してしまった。
 その頃には、梶が何か言おうとしていたことなど、佐倉はとっくに忘れていた。

 足早にエレベーターから降りた佐倉は、お疲れ様でしたと言って梶に頭を下げて走ってエントランスから出た。

 梶はまだ何か言いたそうだったが、佐倉は早くこの訳の分からない空間から出て、現実に戻りたかった。
 少しだけ、何とも言えない渇きを感じたが、佐倉は頭を振って寒空の下、夜道を走り抜けて行った。





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