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其の二百八十九 三の炎 不知火 後編
しおりを挟む漁村で不可解な失踪事件が続いている。
とても自分の手には負えないと判断した村長は、近隣の寺の住職に救いを求めた。
呼ばれてかけつけた住職は、漁村に一歩入るなり「むぅ、いかん」とうなり、額に脂汗を浮かべる。
「村全体に奇妙な瘴気が漂っておる。どうやら海の方から来ておるようじゃが、むむむ、これはなんという禍々しさであろうか」
住職の話を聞いて村長は顔を真っ青にした。
どうやら先の津波が、どこぞより余計なものを運んできたらしい。
海より来たる禍々しき者、その狙いは悲しみに暮れる母親たちである。
「これ以上とられてはならん。手に負えなくなるぞ」
と住職は言った。
いなくなった女たちの末路については言わずもがな。
ことは村の存亡をも左右しかねない。
だから村長は男衆総出で女たちを守ることにしたのだが、そんな彼らを嘲笑うかのようにして、またひとり女が消えた。
けれども今度は村中が注視していたこともあって、女の行方はすぐに知れた。
まるで何かに誘われているかのようにして、ふらふらと歩く女が向かったのは浜辺である。波際に近づいたとおもったら、女はそのまま海の中へと入っていく。
もちろん、それを座して見過ごす男たちではない。
駆け寄り抱きつき止めようとする。
だが女は止まらない。荒波で揉まれた男たちの腕を持ってしても、引きずられ、あっさり振り払われてしまう。そして男たちが見ている前で、ついには海中に没してしまった。
これで六人目――。
「なんてことだ……」
村長や男たちが愕然としていると、その時のことであった。
沖合にぽつぽつとゆらめく灯りの存在が気がついた。
十九の不知火が浮かんでいる。
その数は津波に呑まれた子どもたちと、消えた母親たちを合わせた数と同じであった。
ひょっとして死んだ子どもたちが母恋しさに呼び寄せているのか?
「断じて、否っ!」
その考えを即座に否定したのは、遅れて現場に駆けつけた住職である。高齢ゆえに出遅れてしまった。
住職は数珠を沖合へと向けてかざし、「みなの者、惑わされるでない。とくとその正体を見よ!」と経文を唱える。
すると不知火の頭からのびている糸のようなものが、ぼんやりと浮かび上がる。その糸は後方の闇へとのびていた。
経文の声が高まり、唱えが進むほどに、後方の闇が薄くなって、奥に潜んでいた者の姿が次第にあらわとなっていく。
それは大きな口を持つ、小山ほどもあるぶよぶよの塊であった。
不知火は奴の疑似餌、見る者が見たい相手の姿となっては、「おいで、おいで」と夜の海に誘う。
魅入られ、心を囚われた者がどうなるかは、先の通りである。
これこそが住職が口にした禍々しき者の正体であった。
正体をあらわした禍々しき者が、ずいと前へ。
ゆっくりと浜に近づいてくる。まどろっこしい真似は止めにして、陸へとあがってひと息に獲物を喰らうつもりなのであろうか。
させじと住職が経文を唱える声をいっそう張り上げる。
かくして長く過酷な夜の戦いが幕を開けた。
住職と村の男たちは一丸となって懸命に抗った。だがしかし……。
朝陽が昇る頃、浜に聞こえるのは潮騒の音ばかり。
そこに誰の姿もなく、村長の家に居たはずの母親たちもすべて失せていた。
残っていたのは千切れた数珠だけであった。
消えた者たちの行方はようとして知れない。禍々しき者がどうなったのかもわからない。
漁村は一度に男手を大量に失い、すぐに立ちゆかなくなって廃村となった。
◇
三冊目の『不知火』の書に目を通し終わった藤士郎は「ふぅ」と深く息を吐く。
この手の説話では、たいていは仏の加護によって難を退けて、めでたしめでたしとなる。
でもこの物語はちがった。真逆の展開でまるで救いがない。
性質の悪い怪異に目をつけられた人々が右往左往する姿に喜色を浮かべ、衆生を導かんとする仏の教えを嘲笑うかのよう。
戦いの行方の詳細を語ることなく、ざっくり切り捨てるかのような物語の畳み方が、かえって不気味だ。
ともすれば作者の悪意すらも感じられる。
「いままでけっこうな数の写本仕事をこなしてきた。けど、こういうのは珍しいね。しんみりした余韻のある悲劇とはちがう、気味の悪い終わり方。まぁ、あんまり私の好みじゃないけどね」
ぶつぶつ文句を述べつつ、藤士郎は文机に向かい筆を走らせる。
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