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第五章 キミに好きだと言った日のこと
第十九話
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パタン、と私は後ろ手に玄関ドアを閉めた。
目の前に長く伸びる廊下は薄暗い。玄関ドアの小窓から差し込む夕陽によってのみ照らされているフローリングの床は、赤みがかった橙色に染められている。
「……」
そういえば、私はいつから帰宅しても「ただいま」を言わなくなったんだろう。迎えてくれる人がいない家にも、一時期「ただいま」と言っていたことはあった。でもいつからか寂しさや虚しさを感じて、次第に言わなくなっていった。
私は無言のまま靴を脱ぎ、家の中にあがるとそのままリビングに向かった。
分厚い扉を開ける。廊下と同じく薄暗い室内に光を照らすべく、私は電気を点けた。
そこには、いつもと変わらない光景があった。
整理整頓され、テレビやソファ、小さなサイドボードといった生活に必要なものを除けば無駄な物がほとんどないリビング。システムキッチンの近くに置かれたテーブルの上には、ラップされた料理がいくつかと、メモが一枚置かれていた。
『温めて食べてください。お母さんより』
本当に簡単な一文。
私は毎日見ているそのメモをゴミ箱に捨てると、料理には目もくれずに足早に自室へと戻った。
「うそ、でしょ……」
部屋に入るや、私はベッドに倒れ込んだ。
足に力が入らない。頭の中もぐちゃぐちゃで、何が何やらわからなかった。
――彩月、お前の片親も俺と同じで、亡くなってるだろ?
先ほど、動物園で遼くんから言われた言葉が私の頭の中から離れてくれない。
ありえないと思った。
私の記憶では、私が小学校に上がる前にお父さんとお母さんは離婚していた。
いや、離婚したと聞かされていた。
理由も日野瀬くんと全く同じ価値観の不一致で、お互いの悪いところが我慢できなかったから別れたのだと聞いていた。
それが、違うというのか。
私はずっと、お父さんが死んだことを忘れていた……?
「どうして……」
しかも、それだけじゃない。
私の中には、遼くんと出会った時の記憶もなかった。
小学校一年生の時に、隣のクラスになって、いつの間にか仲良くなっていた。私の中にある彼と過ごした記憶の始まりは、そんな曖昧なものだけだ。
――俺たちが初めて出会ったのは、あのイベントでだろ? ほら、身近な人を亡くした親子が集まる、あの……
「あのイベントって、なに……」
遼くんは言っていた。私と遼くんが出会ったのは、身近な人を亡くし、心に傷を負った親子を対象とした花見イベントだったと。そこでは参加者の多くが家族の誰かを失っており、大なり小なり心に悲しみを負っていた。そんな深く重い悲しみに押し潰されないように、近しい境遇の人たちが集まって心を通わせる。そうした趣旨で開催されたイベントに、私とお母さん、そして遼くんとお父さんが参加していたらしい。
河川敷で催された花見。偶然にも近くにシートを敷き、互いに片親で五歳の子どもを持つという親近感から、私たちの親はすぐに打ち解けたらしい。
そしてそれは、私と遼くんも同じらしかった。
……そう。らしかった、のだ。
遼くんが明確に覚えているらしいその思い出は、私の中には欠片も残っていない。まるで、私自身も記憶障害を患っているかのように。
「はあ……」
あの後、私たちは二人で休憩スペースに戻り、ひと通り遼くんから話を聞いた。
正直、衝撃しかなかった。冷や汗が噴き出てきて、視界がぐらぐらと揺れた。でも、そばに遼くんがついていてくれたからなんとか耐えることができた。
本当はそのまま帰ろうかとも提案されたけれど、瀬奈と日野瀬くんのことを考えると途中で終わらせたくはなかった。結局、はぐれたということにして私がそれなりに落ち着いてから合流、そのまま少しだけ動物を見てから解散した。
遼くんはずっと心配してくれていた。
情けないと思った。本当なら、私が遼くんを支えて心配する立場なのに。それなのに、過去の大事な記憶を忘れて取り乱していたのは私の方ときた。これでは、どっちが記憶障害を患っているのかわからない。どうにか解散するまでは持ちこたえたけれど、家に帰ってから一気に力が抜けた。
仰向けになり、天井を見つめる。
茜色はとっくに薄れ、夜の気配が満ち始めていた。
細く長く、息を吐き出す。
ひとまず、今の私にできることはお母さんに話を聞くことだ。どうしても、曖昧なままにはしておけない。
目を閉じる。
お父さんのことを思い出そうとしてみる。けれど、よく笑っていたような印象だけが、ぼんやりと浮かぶばかりだった。
今度は、遼くんとの出会いを思い出そうとしてみる。けれど、やっぱり小学生の時の記憶しか思い出せなかった。
少しだけ、泣いた。
それから、どれだけ時間が経ったのか。
階下から、玄関の扉が閉まる音がした。
「彩月ー? ご飯食べてないのー?」
私を呼ぶ声もする。お母さんの声だ。
おもむろに身体を起こしてそばにあったスマホを点けると、夜の十時過ぎだった。
ちゃんと、向き合わないと……。
私は、震える足を震える手で𠮟咤し、自室の扉を開けてリビングに向かう。
「あら、彩月。おはよう。寝ちゃってたの? もう十時だけど、ご飯食べる?」
「お母さん、訊きたいことがあるの」
赤くなっているであろう私の目を見てか、どこかいつもと違う雰囲気の私の声を聞いてか。お母さんは何かを悟ったように、小さく浮かべていた笑みを消した。
「お父さんのことについて、教えてほしい」
目の前に長く伸びる廊下は薄暗い。玄関ドアの小窓から差し込む夕陽によってのみ照らされているフローリングの床は、赤みがかった橙色に染められている。
「……」
そういえば、私はいつから帰宅しても「ただいま」を言わなくなったんだろう。迎えてくれる人がいない家にも、一時期「ただいま」と言っていたことはあった。でもいつからか寂しさや虚しさを感じて、次第に言わなくなっていった。
私は無言のまま靴を脱ぎ、家の中にあがるとそのままリビングに向かった。
分厚い扉を開ける。廊下と同じく薄暗い室内に光を照らすべく、私は電気を点けた。
そこには、いつもと変わらない光景があった。
整理整頓され、テレビやソファ、小さなサイドボードといった生活に必要なものを除けば無駄な物がほとんどないリビング。システムキッチンの近くに置かれたテーブルの上には、ラップされた料理がいくつかと、メモが一枚置かれていた。
『温めて食べてください。お母さんより』
本当に簡単な一文。
私は毎日見ているそのメモをゴミ箱に捨てると、料理には目もくれずに足早に自室へと戻った。
「うそ、でしょ……」
部屋に入るや、私はベッドに倒れ込んだ。
足に力が入らない。頭の中もぐちゃぐちゃで、何が何やらわからなかった。
――彩月、お前の片親も俺と同じで、亡くなってるだろ?
先ほど、動物園で遼くんから言われた言葉が私の頭の中から離れてくれない。
ありえないと思った。
私の記憶では、私が小学校に上がる前にお父さんとお母さんは離婚していた。
いや、離婚したと聞かされていた。
理由も日野瀬くんと全く同じ価値観の不一致で、お互いの悪いところが我慢できなかったから別れたのだと聞いていた。
それが、違うというのか。
私はずっと、お父さんが死んだことを忘れていた……?
「どうして……」
しかも、それだけじゃない。
私の中には、遼くんと出会った時の記憶もなかった。
小学校一年生の時に、隣のクラスになって、いつの間にか仲良くなっていた。私の中にある彼と過ごした記憶の始まりは、そんな曖昧なものだけだ。
――俺たちが初めて出会ったのは、あのイベントでだろ? ほら、身近な人を亡くした親子が集まる、あの……
「あのイベントって、なに……」
遼くんは言っていた。私と遼くんが出会ったのは、身近な人を亡くし、心に傷を負った親子を対象とした花見イベントだったと。そこでは参加者の多くが家族の誰かを失っており、大なり小なり心に悲しみを負っていた。そんな深く重い悲しみに押し潰されないように、近しい境遇の人たちが集まって心を通わせる。そうした趣旨で開催されたイベントに、私とお母さん、そして遼くんとお父さんが参加していたらしい。
河川敷で催された花見。偶然にも近くにシートを敷き、互いに片親で五歳の子どもを持つという親近感から、私たちの親はすぐに打ち解けたらしい。
そしてそれは、私と遼くんも同じらしかった。
……そう。らしかった、のだ。
遼くんが明確に覚えているらしいその思い出は、私の中には欠片も残っていない。まるで、私自身も記憶障害を患っているかのように。
「はあ……」
あの後、私たちは二人で休憩スペースに戻り、ひと通り遼くんから話を聞いた。
正直、衝撃しかなかった。冷や汗が噴き出てきて、視界がぐらぐらと揺れた。でも、そばに遼くんがついていてくれたからなんとか耐えることができた。
本当はそのまま帰ろうかとも提案されたけれど、瀬奈と日野瀬くんのことを考えると途中で終わらせたくはなかった。結局、はぐれたということにして私がそれなりに落ち着いてから合流、そのまま少しだけ動物を見てから解散した。
遼くんはずっと心配してくれていた。
情けないと思った。本当なら、私が遼くんを支えて心配する立場なのに。それなのに、過去の大事な記憶を忘れて取り乱していたのは私の方ときた。これでは、どっちが記憶障害を患っているのかわからない。どうにか解散するまでは持ちこたえたけれど、家に帰ってから一気に力が抜けた。
仰向けになり、天井を見つめる。
茜色はとっくに薄れ、夜の気配が満ち始めていた。
細く長く、息を吐き出す。
ひとまず、今の私にできることはお母さんに話を聞くことだ。どうしても、曖昧なままにはしておけない。
目を閉じる。
お父さんのことを思い出そうとしてみる。けれど、よく笑っていたような印象だけが、ぼんやりと浮かぶばかりだった。
今度は、遼くんとの出会いを思い出そうとしてみる。けれど、やっぱり小学生の時の記憶しか思い出せなかった。
少しだけ、泣いた。
それから、どれだけ時間が経ったのか。
階下から、玄関の扉が閉まる音がした。
「彩月ー? ご飯食べてないのー?」
私を呼ぶ声もする。お母さんの声だ。
おもむろに身体を起こしてそばにあったスマホを点けると、夜の十時過ぎだった。
ちゃんと、向き合わないと……。
私は、震える足を震える手で𠮟咤し、自室の扉を開けてリビングに向かう。
「あら、彩月。おはよう。寝ちゃってたの? もう十時だけど、ご飯食べる?」
「お母さん、訊きたいことがあるの」
赤くなっているであろう私の目を見てか、どこかいつもと違う雰囲気の私の声を聞いてか。お母さんは何かを悟ったように、小さく浮かべていた笑みを消した。
「お父さんのことについて、教えてほしい」
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