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「リリアナ・アーデル。君との婚約は――今日をもって破棄する」
舞踏会の真ん中で、王太子エドガー殿下がそう宣言した瞬間、ざわりと会場中の空気が揺れた。
煌びやかなシャンデリアの下、無数の視線がわたくしに集まる。嘲笑、同情、好奇心。
どれも、わたくしがこれまで何度も浴びてきた視線だ。
けれど、今日は違う。
今日、ようやく――この茶番から解放される。
「理由をお聞かせいただけますか、殿下?」
わたくしは冷静に問い返す。胸の奥では、鼓動が少しだけ早まっていた。
だけど顔には出さない。貴族令嬢の矜持だ。
エドガー殿下は、わざとらしくため息をついた。
「君のような冷たい女とは、もう一緒にいられない。僕の心は、他の人にあるんだ」
そう言って、殿下が腕を取ったのは――
わたくしの従妹、メリッサだった。
ああ、やっぱりね。
わたくしの唇が、自然と微笑の形になる。
「……まぁ。そうでしたの」
「君が何か言いたそうだね、リリアナ」
「いえ、別に。わたくしはただ、殿下のお幸せをお祈りしておりますわ」
その場にいた誰もが、わたくしの穏やかな笑みを理解できなかったようだ。
彼らはきっと、泣き叫び、取り乱すリリアナを見たかったのだろう。
でも、そんなことをして何になる?
わたくしはもう、この国を出る準備を整えていたのだから。
婚約破棄の翌朝。
屋敷の一室で、わたくしはひとり静かに紅茶を飲んでいた。
父は怒りに燃えていた。「アーデル家を愚弄する気か」と。
けれどわたくしは、彼にすぐ手紙を出した。
――この国を離れ、隣国ヴァルディアへ向かいます、と。
この日のために、ずっと準備してきたのだ。
殿下に裏切られたのは1年前。
あの時、泣きながら誓った。「絶対に、泣いたことを後悔させてやる」と。
「さて……」
馬車の窓から見える王都の街並みを眺めながら、わたくしは深く息を吸い込む。
これで、本当に終わり。
――そう思っていた。
ヴァルディア王国は、アーデル家がかつて貿易で結んでいた縁のある国だった。
そこでわたくしを迎えたのは、長身の青年――カイル・ヴァルディア殿下。
この国の第二王子であり、軍を統べる冷徹な将。
「君がリリアナ嬢か。噂は聞いている。聡明で、少々皮肉屋だと」
「お褒めいただき光栄ですわ」
軽く礼をすると、彼の口元がわずかに笑う。
だがその瞳は、戦場を知る者のように静かで、深く冷たい。
その夜、カイル殿下のもとに呼ばれた。
「君には、この国での新しい役目をお願いしたい」
「役目……ですか?」
「外交顧問としてだ。君の判断力は、前国でも高く評価されていたと聞く」
――評価? あの国で、わたくしを正当に見てくれる者などいなかったのに。
「そんな話、どこから……?」
「君をよく知る者からだ」
カイル殿下は意味ありげに微笑んだ。
だがその答えを聞く前に、部屋の外から声が響いた。
「リリアナ様ぁあああ!!」
――まさか。
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、
よりにもよって、あの人だった。
「……エドガー殿下?」
「やっと見つけた……! 本当にヴァルディアに来ていたなんて……!」
乱れた金髪、息を荒げたままの姿。
王太子の威厳も何もない。
わたくしは唖然としながら立ち上がった。
「なぜ、ここに……」
「リリアナ! あんな形で婚約を破棄したのは間違いだった! 戻ってきてくれ!」
その瞬間、カイル殿下が立ち上がる。
彼の声は低く、鋭く空気を切った。
「この国の宮殿に、無断で踏み込むとは。王太子といえど、外交問題だぞ」
「っ……君は誰だ!」
「ヴァルディア王国第二王子、カイル・ヴァルディアだ。リリアナ嬢は、今や我が国の外交顧問だ」
「外交……? そんな、嘘だろ……?」
エドガー殿下が、信じられないというようにわたくしを見る。
その瞳に宿るのは――後悔。
だが、もう遅い。
「殿下。あなたの“おもちゃ”でいられたのは過去のことですわ」
「違う! 君のことを……本当に愛しているんだ!」
「……今さら、ですのね?」
微笑んで言ったその瞬間、カイル殿下の腕がそっとわたくしの腰を抱いた。
彼の体温が、背中越しに伝わる。
エドガー殿下の目が見開かれる。
「彼女は、もうこちらの人間だ。手を出すな」
「っ……リリアナ、君は……!」
わたくしは静かに首を振った。
「どうかお帰りくださいませ。――今さら泣かれても、遅いですわ?」
その夜、カイル殿下の執務室で。
わたくしは報告書を書きながら、ふと彼に問うた。
「……なぜ、わたくしを外交顧問に?」
「本当の理由を聞きたいか?」
「ええ」
「君のことを、ずっと調べていた。――最初に見たのは、殿下に冷たく微笑むあの夜だ」
「……見ていた?」
「君の毅然とした姿に、惹かれた。あの国に埋もれさせるのは惜しいと思った」
わたくしの胸が、わずかに熱くなる。
あの時、涙をこらえた自分を、誰かが見ていたなんて。
「……カイル殿下。あなたは人を口説くのがお上手ですのね」
「事実を言っただけだ」
「そういうところが、また罪深いですわ」
ふと、彼がわたくしの手を取る。
指先が触れるだけで、胸がざわつく。
「君が望むなら、もう二度と泣かせない」
その低い声に、思わず息をのんだ。
――まるで、誓いのように。
一方その頃、王都では。
メリッサが玉座の間で取り乱していた。
「殿下! なぜ、リリアナを追いかけたのですか!? 私を愛してくださると……!」
「うるさい!」
怒鳴り声が響く。
その顔は、焦燥と後悔で歪んでいた。
「俺は……間違えた。リリアナを失って初めて、何を失ったのか分かったんだ……」
その夜、殿下の寝室には、リリアナが残していった香水の匂いがまだ漂っていた。
しかしその香りが、どんなに彼を苛んでも――
彼女はもう、振り向かない。
翌朝。
ヴァルディアの空は、澄み渡る青。
カイル殿下が外出の準備をしながら、わたくしに視線を向ける。
「今日は、陛下に紹介する。正式に“ヴァルディアの外交顧問”としてだ」
「……わたくしで務まりますかしら?」
「務まるさ。俺が保証する」
彼のまっすぐな瞳に、少しだけ頬が熱くなる。
新しい人生が、確かにここから始まる――そんな気がした。
……だけど、
まだ知らなかった。
このあと訪れる“もう一人の王子”との出会いが、
わたくしの運命をさらに大きく揺らすことになるなんて。
舞踏会の真ん中で、王太子エドガー殿下がそう宣言した瞬間、ざわりと会場中の空気が揺れた。
煌びやかなシャンデリアの下、無数の視線がわたくしに集まる。嘲笑、同情、好奇心。
どれも、わたくしがこれまで何度も浴びてきた視線だ。
けれど、今日は違う。
今日、ようやく――この茶番から解放される。
「理由をお聞かせいただけますか、殿下?」
わたくしは冷静に問い返す。胸の奥では、鼓動が少しだけ早まっていた。
だけど顔には出さない。貴族令嬢の矜持だ。
エドガー殿下は、わざとらしくため息をついた。
「君のような冷たい女とは、もう一緒にいられない。僕の心は、他の人にあるんだ」
そう言って、殿下が腕を取ったのは――
わたくしの従妹、メリッサだった。
ああ、やっぱりね。
わたくしの唇が、自然と微笑の形になる。
「……まぁ。そうでしたの」
「君が何か言いたそうだね、リリアナ」
「いえ、別に。わたくしはただ、殿下のお幸せをお祈りしておりますわ」
その場にいた誰もが、わたくしの穏やかな笑みを理解できなかったようだ。
彼らはきっと、泣き叫び、取り乱すリリアナを見たかったのだろう。
でも、そんなことをして何になる?
わたくしはもう、この国を出る準備を整えていたのだから。
婚約破棄の翌朝。
屋敷の一室で、わたくしはひとり静かに紅茶を飲んでいた。
父は怒りに燃えていた。「アーデル家を愚弄する気か」と。
けれどわたくしは、彼にすぐ手紙を出した。
――この国を離れ、隣国ヴァルディアへ向かいます、と。
この日のために、ずっと準備してきたのだ。
殿下に裏切られたのは1年前。
あの時、泣きながら誓った。「絶対に、泣いたことを後悔させてやる」と。
「さて……」
馬車の窓から見える王都の街並みを眺めながら、わたくしは深く息を吸い込む。
これで、本当に終わり。
――そう思っていた。
ヴァルディア王国は、アーデル家がかつて貿易で結んでいた縁のある国だった。
そこでわたくしを迎えたのは、長身の青年――カイル・ヴァルディア殿下。
この国の第二王子であり、軍を統べる冷徹な将。
「君がリリアナ嬢か。噂は聞いている。聡明で、少々皮肉屋だと」
「お褒めいただき光栄ですわ」
軽く礼をすると、彼の口元がわずかに笑う。
だがその瞳は、戦場を知る者のように静かで、深く冷たい。
その夜、カイル殿下のもとに呼ばれた。
「君には、この国での新しい役目をお願いしたい」
「役目……ですか?」
「外交顧問としてだ。君の判断力は、前国でも高く評価されていたと聞く」
――評価? あの国で、わたくしを正当に見てくれる者などいなかったのに。
「そんな話、どこから……?」
「君をよく知る者からだ」
カイル殿下は意味ありげに微笑んだ。
だがその答えを聞く前に、部屋の外から声が響いた。
「リリアナ様ぁあああ!!」
――まさか。
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、
よりにもよって、あの人だった。
「……エドガー殿下?」
「やっと見つけた……! 本当にヴァルディアに来ていたなんて……!」
乱れた金髪、息を荒げたままの姿。
王太子の威厳も何もない。
わたくしは唖然としながら立ち上がった。
「なぜ、ここに……」
「リリアナ! あんな形で婚約を破棄したのは間違いだった! 戻ってきてくれ!」
その瞬間、カイル殿下が立ち上がる。
彼の声は低く、鋭く空気を切った。
「この国の宮殿に、無断で踏み込むとは。王太子といえど、外交問題だぞ」
「っ……君は誰だ!」
「ヴァルディア王国第二王子、カイル・ヴァルディアだ。リリアナ嬢は、今や我が国の外交顧問だ」
「外交……? そんな、嘘だろ……?」
エドガー殿下が、信じられないというようにわたくしを見る。
その瞳に宿るのは――後悔。
だが、もう遅い。
「殿下。あなたの“おもちゃ”でいられたのは過去のことですわ」
「違う! 君のことを……本当に愛しているんだ!」
「……今さら、ですのね?」
微笑んで言ったその瞬間、カイル殿下の腕がそっとわたくしの腰を抱いた。
彼の体温が、背中越しに伝わる。
エドガー殿下の目が見開かれる。
「彼女は、もうこちらの人間だ。手を出すな」
「っ……リリアナ、君は……!」
わたくしは静かに首を振った。
「どうかお帰りくださいませ。――今さら泣かれても、遅いですわ?」
その夜、カイル殿下の執務室で。
わたくしは報告書を書きながら、ふと彼に問うた。
「……なぜ、わたくしを外交顧問に?」
「本当の理由を聞きたいか?」
「ええ」
「君のことを、ずっと調べていた。――最初に見たのは、殿下に冷たく微笑むあの夜だ」
「……見ていた?」
「君の毅然とした姿に、惹かれた。あの国に埋もれさせるのは惜しいと思った」
わたくしの胸が、わずかに熱くなる。
あの時、涙をこらえた自分を、誰かが見ていたなんて。
「……カイル殿下。あなたは人を口説くのがお上手ですのね」
「事実を言っただけだ」
「そういうところが、また罪深いですわ」
ふと、彼がわたくしの手を取る。
指先が触れるだけで、胸がざわつく。
「君が望むなら、もう二度と泣かせない」
その低い声に、思わず息をのんだ。
――まるで、誓いのように。
一方その頃、王都では。
メリッサが玉座の間で取り乱していた。
「殿下! なぜ、リリアナを追いかけたのですか!? 私を愛してくださると……!」
「うるさい!」
怒鳴り声が響く。
その顔は、焦燥と後悔で歪んでいた。
「俺は……間違えた。リリアナを失って初めて、何を失ったのか分かったんだ……」
その夜、殿下の寝室には、リリアナが残していった香水の匂いがまだ漂っていた。
しかしその香りが、どんなに彼を苛んでも――
彼女はもう、振り向かない。
翌朝。
ヴァルディアの空は、澄み渡る青。
カイル殿下が外出の準備をしながら、わたくしに視線を向ける。
「今日は、陛下に紹介する。正式に“ヴァルディアの外交顧問”としてだ」
「……わたくしで務まりますかしら?」
「務まるさ。俺が保証する」
彼のまっすぐな瞳に、少しだけ頬が熱くなる。
新しい人生が、確かにここから始まる――そんな気がした。
……だけど、
まだ知らなかった。
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