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――カツン、カツン、と石畳を踏みしめる音が、冷え切った夜の路地に響く。
灯りの消えた屋敷を背に、私はただ前だけを見て歩いていた。
今日、私――リディア・ハルフォードは婚約破棄された。
相手は王太子殿下、エドワード。
理由は、妹のローラが「私がリディアにいじめられている」と涙ながらに訴えたから。
もちろん、そんな事実はない。
むしろローラは、いつも私の持ち物を勝手に使い、使用人を泣かせ、挙句の果てには父の商会の帳簿まで改ざんしていた。
だが、誰も彼女を咎めなかった。なぜなら――あの愛らしい笑顔の裏の顔を、私以外は誰も知らなかったから。
裁きの場で、王太子は冷たく言い放った。
「お前との婚約は、今この場をもって破棄する。ローラこそが私の妻にふさわしい」
その場にいた貴族たちは、一斉に私を蔑むような目で見た。
父も母も、妹の肩を守るように立ち、私を見ようともしない。
まるで、最初から私はこの家の不要物だったかのように。
――そうして、私は屋敷を追い出された。
荷物は鞄ひとつ。
行くあてもなく、冷たい風に吹かれながら王都を離れようとしていた、その時。
「……ずいぶん遅い時間に、こんな所で何をしている」
低く、冷たい声が背後から落ちてきた。
振り返ると、そこには漆黒の外套をまとった長身の男性が立っていた。
月明かりが、その鋭い灰色の瞳を照らす。
――知っている。この男は、隣国ヴァルシュタイン公爵、アレクシス・ヴァルシュタイン。
冷酷非道と噂される男。戦場では千の兵を指揮し、敵国を震え上がらせる将軍でもある。
なぜ、こんな場所に……?
「……ただ、歩いているだけです」
できるだけ感情を悟られないよう、私は視線を逸らした。
「王都の令嬢が、夜中にただ歩く? 護衛もなしに?」
彼は私を値踏みするように見た。その瞳は人の心を暴くようで、思わず息を呑む。
「……追い出されたんです。今日、この国から」
アレクシスは一瞬、表情を動かした気がしたが、すぐに冷淡な顔に戻った。
「……乗れ」
彼は街道脇に繋がれていた黒馬を顎で示す。
「え……?」
「このまま歩き続ければ、すぐに野犬か盗賊にでも食われるだろう。お前に死なれると寝覚めが悪い」
その言い草に、胸の奥がちくりと痛んだ。
助けてくれているのに、あくまで義理や偶然のように装う――そんな態度が、妙に優しく思えてしまったのだ。
気づけば私は、彼の差し出した手に指を重ねていた。
大きく温かな掌に引き上げられ、馬上の彼の前へ座る。
外套が私の肩を包み、ふっと体温が移った。
「これから、どこへ?」
「……行く場所なんてありません」
「なら、俺の領地に来い」
あまりに唐突で、息が止まる。
ヴァルシュタイン領は国境を越えた隣国にある。冷酷公爵の居城。
そんな場所に行けば、二度とこの国には戻れないだろう。
でも……戻る理由も、もうない。
「……わかりました」
そう答えると、彼の口元がわずかに緩んだ気がした。
数日後、私はヴァルシュタイン領の城門をくぐっていた。
黒曜石のような壁、鋭い塔。門番たちはアレクシスに恭しく頭を下げ、私に驚きの視線を向ける。
城内に入ると、豪奢というより実用的な廊下が続き、兵士や使用人が忙しなく行き交っていた。
「ここがお前の部屋だ」
通されたのは、暖炉と大きな寝台のある部屋。窓からは雪山が見える。
「ここで暮らせ」
「……本当に、いいんですか? 私は何も……」
「何もできないなら、これから覚えればいい」
その冷たい声の中に、なぜか優しさを感じる。
私は深く頭を下げた。
――こうして、私は隣国で新しい生活を始めることになった。
だが、それから数日。
私は奇妙なことに気づき始める。
廊下を歩けば兵士や使用人が一歩下がって礼をし、厨房からは毎日私の好きな菓子が届く。
そして――アレクシスが、妙に距離を詰めてくるのだ。
「寒くないか?」
「……はい」
そう答えても、彼は当然のように私の肩に外套を掛ける。
読書していれば背後から覗き込み、手が触れそうなほど近づく。
夜、廊下で偶然会えば、無言で私を部屋まで送り届ける。
――これが、冷酷公爵の「普通」なのだろうか。
それとも……。
ある日、思い切って聞いてみた。
「……公爵様は、どうして私を助けたのですか?」
すると彼は、灰色の瞳を真っ直ぐに私に向けた。
「……理由は、そのうち話す」
低く、含みのある声。
その瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
私は知らない。
――この人が、なぜ私を拾ったのか。
そして、その理由が私の運命を大きく変えることを。
灯りの消えた屋敷を背に、私はただ前だけを見て歩いていた。
今日、私――リディア・ハルフォードは婚約破棄された。
相手は王太子殿下、エドワード。
理由は、妹のローラが「私がリディアにいじめられている」と涙ながらに訴えたから。
もちろん、そんな事実はない。
むしろローラは、いつも私の持ち物を勝手に使い、使用人を泣かせ、挙句の果てには父の商会の帳簿まで改ざんしていた。
だが、誰も彼女を咎めなかった。なぜなら――あの愛らしい笑顔の裏の顔を、私以外は誰も知らなかったから。
裁きの場で、王太子は冷たく言い放った。
「お前との婚約は、今この場をもって破棄する。ローラこそが私の妻にふさわしい」
その場にいた貴族たちは、一斉に私を蔑むような目で見た。
父も母も、妹の肩を守るように立ち、私を見ようともしない。
まるで、最初から私はこの家の不要物だったかのように。
――そうして、私は屋敷を追い出された。
荷物は鞄ひとつ。
行くあてもなく、冷たい風に吹かれながら王都を離れようとしていた、その時。
「……ずいぶん遅い時間に、こんな所で何をしている」
低く、冷たい声が背後から落ちてきた。
振り返ると、そこには漆黒の外套をまとった長身の男性が立っていた。
月明かりが、その鋭い灰色の瞳を照らす。
――知っている。この男は、隣国ヴァルシュタイン公爵、アレクシス・ヴァルシュタイン。
冷酷非道と噂される男。戦場では千の兵を指揮し、敵国を震え上がらせる将軍でもある。
なぜ、こんな場所に……?
「……ただ、歩いているだけです」
できるだけ感情を悟られないよう、私は視線を逸らした。
「王都の令嬢が、夜中にただ歩く? 護衛もなしに?」
彼は私を値踏みするように見た。その瞳は人の心を暴くようで、思わず息を呑む。
「……追い出されたんです。今日、この国から」
アレクシスは一瞬、表情を動かした気がしたが、すぐに冷淡な顔に戻った。
「……乗れ」
彼は街道脇に繋がれていた黒馬を顎で示す。
「え……?」
「このまま歩き続ければ、すぐに野犬か盗賊にでも食われるだろう。お前に死なれると寝覚めが悪い」
その言い草に、胸の奥がちくりと痛んだ。
助けてくれているのに、あくまで義理や偶然のように装う――そんな態度が、妙に優しく思えてしまったのだ。
気づけば私は、彼の差し出した手に指を重ねていた。
大きく温かな掌に引き上げられ、馬上の彼の前へ座る。
外套が私の肩を包み、ふっと体温が移った。
「これから、どこへ?」
「……行く場所なんてありません」
「なら、俺の領地に来い」
あまりに唐突で、息が止まる。
ヴァルシュタイン領は国境を越えた隣国にある。冷酷公爵の居城。
そんな場所に行けば、二度とこの国には戻れないだろう。
でも……戻る理由も、もうない。
「……わかりました」
そう答えると、彼の口元がわずかに緩んだ気がした。
数日後、私はヴァルシュタイン領の城門をくぐっていた。
黒曜石のような壁、鋭い塔。門番たちはアレクシスに恭しく頭を下げ、私に驚きの視線を向ける。
城内に入ると、豪奢というより実用的な廊下が続き、兵士や使用人が忙しなく行き交っていた。
「ここがお前の部屋だ」
通されたのは、暖炉と大きな寝台のある部屋。窓からは雪山が見える。
「ここで暮らせ」
「……本当に、いいんですか? 私は何も……」
「何もできないなら、これから覚えればいい」
その冷たい声の中に、なぜか優しさを感じる。
私は深く頭を下げた。
――こうして、私は隣国で新しい生活を始めることになった。
だが、それから数日。
私は奇妙なことに気づき始める。
廊下を歩けば兵士や使用人が一歩下がって礼をし、厨房からは毎日私の好きな菓子が届く。
そして――アレクシスが、妙に距離を詰めてくるのだ。
「寒くないか?」
「……はい」
そう答えても、彼は当然のように私の肩に外套を掛ける。
読書していれば背後から覗き込み、手が触れそうなほど近づく。
夜、廊下で偶然会えば、無言で私を部屋まで送り届ける。
――これが、冷酷公爵の「普通」なのだろうか。
それとも……。
ある日、思い切って聞いてみた。
「……公爵様は、どうして私を助けたのですか?」
すると彼は、灰色の瞳を真っ直ぐに私に向けた。
「……理由は、そのうち話す」
低く、含みのある声。
その瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
私は知らない。
――この人が、なぜ私を拾ったのか。
そして、その理由が私の運命を大きく変えることを。
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