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第三章 広がる世界
5話 新たな旅立ち⑤
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日々喜は洗い物用のタライを運び出し、洗濯場に姿を現した。
洗濯の機械の動きを再現するラヴァーニャの魔導は、水を温め、回転力を加える。それだけだった。つまり、熱を加えて掻き混ぜれば済む話なのだ。
「火で焙りながら、棒で掻き混ぜる事と同じ――」
洗濯場に設置される井戸から水を汲み出しながら、日々喜は考えをまとめるように呟いた。
「――人の手でこなせる事を科学によって説明し技術を発展させたように、同じ事をエレメントの相互作用を持って説明し、魔導を発展させてきた」
タライに十分水が入った所で手を止めると、日々喜は曲げていた腰を元に戻し背中を伸ばした。ふと、庭先を飛び交う鳥たちの姿が目に入った。
「翼だ。鳥が空を飛ぶ事ができるのは、その為の翼を持っているから。同じように翼を持つ虫や蝙蝠も、違う種でありながら空を飛ぶ能力を持っている」
日々喜が口にした通り、異なる進化を遂げた異種の生物が、似通った生活様式を持つ場合、その肉体の中にある器官が類似した機能を備えて来るという考え方がある。同じ空を飛び交う鳥と蝙蝠は、まさに空を飛ぶ為の翼という類似した器官を備えていた。
こうした類似の器官については相似器官、または単純にアナロジーと呼ばれている。
これと同じく、魔導も科学の様に人の営みと言う終着点に向かい、同様な発展を遂げたに違いないと日々喜は考えた。
エレメントの相互作用という関係性を基盤にして、石積みの様に魔導という理論が構築されている。
そしてエレメンタルは、対応するエレメントを生み出したり、操ったりする力である。魔導士はこの力を使い魔導を行使する。この概念は非常に単純で、異なる世界から来た日々喜にとっても分かり易いものだった。
「火を生み火を操る。水を生み水を操る。風を生み風を操り、土を生み土を操る。ここから、科学的に何が出来るか考えれば、それが、魔導の類推(アナロジー)になって来る」
魔導の行使において必要とされる理解度は、これで補えるはずだと考えたのだった。
日々喜はそこから、ツキモリ・コウイチの言葉を思い返した。
インスピレーション(霊感)とインテューション(直感)。世界の囁きを霊感で聞取り、それが正しいかを直感で判断する。そして、それらを結び合わせるロジック(論理)。魔導とは、この逆の流れの様なもの。
アトラスに記述されるチャートの構成が、人の頭の中でイメージされるエレメンタルの働きを説明し、その結果として現実に魔法陣が描かれる。
「僕の生まれた世界では、全ての物体が地上に落下する事から、万有引力の法則が見出された。魔導はこの逆。理屈が先に立ち、正しいものが結果として現れる」
ツキモリ・コウイチの言う逆の流れとは、つまる所そう言う事なのだろうと日々喜は考えた。
しかし、それは異論の生まれる考えでもある。
理屈とは、あくまでも机上の話し。科学とは、あくまでも事実に即した理屈。何が現実を支配し、何が世界を叙述するかは、それを信じるその人次第で変わって来る。その事に日々喜はまだ気が付いてはいなかった。
「何も迷う事は無いさ。既に答えは出ているんだから、それに向かって考え続ければいいだけの話し」
同じ哺乳類でありながら、蝙蝠が翼を獲得した様に、日々喜は自分が学んだ知識を活かせば、魔導を行使する事ができるはずだと、思考を飛躍させたのだった。
やがて、戻って来たタイムが勝手口から顔を出した。
「お待たせしましたニャ」
日々喜はタイムの持って来たアトラスを受け取ると、その内容を確認した。
それまで自信に満ちていた日々喜の表情が崩れる。そして、眉をしかめながらアトラスを眺め続けた。
「んー……。サラマンダーを用い、水の中で火のエレメントを作り出す? これで、水が温められるの? ……つ、つまり、水の中で、火を灯して……、水の中? うーん……」
このエレメントの相互作用を科学的に解釈するのは相当な難題だ。そればかりか、日々喜の直感に反するのか、いまいち納得のいかない事が多くあった。その為、日々喜は困惑を極めた様な唸り声を上げた。
「難しそうですかニャ?」
タイムは心配そうに日々喜に尋ねる。
「だ、大丈夫」
日々喜は慌てた。
「タイム。実際に洗濯する訳では無いから、今日は水をかき混ぜるだけにしよう」
水のエレメンタル、ウンディーネを用い水をかき混ぜる。この理屈ならば、と日々喜は考えた。
「分かりましたニャ」
日々喜は魔導の事初めの手解きに移行する。以前、マウロに教えてもらったやり方をそのままタイムに解説した。
タイムは日々喜に言われるがままに右手を水の入ったタライにかざした。
「タイム。このまま、アトラスに書かれていたチャートの内容を思い浮かべて」
寄り添うようにしていた日々喜が、タイムにそっと耳打ちをした。その時、タイムの持って来たアトラスがゆっくりと浮かび上がる。それを見て、日々喜はタイムの右手に自分の手を添えた。すると、タライの下にぼんやりとした円陣が描かれ始めた。
タライに入れられていた水が、風にあおられた様な小波を起こし、それら幾つもの波が重なり合うと、タライの中の水は周期的な平均運動へと移行し、僅かに渦を巻いた様に見せた。
できた。
タイムが集中を欠く事無く魔導の行使にあたる中で、日々喜は心の中でそう呟いた。
その時、タライの下敷きとなっていた魔法陣から強烈な輝きが漏れ出し、瞬間的に日々喜の目をくらました。
日々喜は咄嗟に顔を背け、眼を閉じた。
「どうしてさ!」
どこかで少年の声がした。日々喜は目を開き周囲を窺った。
乾いた大地の上、自分と同じくらいの背丈の細く低い木々が、規則的な間隔をもって縦横に植え付けられ、鬱蒼としている。
木々の所々には、五百円玉くらいの白い花が咲いていた。控えめな白い花弁に比べ、中央に備える黄色のオシベは大きく、その重さに耐えきれない様に全て下を向いていた。
「ツバキに似てる。……何かの畑かな」
明らかにフォーリアムの敷地内ではない。そして、そこに生える木々も、人の手を借りた人工的な物であると思えた。
「ひょっとして、ここは……」
タイムの心の中を覗き見てる。
魔法陣が重なり合った時起きる現象。それは、魔導の事初めにも稀に起きる事だと、日々喜は今更ながらに思い出した。
「東部なんて、そんな遠いい所に行ったらダメだ!」
再び同じ少年の声がした。畑の中では、声の主が何者であるかを見る事ができない。日々喜は周囲に生える木々を掻き分け、声のする方へと歩き出した。
畑から顔を出すと、目の前に伸びるあぜ道とそれに掛かる様にして沈みかけた太陽が目に入った。日々喜は眩しそうに手で夕日を遮った。すると、道筋に立つ二つの人影が目に入った。
獣人の子供だった。タイムと同じく猫の顔をした二人。一人はこちらに背を向けて、泣きそうな声でもう一人に訴えていた。先程から聞こえていた声はこの子の声だと直ぐに分かった。
もう一人は、少し背が低くなっていたが、タイム本人であると分かった。直ぐに気が付かなかったのは、何故か彼女の表情が、見慣れた顔よりもずっと大人びて見えたのだった。
タイムは、口を開いた。
「仕方ないよ、スタンプ。ここでは、ちゃんとした仕事は見つからないもの。それに、東部だったら、私でも魔導士の一門に雇ってもらえる。ちゃんと魔導の勉強もできるからって、父さんも喜んでいたじゃない」
普段とは違うタイムの口調を聞いて、日々喜はドキリとする。
「姉ちゃんの夢は知ってる。だけど、それはもう叶わない事だろ」
「そんな事無いよ、スタンプ」
「そんな事あるニャ!」
男の子は大きな声でそう言うと、顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
話しの内容から、その子がタイムの弟である事が日々喜にも分かった。イバラ領へ働きに向かうタイムの事を止めているのだろう。
「父ちゃんは勝手ニャ。都合のいい時だけ、姉ちゃんの夢の話を持ち出して。本当は、口減らしをしたいだけニャ! そんな事の為に、姉ちゃんが家を出て行く必要なんかないニャ!」
スタンプはそう言うと、飛び付く様にタイムにしがみ付いた。
「どこにも行っちゃ嫌ニャ! 一緒にここにいるニャ!」
大声を出し泣き出すスタンプの動向は、遠巻きに見守り続けていた日々喜の事をドギマギさせた。喧嘩に発展しないかと不安で仕方がなかったのだ。
しかし、タイムは落ち着き払った様子でスタンプの事を抱き留めていた。そうして、自分の胸の中で泣き続ける弟が泣き止むのを黙って待っている様子だった。
「魔導士になれないのは仕方の無い事だよ。そういう決まりなんだから、諦めなくちゃダメ。だけど、何時までもクヨクヨしていられないでしょ。悩んで落ち込んでいるくらいなら、私はいっそ飛び込んで行きたい。そうしないと、他の夢だって見る事ができないじゃない」
スタンプは顔を上げた。タイムはスタンプの顔に付いた泣き跡を拭う様に、目元の毛並みを整えてやった。
「スタンプ。私はもう魔導士になれなくてもいい。でも憧れた魔導士さん達のそばで仕事をしてみたい。だから、お父さんは関係無いの。全部私の勝手でやる事なのよ」
「姉ちゃん……」
タイムは微笑んで見せた。
「にゃんにゃん。スタンプも大きくなったニャ。何時までも泣いていたり、甘え声で話していてはダメニャ」
優しい姉の言葉に誘われるようにして、スタンプも笑みをこぼした。
「姉ちゃんだって、にゃんにゃん言っているじゃないか」
沈みゆく夕日の中で、二人の姉弟が笑い合った。日々喜は変わらずその姿を見つめ続けた。
タイムも旅立とうとしている。いや、これが過去の出来事なのだから、今は旅立った後の話し。彼女はずっと旅の中にいるのだ。
悩んではいられない。とにかく、オレガノ達に話をしてみよう。
日々喜はそう考えた。
タイムとスタンプの姿が夕闇に隠れ、日々喜のもとに届いていた二人の笑い声も、遠のくように消えて行った。
白昼夢から意識を取り戻した様に、日々喜は目を開いた。既に魔法陣は消えていた。しかし、タライの中の水は魔導の勢いの余韻を残す様に渦を巻いていた。
しばし、茫然とその光景を見ていた日々喜は、漸く口を開く。
「……良かった。タイム、できたじゃないか」
日々喜は傍に居るタイムの方を向いてそう言った。しかし、タイムは魔導を行使した事に喜ぶ様子ではなく、先程の日々喜と同様に茫然とタライを眺め続けていた。
「タイム?」
タイムは心配する様な表情を浮かべこちらを振り向いた。
「日々喜さん。旅に出られるのですニャ」
日々喜はドキリとする。
「お嬢様を連れ戻しに行かれるんですニャ?」
自分の心の中を見られた。あり得る事のはずなのに、日々喜はその事をまったく予期していなかった。
魔法陣が重なり合うと、術者の心を覗き見てしまう。これは、一方的なものではなく、双方に起きえる事なのだ。
今の自分の身の上では、知られてはならない事が多すぎる。これまで、覗き見た人物、フェンネル、マウロの顔を思い浮かべ、漸く日々喜はその危険性を理解した。
タイムは、何も答えようとしない日々喜の両手をつかんだ。
「私がお嬢様の力になってと言ったからですにゃ。日々喜さん、無理をしてはいけませんにゃ」
日々喜の身体を揺さぶる様にして訴えるタイム。その様子は本気で心配をしている様に見える。日々喜は、自分の隠し事についてはまだ知られていないのだと気が付いた。
日々喜は気を改めて話し始める。
「違うよ、タイム。無理なんかじゃないさ。お嬢様はきっと誤解をしているんだと思う。だから、僕が直接会って話をしなくちゃいけないんだ」
自分からイバラ領を立ったフェンネル。そんな彼女を無理やり連れて帰る真似はしない。日々喜はタイムの心配事を理解したつもりでそう答えた。
「話すだけですニャ?」
日々喜は頷く。
「お嬢様の事情が分かれば、僕も無理に連れて帰ったりはしないさ。だけど、君やイバラの人達が、お嬢様の帰りを待っている事をちゃんと伝えなくちゃダメなんだと思う」
タイムは納得した様に、日々喜の両腕から手を離した。
「それでも、日々喜さん。お一人で旅をするのは危険ですニャ」
「コウミも一緒に行くよ」
「余計に心配ニャ!」
コウミの名前を出した途端、タイムは声を荒げる。日々喜は驚く。自分が眠っている間に、不躾なコウミがクレスの事を苛めた事を知らなかったのだ。
「オレガノさん達には、もうお話をしたのですかニャ?」
「ああ、うん。これから……」
「直ぐにお話をするニャ。そして、一緒に行くべきですニャ」
「話はしてみるけど、皆には皆の事情があるから。一緒に行くかどうかは、僕からは頼めないよ」
日々喜は苦笑して答えた。
「何、言ってますニャ!」
再びタイムが声を荒げた。
「日々喜さん。皆さんは同じ一門の見習い魔導士ですニャ。自分の事を家族とまで呼んでくれた人達を頼らないなんて。薄情ですニャ」
「いや、だけど――」
日々喜はテシオ一門に追われる身。しかし、オレガノ達はそうではない。イスカリに向かうにしても、別行動をした方がいい。
日々喜がそう自分の考えを口にしようとするが、タイムはそんな日々喜の手を引っ張り中庭へと駆け出そうとした。
「にゃんにゃん。私が皆さんにお話ししますニャ。オレガノさん達、二年目の修練生は、指導される方が居なくてどうせお暇ニャ」
日々喜はタイムに手を引かれながら、オレガノ、キリアン、リグラの居る研究室へと向かって行った。
洗濯の機械の動きを再現するラヴァーニャの魔導は、水を温め、回転力を加える。それだけだった。つまり、熱を加えて掻き混ぜれば済む話なのだ。
「火で焙りながら、棒で掻き混ぜる事と同じ――」
洗濯場に設置される井戸から水を汲み出しながら、日々喜は考えをまとめるように呟いた。
「――人の手でこなせる事を科学によって説明し技術を発展させたように、同じ事をエレメントの相互作用を持って説明し、魔導を発展させてきた」
タライに十分水が入った所で手を止めると、日々喜は曲げていた腰を元に戻し背中を伸ばした。ふと、庭先を飛び交う鳥たちの姿が目に入った。
「翼だ。鳥が空を飛ぶ事ができるのは、その為の翼を持っているから。同じように翼を持つ虫や蝙蝠も、違う種でありながら空を飛ぶ能力を持っている」
日々喜が口にした通り、異なる進化を遂げた異種の生物が、似通った生活様式を持つ場合、その肉体の中にある器官が類似した機能を備えて来るという考え方がある。同じ空を飛び交う鳥と蝙蝠は、まさに空を飛ぶ為の翼という類似した器官を備えていた。
こうした類似の器官については相似器官、または単純にアナロジーと呼ばれている。
これと同じく、魔導も科学の様に人の営みと言う終着点に向かい、同様な発展を遂げたに違いないと日々喜は考えた。
エレメントの相互作用という関係性を基盤にして、石積みの様に魔導という理論が構築されている。
そしてエレメンタルは、対応するエレメントを生み出したり、操ったりする力である。魔導士はこの力を使い魔導を行使する。この概念は非常に単純で、異なる世界から来た日々喜にとっても分かり易いものだった。
「火を生み火を操る。水を生み水を操る。風を生み風を操り、土を生み土を操る。ここから、科学的に何が出来るか考えれば、それが、魔導の類推(アナロジー)になって来る」
魔導の行使において必要とされる理解度は、これで補えるはずだと考えたのだった。
日々喜はそこから、ツキモリ・コウイチの言葉を思い返した。
インスピレーション(霊感)とインテューション(直感)。世界の囁きを霊感で聞取り、それが正しいかを直感で判断する。そして、それらを結び合わせるロジック(論理)。魔導とは、この逆の流れの様なもの。
アトラスに記述されるチャートの構成が、人の頭の中でイメージされるエレメンタルの働きを説明し、その結果として現実に魔法陣が描かれる。
「僕の生まれた世界では、全ての物体が地上に落下する事から、万有引力の法則が見出された。魔導はこの逆。理屈が先に立ち、正しいものが結果として現れる」
ツキモリ・コウイチの言う逆の流れとは、つまる所そう言う事なのだろうと日々喜は考えた。
しかし、それは異論の生まれる考えでもある。
理屈とは、あくまでも机上の話し。科学とは、あくまでも事実に即した理屈。何が現実を支配し、何が世界を叙述するかは、それを信じるその人次第で変わって来る。その事に日々喜はまだ気が付いてはいなかった。
「何も迷う事は無いさ。既に答えは出ているんだから、それに向かって考え続ければいいだけの話し」
同じ哺乳類でありながら、蝙蝠が翼を獲得した様に、日々喜は自分が学んだ知識を活かせば、魔導を行使する事ができるはずだと、思考を飛躍させたのだった。
やがて、戻って来たタイムが勝手口から顔を出した。
「お待たせしましたニャ」
日々喜はタイムの持って来たアトラスを受け取ると、その内容を確認した。
それまで自信に満ちていた日々喜の表情が崩れる。そして、眉をしかめながらアトラスを眺め続けた。
「んー……。サラマンダーを用い、水の中で火のエレメントを作り出す? これで、水が温められるの? ……つ、つまり、水の中で、火を灯して……、水の中? うーん……」
このエレメントの相互作用を科学的に解釈するのは相当な難題だ。そればかりか、日々喜の直感に反するのか、いまいち納得のいかない事が多くあった。その為、日々喜は困惑を極めた様な唸り声を上げた。
「難しそうですかニャ?」
タイムは心配そうに日々喜に尋ねる。
「だ、大丈夫」
日々喜は慌てた。
「タイム。実際に洗濯する訳では無いから、今日は水をかき混ぜるだけにしよう」
水のエレメンタル、ウンディーネを用い水をかき混ぜる。この理屈ならば、と日々喜は考えた。
「分かりましたニャ」
日々喜は魔導の事初めの手解きに移行する。以前、マウロに教えてもらったやり方をそのままタイムに解説した。
タイムは日々喜に言われるがままに右手を水の入ったタライにかざした。
「タイム。このまま、アトラスに書かれていたチャートの内容を思い浮かべて」
寄り添うようにしていた日々喜が、タイムにそっと耳打ちをした。その時、タイムの持って来たアトラスがゆっくりと浮かび上がる。それを見て、日々喜はタイムの右手に自分の手を添えた。すると、タライの下にぼんやりとした円陣が描かれ始めた。
タライに入れられていた水が、風にあおられた様な小波を起こし、それら幾つもの波が重なり合うと、タライの中の水は周期的な平均運動へと移行し、僅かに渦を巻いた様に見せた。
できた。
タイムが集中を欠く事無く魔導の行使にあたる中で、日々喜は心の中でそう呟いた。
その時、タライの下敷きとなっていた魔法陣から強烈な輝きが漏れ出し、瞬間的に日々喜の目をくらました。
日々喜は咄嗟に顔を背け、眼を閉じた。
「どうしてさ!」
どこかで少年の声がした。日々喜は目を開き周囲を窺った。
乾いた大地の上、自分と同じくらいの背丈の細く低い木々が、規則的な間隔をもって縦横に植え付けられ、鬱蒼としている。
木々の所々には、五百円玉くらいの白い花が咲いていた。控えめな白い花弁に比べ、中央に備える黄色のオシベは大きく、その重さに耐えきれない様に全て下を向いていた。
「ツバキに似てる。……何かの畑かな」
明らかにフォーリアムの敷地内ではない。そして、そこに生える木々も、人の手を借りた人工的な物であると思えた。
「ひょっとして、ここは……」
タイムの心の中を覗き見てる。
魔法陣が重なり合った時起きる現象。それは、魔導の事初めにも稀に起きる事だと、日々喜は今更ながらに思い出した。
「東部なんて、そんな遠いい所に行ったらダメだ!」
再び同じ少年の声がした。畑の中では、声の主が何者であるかを見る事ができない。日々喜は周囲に生える木々を掻き分け、声のする方へと歩き出した。
畑から顔を出すと、目の前に伸びるあぜ道とそれに掛かる様にして沈みかけた太陽が目に入った。日々喜は眩しそうに手で夕日を遮った。すると、道筋に立つ二つの人影が目に入った。
獣人の子供だった。タイムと同じく猫の顔をした二人。一人はこちらに背を向けて、泣きそうな声でもう一人に訴えていた。先程から聞こえていた声はこの子の声だと直ぐに分かった。
もう一人は、少し背が低くなっていたが、タイム本人であると分かった。直ぐに気が付かなかったのは、何故か彼女の表情が、見慣れた顔よりもずっと大人びて見えたのだった。
タイムは、口を開いた。
「仕方ないよ、スタンプ。ここでは、ちゃんとした仕事は見つからないもの。それに、東部だったら、私でも魔導士の一門に雇ってもらえる。ちゃんと魔導の勉強もできるからって、父さんも喜んでいたじゃない」
普段とは違うタイムの口調を聞いて、日々喜はドキリとする。
「姉ちゃんの夢は知ってる。だけど、それはもう叶わない事だろ」
「そんな事無いよ、スタンプ」
「そんな事あるニャ!」
男の子は大きな声でそう言うと、顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
話しの内容から、その子がタイムの弟である事が日々喜にも分かった。イバラ領へ働きに向かうタイムの事を止めているのだろう。
「父ちゃんは勝手ニャ。都合のいい時だけ、姉ちゃんの夢の話を持ち出して。本当は、口減らしをしたいだけニャ! そんな事の為に、姉ちゃんが家を出て行く必要なんかないニャ!」
スタンプはそう言うと、飛び付く様にタイムにしがみ付いた。
「どこにも行っちゃ嫌ニャ! 一緒にここにいるニャ!」
大声を出し泣き出すスタンプの動向は、遠巻きに見守り続けていた日々喜の事をドギマギさせた。喧嘩に発展しないかと不安で仕方がなかったのだ。
しかし、タイムは落ち着き払った様子でスタンプの事を抱き留めていた。そうして、自分の胸の中で泣き続ける弟が泣き止むのを黙って待っている様子だった。
「魔導士になれないのは仕方の無い事だよ。そういう決まりなんだから、諦めなくちゃダメ。だけど、何時までもクヨクヨしていられないでしょ。悩んで落ち込んでいるくらいなら、私はいっそ飛び込んで行きたい。そうしないと、他の夢だって見る事ができないじゃない」
スタンプは顔を上げた。タイムはスタンプの顔に付いた泣き跡を拭う様に、目元の毛並みを整えてやった。
「スタンプ。私はもう魔導士になれなくてもいい。でも憧れた魔導士さん達のそばで仕事をしてみたい。だから、お父さんは関係無いの。全部私の勝手でやる事なのよ」
「姉ちゃん……」
タイムは微笑んで見せた。
「にゃんにゃん。スタンプも大きくなったニャ。何時までも泣いていたり、甘え声で話していてはダメニャ」
優しい姉の言葉に誘われるようにして、スタンプも笑みをこぼした。
「姉ちゃんだって、にゃんにゃん言っているじゃないか」
沈みゆく夕日の中で、二人の姉弟が笑い合った。日々喜は変わらずその姿を見つめ続けた。
タイムも旅立とうとしている。いや、これが過去の出来事なのだから、今は旅立った後の話し。彼女はずっと旅の中にいるのだ。
悩んではいられない。とにかく、オレガノ達に話をしてみよう。
日々喜はそう考えた。
タイムとスタンプの姿が夕闇に隠れ、日々喜のもとに届いていた二人の笑い声も、遠のくように消えて行った。
白昼夢から意識を取り戻した様に、日々喜は目を開いた。既に魔法陣は消えていた。しかし、タライの中の水は魔導の勢いの余韻を残す様に渦を巻いていた。
しばし、茫然とその光景を見ていた日々喜は、漸く口を開く。
「……良かった。タイム、できたじゃないか」
日々喜は傍に居るタイムの方を向いてそう言った。しかし、タイムは魔導を行使した事に喜ぶ様子ではなく、先程の日々喜と同様に茫然とタライを眺め続けていた。
「タイム?」
タイムは心配する様な表情を浮かべこちらを振り向いた。
「日々喜さん。旅に出られるのですニャ」
日々喜はドキリとする。
「お嬢様を連れ戻しに行かれるんですニャ?」
自分の心の中を見られた。あり得る事のはずなのに、日々喜はその事をまったく予期していなかった。
魔法陣が重なり合うと、術者の心を覗き見てしまう。これは、一方的なものではなく、双方に起きえる事なのだ。
今の自分の身の上では、知られてはならない事が多すぎる。これまで、覗き見た人物、フェンネル、マウロの顔を思い浮かべ、漸く日々喜はその危険性を理解した。
タイムは、何も答えようとしない日々喜の両手をつかんだ。
「私がお嬢様の力になってと言ったからですにゃ。日々喜さん、無理をしてはいけませんにゃ」
日々喜の身体を揺さぶる様にして訴えるタイム。その様子は本気で心配をしている様に見える。日々喜は、自分の隠し事についてはまだ知られていないのだと気が付いた。
日々喜は気を改めて話し始める。
「違うよ、タイム。無理なんかじゃないさ。お嬢様はきっと誤解をしているんだと思う。だから、僕が直接会って話をしなくちゃいけないんだ」
自分からイバラ領を立ったフェンネル。そんな彼女を無理やり連れて帰る真似はしない。日々喜はタイムの心配事を理解したつもりでそう答えた。
「話すだけですニャ?」
日々喜は頷く。
「お嬢様の事情が分かれば、僕も無理に連れて帰ったりはしないさ。だけど、君やイバラの人達が、お嬢様の帰りを待っている事をちゃんと伝えなくちゃダメなんだと思う」
タイムは納得した様に、日々喜の両腕から手を離した。
「それでも、日々喜さん。お一人で旅をするのは危険ですニャ」
「コウミも一緒に行くよ」
「余計に心配ニャ!」
コウミの名前を出した途端、タイムは声を荒げる。日々喜は驚く。自分が眠っている間に、不躾なコウミがクレスの事を苛めた事を知らなかったのだ。
「オレガノさん達には、もうお話をしたのですかニャ?」
「ああ、うん。これから……」
「直ぐにお話をするニャ。そして、一緒に行くべきですニャ」
「話はしてみるけど、皆には皆の事情があるから。一緒に行くかどうかは、僕からは頼めないよ」
日々喜は苦笑して答えた。
「何、言ってますニャ!」
再びタイムが声を荒げた。
「日々喜さん。皆さんは同じ一門の見習い魔導士ですニャ。自分の事を家族とまで呼んでくれた人達を頼らないなんて。薄情ですニャ」
「いや、だけど――」
日々喜はテシオ一門に追われる身。しかし、オレガノ達はそうではない。イスカリに向かうにしても、別行動をした方がいい。
日々喜がそう自分の考えを口にしようとするが、タイムはそんな日々喜の手を引っ張り中庭へと駆け出そうとした。
「にゃんにゃん。私が皆さんにお話ししますニャ。オレガノさん達、二年目の修練生は、指導される方が居なくてどうせお暇ニャ」
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