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第3話:桶狭間の誓い
しおりを挟む――永禄三年、五月。
風薫る初夏。だがその爽やかさとは裏腹に、尾張の地は緊張に包まれていた。
駿河より、今川義元が大軍を率いて進軍してくる。
数は二万五千。対する織田軍は、わずか四千。
「まるで蟻が象に挑むようなもの」と、誰もが言った。
敗色濃厚。織田家中はすでに動揺し、一部では裏切りの動きすら囁かれていた。
だが、信長は動じなかった。
むしろ、その目には奇妙な熱が宿っていた。
「戦は、数だけでは決まらぬ。――信じるか?」
問いかけられた帰蝶は、微笑みで応えた。
「あなたが信じる限り、私も信じます」
それは、女の言葉ではなかった。
一国の姫でも、ただの妻でもない――信長の隣に立つ者の覚悟だった。
出陣の朝、信長は熱田神宮にて祈願を終えたあと、帰蝶の待つ屋敷へと足を運んだ。
「……ここに来たのは、たったひとつ、伝えたいことがあったからだ」
「討ち死にの覚悟で?」
帰蝶は、あえて言葉を選ばず、正面からぶつけた。
信長は苦笑した。
「お前には、隠し事ができぬな」
そして、懐からひとつの小箱を取り出した。
そこには、細工の施された**金の簪(かんざし)**が収められていた。
「これは、母上が遺してくれたものだ。
だが俺は、母の面影よりも、お前の姿にこれを重ねたいと思った」
帰蝶はしばらくそれを見つめ、手に取った。
「これは……形見ではなく、希望ですね」
信長の目が見開かれる。
「俺が討ち死にしたら、それは形見だ。
だが、生きて戻るなら――これは、俺が天下を獲るという誓いの証になる」
「ならば、必ず戻ってください。
この簪が、戦の血で濡れぬように」
帰蝶はそれを髪に挿し、自らの姿を信長に見せた。
「あなたが帰る場所を、私は守っています。
だから――生きて、私の元へ戻ってください。必ず」
一瞬、信長の目が揺れた。
「……お前のその言葉が、一番の鎧だ」
そう言って彼は、いつもの軽口ではなく、深く、低く――
まるで祈りのような声で言葉を紡いだ。
「帰蝶。お前を娶ったのは、政略のためではない。
いま、この瞬間、俺はお前を――心から、愛している」
帰蝶は何も答えず、ただ信長の手をとった。
その手が、震えていたのは、彼の命が今にも散るかもしれないと知っていたからだ。
けれど、彼は笑っていた。
「行くぞ。天下を獲るために」
そう言い残し、信長は屋敷をあとにした。
――その数日後。
織田信長は、奇襲に次ぐ奇襲、圧倒的な機動力と天運を味方にし、
桶狭間の戦いにて今川義元を討ち取った。
戦国の常識を覆す、大逆転劇。
帰蝶は、勝利の知らせを聞いたその夜、簪を手にして、ひとり静かに涙を流した。
「あなたは、焔を纏って帰ってきた……」
それは、戦火の中を生き抜いた男への――
そして、自らの信じた愛への、ささやかな賛歌だった。
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