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新生活
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「もう分かっていると思うが、俺に愛を求めるな。」
「はい。承知しておりますわ。」
私は穏やかに微笑んでそう答えた。
馬車の中での会話はこの1回のみ。私も愛を乞われれば対応に困っていただろうから、正直この方がありがたい。
小窓から外の景色を見ることも出来ないので、私は人形のように笑顔を浮かべたまま、目の前の空いた座席を見つめていた。私の心は驚く程に静かで、こんな時ですら期待も悲しみも浮かんでは来なかった。
公爵様は確かに美しく、惹かれる存在なのだろう。しかし公爵様が私に興味が無いように、私も公爵様に興味はなかった。特別何かを期待してもいない。ただ、平穏に暮らせればそれで良いのだ。
馬車に揺られること数時間。小さな振動がピタリとやんで、ノックと共に馬車の扉が開けられた。
「到着致しました。」
公爵様の後に続き、従者の手を借りて馬車から下りる。目の前にある屋敷は侯爵邸とは比べ物にならないほど立派で重々しい雰囲気があった。
私の身長の倍はありそうな扉が開き、中には整列した使用人達が主の帰りを待っていた。ホコリひとつない、手入れの行き届いた歴史ある邸宅。
私は公爵様の斜め後ろを歩き、お辞儀をする使用人達にも穏やかな笑顔を向ける。こんなに広い屋敷なのに、使用人の数は侯爵家と同等かそれ以下である。
「初めまして。ナールイス侯爵家のフィオラ・ナールイス様で御座いますね。私、筆頭執事のシーザー・アシュトンと申します。そしてこちらが、フィオラ様専属メイドのアイリスで御座います。」
「よろしくお願い致します。」
使用人たちの最後尾に並び、私の前で恭しくお辞儀をした2人のメイドと執事。執事は公爵様とは真逆の黒髪だが、スラリとした体躯に整った顔立ちは女性受けのよさそうな風貌だ。しかし鋭い視線は明らかに私に敵意がないかを探っていた。恐らく私が公爵様に害ある存在だと分かればすぐに切り捨てるだろう。一方のメイドも愛らしいよりも美しいという言葉が似合う容姿をしており、紫色の髪よりも深い色をした瞳からは緊張の色が見えた。
「私の方こそ、まだまだ分からないことが沢山あるのでよろしくお願い致します。」
ふふっと笑いながら挨拶程度のカーテシーをすれば、アイリスの緊張は少しは解れたようだ。
「お部屋をご案内致します。」
アイリスにそう言われ、私は公爵様と別れて自室だという部屋へと案内された。どうやら隣は公爵様のお部屋らしく、私の部屋は長らく使われていなかったらしい。
「とても綺麗ね。」
長年使われていなかったとは思えないほど清潔な部屋。白を基調とした壁や家具には精巧な柄が刻まれていた。こんなに高価な部屋を私が使うのだと少々気後れしてしまうが、せめて汚さないようにと気をつけるまでだ。
「公爵様にはご両親がいらっしゃらないため、本日のご予定はもうありません。如何してお過ごしになられますか?」
私はアイリスの言葉にニコリと笑みを深め、使用人達への挨拶を提案する。正直自室で休みたい気分だったが、慣れない環境に来た以上、周りの人とはある程度の関係を築いておきたかった。公爵様の両親は病死したとの噂があり、私が無闇に詮索する必要は無い。アイリスは私の提案を了承し、私達はそれぞれ使用人達へと挨拶をしに回った。
◆◇◆
「とても人慣れしたお方ですね。」
執務室にて事務仕事を行う俺に、シーザーはそう投げかけてきた。恐らくフィオラのことだろう。彼女付きのメイドによると、彼女は来てそうそうに全員の使用人と挨拶をし、今は自室で休んでいるとの事だった。
脳裏に浮かぶのは、顔面を蒼白にして口元を押さえ、とても体調の優れているような姿ではないフィオラ。周りの人間には気丈に振舞っていたが、馬車の中でも体調は優れなさそうであった。あの毒家族から一刻も早く離すべく連れて帰ってきたが、時期早々だったのだろうか。
…と、そこまで考えて自分の思考がフィオラのことしかないことに気付いた。もしかして自分は、彼女のことを心配しているのだろうか。
「まるで人形のような女だ。」
俺は自分の中に芽生えた感情を消すべく、そう口に出した。俺は王命に従って婚約をしただけでそこに感情は必要ないのだ。
「あなたがそんなことを言うなんて…珍しいですね。」
じろりと睨みつけるようにシーザーの顔を見た。普段は硬い表情が珍しく驚きの色に染っている。
確かに…私が女に対して何かしらの感想を述べたのは初めてかもしれない。
──調子が狂わされている。
俺は溜息を漏らすと、心做しか嬉しそうな顔をしているシーザーを視界から外して書類の文字に集中することにした。侯爵家で半日を過ごすため、本来ならばその日にやるはずだった仕事を前後に回しているのだ。
「夕食は如何されますか?」
「ここで食べる。」
俺は邪念を振り払うようにそう言うと、シーザーはため息混じりに了承して部屋を出ていった。恐らく料理長とフィオラにそのことを伝えに言ったのだろう。
俺は結局その日は夕食に手をつけることはなく、夜が深くなってから1人自室へと戻った。婚約初日から別々の食事を取ったと王に知られればどんな小言を言われるかは目に見えている。しかし公爵邸の使用人は皆口が堅いため、口外される心配はないだろう。それに王ならば俺と婚約者の間に愛が芽生えないことは最初から分かりきっているはずだ。
──このままでいい。
俺はベッドに体を預けると、そのまま意識を浅く落とした。
◇◆◇
目が覚めると、視界いっぱいに見慣れない白が映り込んできた。そしてそれが公爵邸での自室の壁だと理解するにはそれなりの時間を要した。
どうやらまた悪い癖が出てしまったらしい。
眠りにつく時は天井を向いているのだが、目が覚めるとたまに何かを抱え込んで寝てしまっているのだ。淑女として相応しくない寝方だと思い昔から改善しようとしているのだが、こればかりは何故か治らなかった。
侯爵邸にいた頃はぬいぐるみを置いていたためそれを抱いていることがあったが、今日はぬいぐるみがないためにブランケットを抱いていたらしい。
きっと妹の代わりである私との夜伽はないにしても、いつか誰かに見られるかもしれない。一刻も早く治したいところだが、それが出来れば苦労していない。
──せめてぬいぐるみはもってくるんだったわ。
私はぼんやりとした頭でそんなことを考え、まだ明けてない空色を見るために窓辺へ寄った。
結局昨日は使用人達への挨拶を済ませた後、体調が優れなかったため夕食もとらずに眠りについてしまった。
公爵様にもきっと迷惑をかけてしまったはずだ。
心も体も新しい環境に順応しているはずなのだが、体はどうも不調なようだ。朝食も出来れば摂りたくないが、料理長にも挨拶をしたのに2回も食べないというのは申し訳ない。それに公爵様へは昨日の詫びと改めて挨拶をしなければならない。
公爵様からは公爵夫人としての姿しか望まれていない以上、普段は視界に入らぬように大人しくしているのが得策だろう。侯爵邸でもよく存在を忘れられていたため、自分の気配を殺すのは得意だ。
周りの人達も、私も、私らしさを望んでいない。皆が一人一人持っている個性は愛されない私には必要ないのだ。
──もう、疲れた。
これが当たり前の筈なのに。慣れているはずなのに。
両親からはっきりと、私はいらないと宣告されてしまったからだろうか。心が虚しい。
私は頭を冷やそうと窓を開けた。
負の思考へ陥ってしまっている。きっと昨日の件から体調が良くないせいだろう。
日が昇る前の冷たい風を全身で浴びようと、私は窓から身を乗り出した。今までなら絶対にやらなかったことだが、それは私の印象が悪いものになって家族に迷惑がかからないようにするためだ。
私は今まで家族を愛する完璧な淑女であろうとした。しかしその家族に売られた今、なぜだか全てがどうでもよく思えてしまっていた。
──いっそのこと。ここから落ちて事故死してしまってもいいんじゃないだろうか。
そんな考えが過ぎった時だった。突然背後からお腹に手を回され、全身が温かいものに包まれたかと思うと既に私の視界は部屋の中へと戻されていた。ふわりと香る石鹸の香りとラベンダーの芳香に背後から人に抱かれていると気付くにはかなりの時間を要した。
「死ぬ気か?」
背後から聞こえたのは本来この部屋にいない筈の公爵様の声。その声は妹の婚約破棄の件の時と同じくらい冷たいもので、彼が怒っているのはひしひしと伝わってきた。
きっと図々しくも妹の代わりに婚約した姉、お飾りの婚約者が自殺すると考えているのだろう。確かに公爵様からしたら大迷惑でしかない。
「誤解ですわ公爵様。私はただ風に当たっていただけです。」
私は公爵様の腕の中からやんわりと離れると、さもあらぬ誤解をされて困っているかのように微笑んでカーテシーをした。死ぬ気があったかなんて自分でも分からないので、彼の問いには答えられない。
公爵様は相変わらず冷たい瞳でこちらを見据えており、その瞳からは疑いの色が見て取れる。
「心配して下さってありがとうございます。二度と公爵様にご迷惑はおかけいたしませんので安心してくださいませ。」
「…ならいい。」
慎ましく、淑女らしく。
私が優しい口調でそう告げると、公爵様は踵を返して部屋を出ていった。そして隣の部屋のドアが閉じる音がしたため、自室に戻ったのだろうと判断する。
…それにしても、なぜ公爵様がこの部屋に来たのだろうか。
先程の公爵様の姿を思い浮かべる。
白いシャツに黒のズボンと大分ラフな格好をしていた。それに湯浴みをしてきたかのようにまだ乾ききっていない髪に石鹸の香り。
あの公爵様が夜這いなんて事は絶対にしないと分かっているが、2時間もすれば日が昇るというこんな時間に部屋に来た意図が分からない。
──監視されているのかしら。
私の頭は完全に冴え切ってしまい、これから再び眠りにつくことは不可能だった。
◆◇◆
なぜ、自分があの様な行為をしたのか分からない。
自室に戻った俺の手には、先程まで抱いていたあの女の感触がはっきりと残っていた。
──気に入らない。
あの女─フィオラも、己の感情も。理解できない。
今まで何人もの悪人を殺してきた。逃げ場がないことを悟り自死する者も見てきた。だからわかる。
あの時、彼女には死を決意した者特有の匂いがなかった。
なのに俺は…彼女を危険から引き離した。
なぜ…?
そうしなければ、手を伸ばさなければ彼女が今にも跡形もなく消えてしまいそうだったから。
フィオラをこの世に繋ぎ止めようと後ろから抱き締めても、彼女の存在は腕の中からも消えてしまいそうな程儚く感じられた。
「死ぬ気か?」
思わず口から出てしまった。しかし俺の心配をよそに、彼女はいつもの穏やかな笑みで腕の中から離れた。そして少し眉を下げ、困ったように笑う。
何故だか死の間際に俺にほほ笑みかけた母の姿が重なった。
──こいつも俺の前で死ぬのか?
そんな不安を気取られぬようにと、俺は急いでその場から離れた。
たまたま目が覚めたため湯浴みをし、なぜだか気になって覗いてしまった彼女の部屋。
今は後悔しかない。
そもそも冷静に考えればこんな時間に何の用があって彼女の部屋を訪れたのか。きっと不信感を与えてしまっただろう。
──自分が分からない。
俺はベッドに腰を下ろし、そのまま背中から倒れた。
今更眠ることなんてできない。目を瞑って浮かんでくるのは、何時だって気丈で気高く、けれど優しく微笑む母の姿。
そしてその隣には、いつも無愛想な表情の癖に母を見つめる時だけは慈愛に満ちた顔をする父の姿。
俺は生まれた時から王の手足として戦う術を教わってきた。剣術も体術も座学も、全てに厳しい教育が施された。それでもあの時は幸せだと感じていた。俺の成長を認めてくれる母と、母の隣にいる時は穏やかな父がいたから。父はいつも鬼のように厳しかったが、それも全て俺のためだと言うことは理解していた。
しかし、幸せが崩れたのは一瞬だった。
『ごめんなさい。』
母は俺にそう言って微笑むと、目の前で命を絶った。
なぜ自死を選んだのか、その理由は誰にもわからなかった。けれど目の前に倒れる母と、母を抱きしめる父の姿を見て何となくわかった気がした。
──きっと母は、皆に愛された幸せな状態で死にたかったのだ。
だからこそ、飛び降りでも、失血死でもなく、毒殺を選んだのだろうと。できるだけ綺麗な状態で死ねるように。
──なんて自分勝手な人なのだろう。
結局は自分が愛されたかっただけ。我が子である俺に優しくしていたのも、見返りの愛を求めていたからなのか。
けれど母の思惑は上手くいったと言えるのだろう。
事実、母を亡くし気の違った父は数日後に自ら命を絶った。
なんて茶番だろうか。
俺の心は父の死にもはや何も感じることはなく、その日からは表向きは時期公爵として公爵家の仕事を引き継ぐこととなった。
見返りを求める愛なんて最初からいらない。
今までも俺の容姿や爵位に惹かれてやって来た女達はいた。けれどそいつらも皆、母と同じように見返りを求めた。自分はお粗末な口先だけの愛を囁き、見返りには割に合わない宝石やスキンシップを求めてくる。女に限らず男もそうだった。皆口先だけの、目の前の欲に溺れた人間。
なんて醜いのだろうか。
俺は落胆し、そのうち全ての人間に期待するのをやめた。自分から何かを求めることは諦めた。
そうすれば自然と人との距離は空いたが、それでも生きやすくなった。
どうやら俺もあの母の血を継いでいるようで、いつの間にか自分を純粋に慕ってくれる心を期待してしまっていたらしい。
しかし彼女、フィオラは俺に対する好意も、俺の持つ爵位も財宝にも興味がないようだった。
ただ流されるがまま、意志を持たぬ人形のような女。けれど彼女には心がある。
聡明で、自分が蔑ろにされていることが当たり前だと理解していながら、彼女は自分が妹の尻拭いの責任を取らされたことに酷く絶望していた。
あの目は全てを理解して、そして諦めていた。それなのに実際に両親から自分の存在価値を突きつけられたことに絶望する愚かしいほどの純粋さ。
親からも誰からも愛を与えられず、愛に飢えた無垢な女神。
彼女に愛を教えれば、彼女は俺そのものだけを純粋に愛してくれるだろうか。
「早急に、窓に格子をつけさせねば。」
「はい。承知しておりますわ。」
私は穏やかに微笑んでそう答えた。
馬車の中での会話はこの1回のみ。私も愛を乞われれば対応に困っていただろうから、正直この方がありがたい。
小窓から外の景色を見ることも出来ないので、私は人形のように笑顔を浮かべたまま、目の前の空いた座席を見つめていた。私の心は驚く程に静かで、こんな時ですら期待も悲しみも浮かんでは来なかった。
公爵様は確かに美しく、惹かれる存在なのだろう。しかし公爵様が私に興味が無いように、私も公爵様に興味はなかった。特別何かを期待してもいない。ただ、平穏に暮らせればそれで良いのだ。
馬車に揺られること数時間。小さな振動がピタリとやんで、ノックと共に馬車の扉が開けられた。
「到着致しました。」
公爵様の後に続き、従者の手を借りて馬車から下りる。目の前にある屋敷は侯爵邸とは比べ物にならないほど立派で重々しい雰囲気があった。
私の身長の倍はありそうな扉が開き、中には整列した使用人達が主の帰りを待っていた。ホコリひとつない、手入れの行き届いた歴史ある邸宅。
私は公爵様の斜め後ろを歩き、お辞儀をする使用人達にも穏やかな笑顔を向ける。こんなに広い屋敷なのに、使用人の数は侯爵家と同等かそれ以下である。
「初めまして。ナールイス侯爵家のフィオラ・ナールイス様で御座いますね。私、筆頭執事のシーザー・アシュトンと申します。そしてこちらが、フィオラ様専属メイドのアイリスで御座います。」
「よろしくお願い致します。」
使用人たちの最後尾に並び、私の前で恭しくお辞儀をした2人のメイドと執事。執事は公爵様とは真逆の黒髪だが、スラリとした体躯に整った顔立ちは女性受けのよさそうな風貌だ。しかし鋭い視線は明らかに私に敵意がないかを探っていた。恐らく私が公爵様に害ある存在だと分かればすぐに切り捨てるだろう。一方のメイドも愛らしいよりも美しいという言葉が似合う容姿をしており、紫色の髪よりも深い色をした瞳からは緊張の色が見えた。
「私の方こそ、まだまだ分からないことが沢山あるのでよろしくお願い致します。」
ふふっと笑いながら挨拶程度のカーテシーをすれば、アイリスの緊張は少しは解れたようだ。
「お部屋をご案内致します。」
アイリスにそう言われ、私は公爵様と別れて自室だという部屋へと案内された。どうやら隣は公爵様のお部屋らしく、私の部屋は長らく使われていなかったらしい。
「とても綺麗ね。」
長年使われていなかったとは思えないほど清潔な部屋。白を基調とした壁や家具には精巧な柄が刻まれていた。こんなに高価な部屋を私が使うのだと少々気後れしてしまうが、せめて汚さないようにと気をつけるまでだ。
「公爵様にはご両親がいらっしゃらないため、本日のご予定はもうありません。如何してお過ごしになられますか?」
私はアイリスの言葉にニコリと笑みを深め、使用人達への挨拶を提案する。正直自室で休みたい気分だったが、慣れない環境に来た以上、周りの人とはある程度の関係を築いておきたかった。公爵様の両親は病死したとの噂があり、私が無闇に詮索する必要は無い。アイリスは私の提案を了承し、私達はそれぞれ使用人達へと挨拶をしに回った。
◆◇◆
「とても人慣れしたお方ですね。」
執務室にて事務仕事を行う俺に、シーザーはそう投げかけてきた。恐らくフィオラのことだろう。彼女付きのメイドによると、彼女は来てそうそうに全員の使用人と挨拶をし、今は自室で休んでいるとの事だった。
脳裏に浮かぶのは、顔面を蒼白にして口元を押さえ、とても体調の優れているような姿ではないフィオラ。周りの人間には気丈に振舞っていたが、馬車の中でも体調は優れなさそうであった。あの毒家族から一刻も早く離すべく連れて帰ってきたが、時期早々だったのだろうか。
…と、そこまで考えて自分の思考がフィオラのことしかないことに気付いた。もしかして自分は、彼女のことを心配しているのだろうか。
「まるで人形のような女だ。」
俺は自分の中に芽生えた感情を消すべく、そう口に出した。俺は王命に従って婚約をしただけでそこに感情は必要ないのだ。
「あなたがそんなことを言うなんて…珍しいですね。」
じろりと睨みつけるようにシーザーの顔を見た。普段は硬い表情が珍しく驚きの色に染っている。
確かに…私が女に対して何かしらの感想を述べたのは初めてかもしれない。
──調子が狂わされている。
俺は溜息を漏らすと、心做しか嬉しそうな顔をしているシーザーを視界から外して書類の文字に集中することにした。侯爵家で半日を過ごすため、本来ならばその日にやるはずだった仕事を前後に回しているのだ。
「夕食は如何されますか?」
「ここで食べる。」
俺は邪念を振り払うようにそう言うと、シーザーはため息混じりに了承して部屋を出ていった。恐らく料理長とフィオラにそのことを伝えに言ったのだろう。
俺は結局その日は夕食に手をつけることはなく、夜が深くなってから1人自室へと戻った。婚約初日から別々の食事を取ったと王に知られればどんな小言を言われるかは目に見えている。しかし公爵邸の使用人は皆口が堅いため、口外される心配はないだろう。それに王ならば俺と婚約者の間に愛が芽生えないことは最初から分かりきっているはずだ。
──このままでいい。
俺はベッドに体を預けると、そのまま意識を浅く落とした。
◇◆◇
目が覚めると、視界いっぱいに見慣れない白が映り込んできた。そしてそれが公爵邸での自室の壁だと理解するにはそれなりの時間を要した。
どうやらまた悪い癖が出てしまったらしい。
眠りにつく時は天井を向いているのだが、目が覚めるとたまに何かを抱え込んで寝てしまっているのだ。淑女として相応しくない寝方だと思い昔から改善しようとしているのだが、こればかりは何故か治らなかった。
侯爵邸にいた頃はぬいぐるみを置いていたためそれを抱いていることがあったが、今日はぬいぐるみがないためにブランケットを抱いていたらしい。
きっと妹の代わりである私との夜伽はないにしても、いつか誰かに見られるかもしれない。一刻も早く治したいところだが、それが出来れば苦労していない。
──せめてぬいぐるみはもってくるんだったわ。
私はぼんやりとした頭でそんなことを考え、まだ明けてない空色を見るために窓辺へ寄った。
結局昨日は使用人達への挨拶を済ませた後、体調が優れなかったため夕食もとらずに眠りについてしまった。
公爵様にもきっと迷惑をかけてしまったはずだ。
心も体も新しい環境に順応しているはずなのだが、体はどうも不調なようだ。朝食も出来れば摂りたくないが、料理長にも挨拶をしたのに2回も食べないというのは申し訳ない。それに公爵様へは昨日の詫びと改めて挨拶をしなければならない。
公爵様からは公爵夫人としての姿しか望まれていない以上、普段は視界に入らぬように大人しくしているのが得策だろう。侯爵邸でもよく存在を忘れられていたため、自分の気配を殺すのは得意だ。
周りの人達も、私も、私らしさを望んでいない。皆が一人一人持っている個性は愛されない私には必要ないのだ。
──もう、疲れた。
これが当たり前の筈なのに。慣れているはずなのに。
両親からはっきりと、私はいらないと宣告されてしまったからだろうか。心が虚しい。
私は頭を冷やそうと窓を開けた。
負の思考へ陥ってしまっている。きっと昨日の件から体調が良くないせいだろう。
日が昇る前の冷たい風を全身で浴びようと、私は窓から身を乗り出した。今までなら絶対にやらなかったことだが、それは私の印象が悪いものになって家族に迷惑がかからないようにするためだ。
私は今まで家族を愛する完璧な淑女であろうとした。しかしその家族に売られた今、なぜだか全てがどうでもよく思えてしまっていた。
──いっそのこと。ここから落ちて事故死してしまってもいいんじゃないだろうか。
そんな考えが過ぎった時だった。突然背後からお腹に手を回され、全身が温かいものに包まれたかと思うと既に私の視界は部屋の中へと戻されていた。ふわりと香る石鹸の香りとラベンダーの芳香に背後から人に抱かれていると気付くにはかなりの時間を要した。
「死ぬ気か?」
背後から聞こえたのは本来この部屋にいない筈の公爵様の声。その声は妹の婚約破棄の件の時と同じくらい冷たいもので、彼が怒っているのはひしひしと伝わってきた。
きっと図々しくも妹の代わりに婚約した姉、お飾りの婚約者が自殺すると考えているのだろう。確かに公爵様からしたら大迷惑でしかない。
「誤解ですわ公爵様。私はただ風に当たっていただけです。」
私は公爵様の腕の中からやんわりと離れると、さもあらぬ誤解をされて困っているかのように微笑んでカーテシーをした。死ぬ気があったかなんて自分でも分からないので、彼の問いには答えられない。
公爵様は相変わらず冷たい瞳でこちらを見据えており、その瞳からは疑いの色が見て取れる。
「心配して下さってありがとうございます。二度と公爵様にご迷惑はおかけいたしませんので安心してくださいませ。」
「…ならいい。」
慎ましく、淑女らしく。
私が優しい口調でそう告げると、公爵様は踵を返して部屋を出ていった。そして隣の部屋のドアが閉じる音がしたため、自室に戻ったのだろうと判断する。
…それにしても、なぜ公爵様がこの部屋に来たのだろうか。
先程の公爵様の姿を思い浮かべる。
白いシャツに黒のズボンと大分ラフな格好をしていた。それに湯浴みをしてきたかのようにまだ乾ききっていない髪に石鹸の香り。
あの公爵様が夜這いなんて事は絶対にしないと分かっているが、2時間もすれば日が昇るというこんな時間に部屋に来た意図が分からない。
──監視されているのかしら。
私の頭は完全に冴え切ってしまい、これから再び眠りにつくことは不可能だった。
◆◇◆
なぜ、自分があの様な行為をしたのか分からない。
自室に戻った俺の手には、先程まで抱いていたあの女の感触がはっきりと残っていた。
──気に入らない。
あの女─フィオラも、己の感情も。理解できない。
今まで何人もの悪人を殺してきた。逃げ場がないことを悟り自死する者も見てきた。だからわかる。
あの時、彼女には死を決意した者特有の匂いがなかった。
なのに俺は…彼女を危険から引き離した。
なぜ…?
そうしなければ、手を伸ばさなければ彼女が今にも跡形もなく消えてしまいそうだったから。
フィオラをこの世に繋ぎ止めようと後ろから抱き締めても、彼女の存在は腕の中からも消えてしまいそうな程儚く感じられた。
「死ぬ気か?」
思わず口から出てしまった。しかし俺の心配をよそに、彼女はいつもの穏やかな笑みで腕の中から離れた。そして少し眉を下げ、困ったように笑う。
何故だか死の間際に俺にほほ笑みかけた母の姿が重なった。
──こいつも俺の前で死ぬのか?
そんな不安を気取られぬようにと、俺は急いでその場から離れた。
たまたま目が覚めたため湯浴みをし、なぜだか気になって覗いてしまった彼女の部屋。
今は後悔しかない。
そもそも冷静に考えればこんな時間に何の用があって彼女の部屋を訪れたのか。きっと不信感を与えてしまっただろう。
──自分が分からない。
俺はベッドに腰を下ろし、そのまま背中から倒れた。
今更眠ることなんてできない。目を瞑って浮かんでくるのは、何時だって気丈で気高く、けれど優しく微笑む母の姿。
そしてその隣には、いつも無愛想な表情の癖に母を見つめる時だけは慈愛に満ちた顔をする父の姿。
俺は生まれた時から王の手足として戦う術を教わってきた。剣術も体術も座学も、全てに厳しい教育が施された。それでもあの時は幸せだと感じていた。俺の成長を認めてくれる母と、母の隣にいる時は穏やかな父がいたから。父はいつも鬼のように厳しかったが、それも全て俺のためだと言うことは理解していた。
しかし、幸せが崩れたのは一瞬だった。
『ごめんなさい。』
母は俺にそう言って微笑むと、目の前で命を絶った。
なぜ自死を選んだのか、その理由は誰にもわからなかった。けれど目の前に倒れる母と、母を抱きしめる父の姿を見て何となくわかった気がした。
──きっと母は、皆に愛された幸せな状態で死にたかったのだ。
だからこそ、飛び降りでも、失血死でもなく、毒殺を選んだのだろうと。できるだけ綺麗な状態で死ねるように。
──なんて自分勝手な人なのだろう。
結局は自分が愛されたかっただけ。我が子である俺に優しくしていたのも、見返りの愛を求めていたからなのか。
けれど母の思惑は上手くいったと言えるのだろう。
事実、母を亡くし気の違った父は数日後に自ら命を絶った。
なんて茶番だろうか。
俺の心は父の死にもはや何も感じることはなく、その日からは表向きは時期公爵として公爵家の仕事を引き継ぐこととなった。
見返りを求める愛なんて最初からいらない。
今までも俺の容姿や爵位に惹かれてやって来た女達はいた。けれどそいつらも皆、母と同じように見返りを求めた。自分はお粗末な口先だけの愛を囁き、見返りには割に合わない宝石やスキンシップを求めてくる。女に限らず男もそうだった。皆口先だけの、目の前の欲に溺れた人間。
なんて醜いのだろうか。
俺は落胆し、そのうち全ての人間に期待するのをやめた。自分から何かを求めることは諦めた。
そうすれば自然と人との距離は空いたが、それでも生きやすくなった。
どうやら俺もあの母の血を継いでいるようで、いつの間にか自分を純粋に慕ってくれる心を期待してしまっていたらしい。
しかし彼女、フィオラは俺に対する好意も、俺の持つ爵位も財宝にも興味がないようだった。
ただ流されるがまま、意志を持たぬ人形のような女。けれど彼女には心がある。
聡明で、自分が蔑ろにされていることが当たり前だと理解していながら、彼女は自分が妹の尻拭いの責任を取らされたことに酷く絶望していた。
あの目は全てを理解して、そして諦めていた。それなのに実際に両親から自分の存在価値を突きつけられたことに絶望する愚かしいほどの純粋さ。
親からも誰からも愛を与えられず、愛に飢えた無垢な女神。
彼女に愛を教えれば、彼女は俺そのものだけを純粋に愛してくれるだろうか。
「早急に、窓に格子をつけさせねば。」
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