亡国の公女の恋

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 林を抜け首都キヌルを出たのは宮殿を脱出してからちょうど一日経った頃だった。
 途中休憩を数回挟みながら、スヴェトラーナの頑張りもあってルカの想定通りにここまで進んだ。
 次の都市グレタゴで休める場所を探そうとしたが、スヴェトラーナとルカは再び林に戻ることになる。
 コースリーの軍の兵がグレタゴの街を大群で移動していたのだ。
 進む方向は首都キヌル。
 スヴェトラーナは胸が締め付けられ思わずマント越しのルカの腕にしがみついた。
 軍勢に見えたのは勝利だったからだ。
 高々とコースリー軍の旗を揚げ、悠然と進んでいく。
 援軍に行くわけではない。勝ち取った自国の領土だと知らしめながら進んでいるのだ。

 落ちた。国が落ちた。

 そうなる運命は解っていた。
 しかし現実を目の当たりにして、やはり冷静ではいられない。
 していたはずの覚悟では足らず、崩れそうな身体をルカにしがみついて立たせているのが精いっぱいだった。
 スヴェトラーナが悟ったことをルカも事実だと思った。
 コースリーが勝利し、国が亡くなったのだ。
 それは王ボグダノヴィチが死んだことも意味する。
 スヴェトラーナは今、国と父親を確実に失ったのだ。
 この状況では大群が去るのを待って街へ出るより戻るべきだ。
 ルカはスヴェトラーナの肩に手を回し腕を支えて林の中に戻った。
 勝利した軍隊が移動しているのであれば、わざわざ遠回りの林の中へ入ってきたりはしないだろう。
 姿が隠せるところまで入って、スヴェトラーナをゆっくりと木を背にして座らせる。
 夜も更けて寒いが、火を熾すことも出来ない。暖かい飲み物で凍えた心を癒すことも出来ない。
 ルカは自分のマントを脱ぎ、膝を抱えて座るスヴェトラーナに掛けた。せめて出来ることはこれだけだった。
 スヴェトラーナは空虚な瞳をルカに向けた。

「ありがとう。でもあなたが寒くなってしまいます」
「俺は、大丈夫です。こんなことも慣れているので」

 スヴェトラーナがマントを返そうとするので、ルカはそれを押さえて止めた。
 押さえた手にスヴェトラーナの手が当たり咄嗟に引こうとしたルカだったが、スヴェトラーナがその手を握った。
 その力は弱く、掴むのがやっとという感じだ。
 ルカは堪らず両手でその手を包んで握った。
 泣いてもいいのだと言ってあげたがったが、それも出来なかった。
 宮殿を出る時も、恐怖に怯えていても。スヴェトラーナは泣かなかった。
 スヴェトラーナはこの旅で泣かないと決意しているのだと思った。
 実際、スヴェトラーナは決意していた。この亡命が成功するまで決して泣かないと。
 だからと言って簡単に心を扱えるわけじゃなかった。
 本当は泣き出したかった。叫んで悲しみたかった。
 そんな自分を律するために、スヴェトラーナはこの国のために死んでいったひとを思った。リサを思った。自分のために死んでいった兵士を思った。
 彼らを大切に思っていたひとはいたはずだ。
 自分は公家の娘として、彼らの犠牲とまわりの悲しみの上に命を長らえている。命にしがみついている。
 自分の悲しみを嘆く権利はないのだ。
 父の死が尊厳を持ったものであるようにとだけ願い、自分の悲しみを押しやり堪えた。
 ルカの握った手が、スヴェトラーナを堪えさせてくれた。
 冷えた手が握り合い、救うように暖かくなって包まれる。

「動揺して……ごめんなさい」

 ルカの手を握り返して、スヴェトラーナが言った。
 国を失ったことより、スヴェトラーナの姿にルカは泣きたくなった。

「いいんです。俺にそんなこと、言わないでください」

 無言のまま、ふたりは手を握り合った。

 疲れた身体と心を癒すものはここには何もない。
 せめて休ませようと、ルカはマントの上にスヴェトラーナを横たわらせ包んだ。
 スヴェトラーナは鞄を枕にして小さく身体を丸める。
 この数日寝むれず疲れ切っていたがそれでも寝付けなかった。
 ルカはその背中側に膝を立て剣を抱えて座っていた。
 少しでもスヴェトラーナが眠れるといいと思ったが、ウトウトしたかと思うと身体がビクリと動く。
 身体は疲れて眠りたいのに、頭の中に過る悲しみがスヴェトラーナを休ませないのだ。
 スヴェトラーナは黙って横になったままルカがそれに気付かないといいと思ったが、起きていたルカにはすべて見られていた。



 まだ夜が明けきらない頃、ルカが動き出した気配に気が付きスヴェトラーナも身体を起こした。
 スヴェトラーナの顔には疲れが出ていた。
 横になってもほとんど眠れず目の下は隈で黒くなり、山を歩いたせいで薄汚れてもいる。

「おはようございます」
「おはよう」

 ルカは挨拶以外はなにも言わずカップに入った水を差し出した。
 スヴェトラーナも黙って受け取り口を付けた。
 布の上にちぎったパンが出され、これが朝食のようだった。
 ルカは水を飲むだけでパンを食べなかったが、スヴェトラーナは黙って食べた。
 わかっている。ルカは自分のために食べないのだと。
 しかしまたスヴェトラーナが同じように扱って欲しいと言えば前に話した時と同じ答えが返ってくるのもわかっていたし、実際自分の体力を持たせ少しでもルカを煩わせずに動けるようになるには食べなくてはならない。
 正直に言えば食欲もなかったが、自分の為だけではなくルカの為に黙って食べた。

「姫様。ありがとうございます」
「……なにがですか?」
「俺に気遣ってくれて」
「なにをですか?」
「パンを、食ってくれて……」

 ルカにはスヴェトラーナが自分のために無理して食べてくれていることがわかっていた。
 国を失い父を失い、疲れ切った心と身体であの硬いパンを食べることは簡単ではなかっただろう。
 それでも今日も歩くために、ルカを煩わせないために黙って飲み込んだのだとわかっていた。
 それが嬉しくてつい礼を言ってしまったが実際そうだとスヴェトラーナが言ったわけではないので、ルカは余計なことを言ってしまったと俯いた。

「私こそ、ありがとう……」

 もう国もないここに捨てられても文句の言えないこの状況で、ルカは忠誠を誓いそれを捨てずにスヴェトラーナをレイルズへ連れて行くと言い、心中を察しスヴェトラーナ自身の為でもある行いに感謝すらしてくれるのだ。
 スヴェトラーナはコルセットの中に仕舞っていた巾着袋を引き出した。
 胸の中には二つの袋が入れてあった。
 ひとつには宝石が、ひとつには金貨が入っていた。
 宝石の入った袋を広げるとダイヤやエメラルド、ルビーやサファイアの指輪やペンダントヘッド、ブローチが入っている。
 どれも高価な品だ。高価なものを選んで持ってきたのだ。
 スカートの上にそれを開け、ルカに渡そうと思った。これくらいしか今のスヴェトラーナに出来ることはないと思ったからだ。
 それに気が付いたルカは無言でスカートの上に出された宝石を拾った。
 スヴェトラーナの手に持たれていた袋を優しく取り仕舞って行く。
 仕草は優しいままだが、ルカは口を引き結び眉を顰めていた。
 スヴェトラーナは戸惑った。なにがルカにそんな顔をさせたのかわからなかった。

「……こんなもの、仕舞ってください」

 全てを袋に入れると、それをスヴェトラーナの手に強く握らせた。

「これをあなたに。これくらいしか私は……」
「わかって下さい。お願いです……」

 ルカはスヴェトラーナの目を見ず俯いて、座った膝に置かれた両手は拳を強く握っていた。

「昨日話しましたよね。姫様ただひとりに忠誠を誓ったしもべだと。どんなことがあってもお守りすると。俺にこんなことしないでください。だた、信じてもらう事は、出来ませんか……?」

 スヴェトラーナにもルカの本物の忠心はわかっている。
 だからこそあげたかったのだが、ルカの心を金に換算しようとしたと思われたのだろうかと怯んだ。
 しかしどんな家臣でも報酬は受け取る。

「あの時のルカだとわかった今は疑いもしません。ですがあなたにも報酬は必要です」
「それなら、レイルズに無事に到着しこの旅が終わったら……その時に褒美をください」

 スヴェトラーナは今にもルカが泣きだしてしまいそうに見えた。
 自分はそんなにルカを傷つけることをしたのだろうか?
 信じていないと思ってしまっているのだろうか。

「あの……」
「すみません。本当にすみません……」

 スヴェトラーナは手を伸ばしルカの肩に触れた。

 ルカは自分を責めていた。
 自分より五歳も年下のか弱い女性に、今ルカの知る限りで一番辛く悲しい思いをしている女性に。
 忠誠を誓う主人である女性に感情を押し付けてしまった。
 過去に一度だけしか逢ったことがなく、昨日から急にふたりきりで旅することになっただけでどうしてそこまで信じてもらえると思い込んでしまったのか。
 勝手に忠誠を信じろと押し付けているだけだ。
 それなのに信じてもらえないと良くない態度を取った。
 こんな状況を必死にたえているひとに。




 スヴェトラーナにとっては予想もしていなかった再会だったに違いない。
 しかしルカにとっては違っていた。

 ルカは自尊心の低い男だ。
 実家はモルチャノフ辺境伯の領地内で一番小さく貧しかった。
 辺境伯から私設兵の募集があり、家では殆ど口を聞いてくれなかった父親に十三歳の時に入れられた。
 年上の先輩たちには『領主様のご機嫌取りにお前は入れられた』と言われた。実際に父親に聞いたわけではなかったから真意はわからない。
 真意を聞くことなく私設軍に入れられて暫く、父親が流行り病で亡くなった。
 そのことを知ったのは死んでから随分経ってからで、知らせも来ず誰も教えてくれなかった。
 母親は領地を出て行き、ルカの存在は居なかったもののように忘れられていたのだ。
 まだ幼く小さかったルカは隊でいじめられた。理由もなく殴られ蹴られ、使い走りをしながら働いた。
 ありがたいことに剣術と読み書きだけはしっかり教えてもらえたので、一生懸命勉強し鍛錬した。
 頑張った成果と元々の才能もあったのかもしれない、十六歳の時には小さかった身長も伸び練習試合で隊の誰にも負けないようになった。
 しかしそうなると使い走りのルカが生意気だと陰口をたたかれ、友人どころかルカには話しかける者もいなかった。
 育った環境から大人しく無口だったのも、打ち解けられない原因だったかもしれない。
 その後第三旅団の隊長が辺境伯の屋敷に寄った際に、私設兵の訓練を見学してルカの腕に感心し旅団に誘った。
 辺境伯の隊に愛着もなにもなかったルカは旅団に付いて行くことにした。
 旅団でもルカの腕は一線を画していたが、まだ若く無口なルカはなかなか溶け込めずほとんどを黙って訓練や仕事をして過ごした。
 身分だけじゃなく生活も扱いも底辺で育ち、立ち回りも上手くないルカは自分をなにも持たない者だと思っていた。
 自分のような者が特別な何かを持てるとも、誰かの特別になれるとも思っていなかった。

 剣術大会で初めてスヴェトラーナと出会った時、ルカにとってはあまりにも遠い存在の公女に話しかけられて緊張した。
 なんとも無邪気にかわいらしく『勝って欲しい』と願いに来たのだ。
 予選を一番で通過したので対戦相手がヴィクトールだと解っていた。
 モルチャノフ辺境伯の私設兵から始めた田舎剣術では選りすぐりの中で最強の地位に立つヴィクトールに勝てるはずはないと諦めていたが、輝くグリーンの瞳で真っ直ぐルカを見つめて頼むまだ幼さの残る公女にそんな理由は説明出来なかった。
 戸惑うのと同時に、この可愛らしい公女を喜ばせたくなった。
 自分が勝ったらこの公女を更に輝く笑顔にしてあげられるのではないかと、してあげたいと思ってしまった。
 この公女の願いを叶えるために勝ちたいと強く想った。
 振り返っても鍛錬だけは誰よりもしていたが、心から誰かに勝ちたいなどということを考えたのはこの時が初めてだった。
 勝利の女神になってほしいと言うと、額にキスをしてくれた。
 本物の勝利の女神だったのか、ルカの考えた作戦でヴィクトールに勝てた。
 近衛兵団に入れば旅団に比べて責任はあるが暮らしも仕事も楽だ。屋根のあるところで寝られる。
 あのかわいらしい勝利の女神がくれたものだと喜んだが、公国軍総司令から身元身分のはっきりしないものは近衛兵団に入れられないと言われた。
 身分は元々ない。ルカの身元を保証してくれる人物も誰もいない。
 なにも持たない者なのだから仕方がないと諦めかけたが、ヴィクトールが自分に勝ったルカを入団させるために説得し、平民出身者もいる警備騎馬隊に入れることになった。
 もちろん旅団よりも仕事は楽で金も良かった。屋根のあるところで寝られもする。
 なによりルカにとってよかったのは、あのかわいらしい公女の近くで働けることだった。

 宮殿内の警備が仕事なのですれ違うくらいはあると思っていたのだったが、その機会はあまりなかった。
 配置されたのは門の外の警備だったし、二年前にコースリーとの戦争が始まってからは兵糧を運ぶ部隊の護衛についていたからだ。
 それでも運よく姿を見ることは何度かあった。
 かわいらしかった公女が少しずつ背が伸び女性らしくなっていくのを離れたところから見かける度に、微笑ましく胸を暖かい気持ちにさせた。
 なにも持たないルカが唯一持った忠誠を誓う主で、ルカのことを『ただひとりの英雄』と呼んでくれたスヴェトラーナにルカは拘った。
 自分の存在証明のように思えたのかもしれない。
 いつの間にかスヴェトラーナはルカにとって生きるための光のような存在になった。

 戦火が首都まで迫ってきて、ルカの気がかりは大公よりも国よりもスヴェトラーナだった。
 仕事中でも眠るときも、万が一の時にスヴェトラーナを宮殿から脱出させる方法を考え続けていた。
 そんな時にヴィクトールに呼ばれスヴェトラーナを亡命させる手伝いをして欲しいと言われた。
 なぜ自分がそれに選ばれたのかを聞くと、ルカがスヴェトラーナのために戦ったことがあり勝利を贈った男だからだと言われた。
 ルカはスヴェトラーナをどんなことがあっても守ると誓った。
 スヴェトラーナと宮殿を出るために隠し通路を進みながら、か細く小さな身体から緊張と恐れが見えた。
 しかしそれを必死に抑え込み気丈に進むスヴェトラーナが健気で苦しくなった。
 暗闇のなかで耐え忍ぶ姿、侍女たちの死を自分が決めたと言いながら傷つく姿を見てそんな風に抱え込まなくていいと。怯えていいと言いたかった。
 信じて頼って欲しい。痛みは自分に押し付けて欲しいと思った。
 たった一言貰っただけで主と決め一方的に神聖化し光の存在にしていただけなのだから、スヴェトラーナにそんなルカの気持ちを押し付けるのは違う。
 なのに、認められたいと無意識に思っていたのかもしれない。
 こんなにも従順で忠実な僕であると、信じられたい気持ちが走ってしまった。
 物で与えられる褒美ではなくただ信じてもらう事こそが欲しいのだと、気持ちを押し付けてしまった。

 気持ちを無下にしてしまった。
 ただ俺にあげたかっただけかもしれないのに。
 大切な物を失い続けている状況で、こんなにも健気に耐えているひとに。



「レイルズに無事に到着しこの旅が終わったら、必ずあなたの欲しいものを教えてください。あなたをただ信じます。だから私があなたを信じている気持ちも、信じてください」
「ありがとうございます……」

 ルカはスヴェトラーナが眩しくて真っ直ぐ見返せなかった。
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