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グレタゴの街はキヌルに比べると残っている人も多少はいるようだった。
コースリーの大群が通り過ぎて行ったこともあって外にはほとんど出ておらす、いつまたこの街に来るかもわからないので鎧戸を閉め家に籠っているようだ。
スヴェトラーナとルカは街を脱出する平民のふりをしてグレタゴの街を抜けた。
この街で宿を取れないかともルカは考えていたが、店はひとつも開いていない。
スヴェトラーナに確認するとまだ歩けると強がりではあったが言ったので、ルカは農村の方まで進み民家の馬小屋でも借りて屋根のあるところで靴を脱いで寝かせてあげられるようにしたいと思い進んだ。
ルカは途中何度か取った休憩の度にスヴェトラーナの気持ちを和らげてあげられるようなことは出来ないかと頭を働かせたが、洒落たジョークのひとつも知らないルカには難しかった。
ルカの気使いが伝わっていたスヴェトラーナは胸の中にある悲しみを押さえつけ、ルカが自分を見る度に微笑んで見せた。
ルカにはもちろん、それが無理してくれている物だとわかっていた。
陽が沈み始めた頃、ぽつぽつと見える農村のなかに煙の登る家を見つけた。
火のある家なら熱い湯も貰えるかもしれない。
目立つ場所は危険かもしれないが、家人を見て判断しようと決めた。
「姫様の身分を隠しますので、申し訳ありませんが俺の妹ということにさせてください」
「わかりました」
この状況で大公の娘が民にどのように想われているのかは微妙だ。
戦争で家族や知り合いが被害を受けている可能性もあることを考えると、身分を明かすのは得策じゃない。
スヴェトラーナを脇に置き、ルカは民家のドアを叩いた。
すぐには開かない。窺っている気配がする。
「すみません。旅のものなのですが、裏にある馬小屋で休ませてもらえませんでしょうか?」
ルカが声をかけると中で動く気配がしてからドアが開いた。
「妹とキヌルから逃げて来たんです。裏の馬小屋を一晩貸していただけませんか?」
出てきた腰の曲がった小さな老婆はルカを見上げてからルカの言う妹の姿を探した。
ルカがスヴェトラーナの肩に手を伸ばし老婆に姿を見せると、老婆の眉が下がった。
マントのフードをすっぽりかぶっていても疲れている様子が見て取れたのだ。
「入りな入りな。怖い思いしてきたんだね。あたししかいないしね、安心して休んでいきなよ」
皺のある顔を更にしわくちゃにして、老婆はふたりを招き入れた。
中は暖炉に火が灯り、美味そうな匂いも充満している。
「火を点けていて大丈夫ですか?」
煙が出ているのは近所ではこの家だけだ。コースリー軍が通ったら万が一にも立ち寄らないとは限らないと思った。
ルカが聞くと老婆はニコニコしながらサラリと答えた。
「コースリーのヤロウ等が強奪に来るかもしれないのが怖いかい? 大丈夫だよ、昨日の夜うちにも来たけどねー、こんなばばあしかいない取ってくものも何もない家だからね、がっかりして出て行ったよ。食料も隠してあったからねー。床下に隠してたくらいで気が付かないなんてあいつらマヌケだわ。また来てもこのスープだけ飲ましてやりゃさっさと出て行くだろうよ。安心しなー」
胆の据わった老婆だった。
ルカはほっとし、暖炉の前にある椅子に座っていいかを確認してからスヴェトラーナを座らせた。
「心配しなくていいよ妹さんも。もしコースリーのヤロウ等が来たら、ベッドの下にでも隠れてりゃ、あたしが追っ払ってやるから」
気風もいい老婆だった。
スヴェトラーナが頷くとニコニコと微笑んで、ありがたいことに暖炉にかかっている鍋からスープを取り分けスヴェトラーナに渡した。
スヴェトラーナは手に感じる久しぶりの暖かさに思わずため息が出た。心からありがたいと思った。
それを見てルカも近くの椅子を借りて座り、老婆が取り分けたスープを一口すすった。
凍えるほど寒かったわけではないが、身体の芯が解ける感覚があった。
「どこまで行く気なんだい?」
老婆はスープを暖炉から下ろすと大きなやかんに水を入れ暖炉に掛けた。
「ノノの方はまだマシなんじゃないかと思って、そっちに行ってみようかと思ってるんです」
ルカはレイルズの国境近くにある、実際に目指している都市を言った。
「ノノかい。こないだキヌルから逃げて来たってここに立ち寄った人は国を出てレイルズに行くって言ってたよ。もうキヌルは住んでいられない、コースリー軍が押し寄せてるって」
「ああ、酷いもんですよ。もう住民のほとんどは逃げているでしょうね」
ルカは老人に話を合わせた。
「大公様はどうしてるかね。もう死んじまったかね」
スヴェトラーナが公女だと知らない老婆は椅子に座りながら聞いてきた。
一番して欲しくない質問だった。
老婆に悪意はない。この国の人間なら大公がどうなったか気になるのは当たり前だ。
しかしスヴェトラーナにはこの話ほどきついものはない。
落ち着きそうになってしまったが、早々に馬小屋に移動した方がよさそうだとルカは思った。
スヴェトラーナは態度に出ないようにゆっくりとスープを飲んで何でもないふりをした。
父親の生死に関わる話にギクリと身体が固まりそうになったことを悟られないよう堪えた。
「どうでしょうね」
「ご家族もどうしてるかねー。逃げてりゃいいけど、お気の毒だよ。コースリーのヤロウ等のせいで酷い目にあってなかったらいいけどね」
ルカはスープを飲み干し立ち上がった。
「ごちそう様でした。あったかくて美味しくてホッとしました。妹も疲れていますので休ませてやりたいんです、馬小屋を一晩お借りします」
それを合図だと感じたスヴェトラーナは急いでスープを飲もうとしたが、老婆がルカを睨みつけた。
「疲れてるんだろ。だったらゆっくり飲ませてやんな。かわいそうに。今日は上の部屋貸してやるからそこに泊まったらいいよ。今お湯も沸かしてるから身体も拭いてゆっくりしな」
ゆっくりさせてやるべきなのはルカにだって痛いほどわかっている。そうしてやりたいのは誰よりもルカが思っている。
老婆の申し出は心から感謝して受け取りたいが、老婆の率直な物言いがスヴェトラーナに痛みを与えているのではないかと思った。
この話が続くのを堪えさせたくない。
「おばあさんありがとうございます」
逡巡するルカを落ち着かせるようにスヴェトラーナが礼を言った。
ルカの心中を察して自分は大丈夫だと伝えてきたのだ。
自分の立ちまわりの悪さにルカは情けなくなった。
「マントも靴も脱ぎな。まったく兄ちゃんのほうはビビリだね。すぐ逃げられる格好しときたいんだろうけど、コースリーのヤロウ等が来たら隠してやるから安心しな」
マントを脱いでスヴェトラーナの顔を見たら老婆は気が付くだろうか。スヴェトラーナが公女だと気が付いたらどうなるだろうか。
押し切るしかない。もし気が付いても公女ではないと押し切ろう。
胸の痛みに堪えるスヴェトラーナにせめて身体だけでも休ませる方を選ぶべきだ。
賭けになるかもしれなかったが、ルカは決めた。
言い方からコースリーのことを相当嫌っているように見えるし、ここで逡巡する方が怪しい。
「マントを貸して」
ルカはマスケット銃を包みながらマントを脱いでスヴェトラーナに手を伸ばして言った。
剣も銃も見せるのは怪しまれるかもしれないと思い銃だけでもと隠したのだ。
手を伸ばされたスヴェトラーナはルカを見上げた。
ルカが頷いて見せると、心を決めゆっくりとマントを取りルカに渡した。
汚れてはいるが、品のある美しい顔が出てきて老婆は目を細めた。
「なんだい、美形兄妹だねー。こんだけべっぴんさんだったら兄ちゃんも不安だったろう。コースリーのヤロウ等に何されるか分かったもんじゃないからね」
言いながら暖炉の横において温めてあったポットから茶を注ぎスヴェトラーナに渡し頭を撫でた。
スヴェトラーナが公女だと気付いてないようだ。ルカは安堵に小さくため息を吐いた。
スヴェトラーナはバレなかった安堵と共に、老婆の手の優しさに胸がじんわりと暖かくなった。
ルカは心の中でスヴェトラーナにぬくもりをくれた老婆に礼を言った。
ありがたいことにその後スヴェトラーナに聞かせたくないような話は出て来ず、老婆の亡くなった夫や嫁いで行った娘の話題にルカは再び安堵した。
嫁に行った娘が使っていたという屋根裏部屋を貸してもらえるだけでなく、老婆はスヴェトラーナに清潔な下着と寝間着まで用意してくれた。
バケツに湯を入れて渡され、ひとりの部屋で身体を拭いた。
少し前まで当たり前のように風呂に入り清潔でいられたことがはるか遠くに感じる。
身体を拭くことが出来るだけでこんなにも気持ちがいいものなのかと実感していた。
清潔な下着に着替え寝間着を着てから髪を拭いていると、小さなノックがドアから聞こえた。
「はい」
「入っても大丈夫ですか?」
ルカだった。
大丈夫だと告げると荷物と毛布、大きなバケツを持ったルカが入ってくる。
ベッドに腰を掛けていたスヴェトラーナの前にバケツを置き、毛布と荷物を下ろしてから目の前にしゃがむ。
「湯を貰ってきました。この中に足を入れてください。ブーツを脱ぐのも三日ぶりですから相当疲れているでしょう。湯につけると少しは楽になります」
言われた通りにしようと足を上げると、ルカの手が触り湯の中にスヴェトラーナの足を誘導した。
ドキリとした。
男性に素足を触られたのは初めてなのだ。
大きな手がスヴェトラーナの小さな足を大事そうにゆっくりとバケツの湯の中に沈める。
コートを脱いでシャツだけのルカは今まで隠れていた首と鎖骨が出て男らしさを見せていた。捲った袖から伸びている腕も逞しかった。
「熱くないですか?」
見上げるルカの優しい笑みに、スヴェトラーナの胸は更に鳴った。
ルカも身体や髪を拭いてすっきりし汚れと共に険しさも取れ、朴訥とした人柄を表す穏やかな顔にあるグレーの瞳がスヴェトラーナを愛しそうに見たように感じたのだ。
口を引き結ぶスヴェトラーナを見て、無自覚で女性の素足を触ってしまっていることに気付いたルカは急いで離し手を後ろに隠した。
「すみません! あの……変な意図はなく……」
気持ちよくさせてあげたいと思ってしたことだが、触るのは失礼なことだ。
ルカは焦って謝り、やらしい気持ちでしたことではないと説明しようとした。
「大丈夫です。本当です。大丈夫です」
スヴェトラーナも焦ってしまった。
ルカに意図などあるはずがないのはわかっているのに、おかしな反応をしてしまった。
ただ急にひとりの男性として意識してしまった事と、愛しそうに見られているように思ってしまった事が恥ずかしくなってしまった。
お互い気まずさで黙ってしまい動かないまま沈黙が続いた。
恥ずかしさに黙ったまま暫く俯いていると、スヴェトラーナの身体がホカホカとしてきた。
足を熱い湯に入れていたので身体全体が温まってきたのだ。
「本当に、気持ちがいいです」
「よかった。足湯は寝つきも良くなりますし、今日はぐっすり休んでください」
ルカは俯いたままで言った。
スヴェトラーナも俯いたままで頷いた。
「それと、姫様にはこのベッドで寝ていただくのですが、兄弟という設定なので……。あの……せっかくゆっくり部屋で休めるチャンスなんですが、俺もこの部屋にいさせてもらえますか」
遠慮がちに言うルカにスヴェトラーナは顔を上げた。
「当たり前です。そんなことを断わる必要はありません」
「はい……」
ルカが疲れていないはずない。むしろスヴェトラーナよりも食事を取らず寝ていないはずだ。
ルカが自分のために神経をすり減らし警戒し、更に気使いまでしているのにこんなことまで気にすることに切なくなった。
ルカがスヴェトラーナに休んでもらいたいと思うように、スヴェトラーナもルカに休んでもらいたい。
ベッドを使いたいなら譲ることだって出来る。
せっかく休めるのだからひとりがいいなどとは思わないと信じて欲しい。
「あなたにも、ちゃんと休んでもらいたいと思っています」
「ありがとうございます」
スヴェトラーナの思いは通じている。ルカはスヴェトラーナがそんなこと思わないとわかっている。
ただルカの休ませてあげたいと思う気持ちの方が強いだけだ。
久しぶりに暖かいものを食べ、足を湯に入れたことで温まった身体に睡魔が襲う。
眠ろうとしても色々なことが頭に浮かび寝付けなかった。地面も硬くて痛かった。
宮殿の自室ではないが、やっと柔らかいベッドに横たえることが出来る安心感が、複雑な感情も痛い身体も遠くへ追いやり瞼を重くした。
張りつめ続けた神経がもう限界だったのだ。
スヴェトラーナの眠気に気付き、ルカは一瞬躊躇をしたがスヴェトラーナに声をかけた。
「姫様、足を触ります」
遠のく意識の中でスヴェトラーナは自分が頷いたかもわからなかった。
実際には崩れそうになった身体をルカが咄嗟に腕で受け止め、身体をベッドに降ろした。
バケツに浸かった足を一本ずつ出して拭き、身体ごと抱き上げてベッドの中央へ横たわらせる。
ルカは思っていたよりもずっとスヴェトラーナが軽いことに驚いた。
馬車から馬へ乗り移るときに一瞬スヴェトラーナの身体を抱きかかえたが、あの時は必死で気付かなかった。
こんなか細い身体で文句のひとつも言わず歩いてくれたことに胸が苦しくなった。
毛布を掛けてスヴェトラーナを見下ろしてから、ルカはビクリと身体を固めた。
今何をしようとした?
無意識だった。スヴェトラーナの頬を撫でようとしてしまった。
健気なスヴェトラーナを愛しく思ってしまった。
自分はそんな風にスヴェトラーナを思って言い身分ではないのに。
ルカは急いで毛布を身体に巻き、スヴェトラーナの寝るベッドに背をもたれて剣を抱えて座った。
浅ましい。何をやっているんだ俺は。
自分の光だと思っていたひとが近くにいて、自分を信じてくれて安心して眠る姿に無意識に感情が込み上げてしまった。
こんな感情は間違っている。身分を弁えず調子に乗って眠っているスヴェトラーナの頬に触ろうとまでしてしまうなんて最低だ。
自分の役目を思い出せ。
役目を果たしたら、必要のない存在だと忘れるな。
ルカは自分を心の中で叱咤し、膝を強く抱えた。
コースリーの大群が通り過ぎて行ったこともあって外にはほとんど出ておらす、いつまたこの街に来るかもわからないので鎧戸を閉め家に籠っているようだ。
スヴェトラーナとルカは街を脱出する平民のふりをしてグレタゴの街を抜けた。
この街で宿を取れないかともルカは考えていたが、店はひとつも開いていない。
スヴェトラーナに確認するとまだ歩けると強がりではあったが言ったので、ルカは農村の方まで進み民家の馬小屋でも借りて屋根のあるところで靴を脱いで寝かせてあげられるようにしたいと思い進んだ。
ルカは途中何度か取った休憩の度にスヴェトラーナの気持ちを和らげてあげられるようなことは出来ないかと頭を働かせたが、洒落たジョークのひとつも知らないルカには難しかった。
ルカの気使いが伝わっていたスヴェトラーナは胸の中にある悲しみを押さえつけ、ルカが自分を見る度に微笑んで見せた。
ルカにはもちろん、それが無理してくれている物だとわかっていた。
陽が沈み始めた頃、ぽつぽつと見える農村のなかに煙の登る家を見つけた。
火のある家なら熱い湯も貰えるかもしれない。
目立つ場所は危険かもしれないが、家人を見て判断しようと決めた。
「姫様の身分を隠しますので、申し訳ありませんが俺の妹ということにさせてください」
「わかりました」
この状況で大公の娘が民にどのように想われているのかは微妙だ。
戦争で家族や知り合いが被害を受けている可能性もあることを考えると、身分を明かすのは得策じゃない。
スヴェトラーナを脇に置き、ルカは民家のドアを叩いた。
すぐには開かない。窺っている気配がする。
「すみません。旅のものなのですが、裏にある馬小屋で休ませてもらえませんでしょうか?」
ルカが声をかけると中で動く気配がしてからドアが開いた。
「妹とキヌルから逃げて来たんです。裏の馬小屋を一晩貸していただけませんか?」
出てきた腰の曲がった小さな老婆はルカを見上げてからルカの言う妹の姿を探した。
ルカがスヴェトラーナの肩に手を伸ばし老婆に姿を見せると、老婆の眉が下がった。
マントのフードをすっぽりかぶっていても疲れている様子が見て取れたのだ。
「入りな入りな。怖い思いしてきたんだね。あたししかいないしね、安心して休んでいきなよ」
皺のある顔を更にしわくちゃにして、老婆はふたりを招き入れた。
中は暖炉に火が灯り、美味そうな匂いも充満している。
「火を点けていて大丈夫ですか?」
煙が出ているのは近所ではこの家だけだ。コースリー軍が通ったら万が一にも立ち寄らないとは限らないと思った。
ルカが聞くと老婆はニコニコしながらサラリと答えた。
「コースリーのヤロウ等が強奪に来るかもしれないのが怖いかい? 大丈夫だよ、昨日の夜うちにも来たけどねー、こんなばばあしかいない取ってくものも何もない家だからね、がっかりして出て行ったよ。食料も隠してあったからねー。床下に隠してたくらいで気が付かないなんてあいつらマヌケだわ。また来てもこのスープだけ飲ましてやりゃさっさと出て行くだろうよ。安心しなー」
胆の据わった老婆だった。
ルカはほっとし、暖炉の前にある椅子に座っていいかを確認してからスヴェトラーナを座らせた。
「心配しなくていいよ妹さんも。もしコースリーのヤロウ等が来たら、ベッドの下にでも隠れてりゃ、あたしが追っ払ってやるから」
気風もいい老婆だった。
スヴェトラーナが頷くとニコニコと微笑んで、ありがたいことに暖炉にかかっている鍋からスープを取り分けスヴェトラーナに渡した。
スヴェトラーナは手に感じる久しぶりの暖かさに思わずため息が出た。心からありがたいと思った。
それを見てルカも近くの椅子を借りて座り、老婆が取り分けたスープを一口すすった。
凍えるほど寒かったわけではないが、身体の芯が解ける感覚があった。
「どこまで行く気なんだい?」
老婆はスープを暖炉から下ろすと大きなやかんに水を入れ暖炉に掛けた。
「ノノの方はまだマシなんじゃないかと思って、そっちに行ってみようかと思ってるんです」
ルカはレイルズの国境近くにある、実際に目指している都市を言った。
「ノノかい。こないだキヌルから逃げて来たってここに立ち寄った人は国を出てレイルズに行くって言ってたよ。もうキヌルは住んでいられない、コースリー軍が押し寄せてるって」
「ああ、酷いもんですよ。もう住民のほとんどは逃げているでしょうね」
ルカは老人に話を合わせた。
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スヴェトラーナが公女だと知らない老婆は椅子に座りながら聞いてきた。
一番して欲しくない質問だった。
老婆に悪意はない。この国の人間なら大公がどうなったか気になるのは当たり前だ。
しかしスヴェトラーナにはこの話ほどきついものはない。
落ち着きそうになってしまったが、早々に馬小屋に移動した方がよさそうだとルカは思った。
スヴェトラーナは態度に出ないようにゆっくりとスープを飲んで何でもないふりをした。
父親の生死に関わる話にギクリと身体が固まりそうになったことを悟られないよう堪えた。
「どうでしょうね」
「ご家族もどうしてるかねー。逃げてりゃいいけど、お気の毒だよ。コースリーのヤロウ等のせいで酷い目にあってなかったらいいけどね」
ルカはスープを飲み干し立ち上がった。
「ごちそう様でした。あったかくて美味しくてホッとしました。妹も疲れていますので休ませてやりたいんです、馬小屋を一晩お借りします」
それを合図だと感じたスヴェトラーナは急いでスープを飲もうとしたが、老婆がルカを睨みつけた。
「疲れてるんだろ。だったらゆっくり飲ませてやんな。かわいそうに。今日は上の部屋貸してやるからそこに泊まったらいいよ。今お湯も沸かしてるから身体も拭いてゆっくりしな」
ゆっくりさせてやるべきなのはルカにだって痛いほどわかっている。そうしてやりたいのは誰よりもルカが思っている。
老婆の申し出は心から感謝して受け取りたいが、老婆の率直な物言いがスヴェトラーナに痛みを与えているのではないかと思った。
この話が続くのを堪えさせたくない。
「おばあさんありがとうございます」
逡巡するルカを落ち着かせるようにスヴェトラーナが礼を言った。
ルカの心中を察して自分は大丈夫だと伝えてきたのだ。
自分の立ちまわりの悪さにルカは情けなくなった。
「マントも靴も脱ぎな。まったく兄ちゃんのほうはビビリだね。すぐ逃げられる格好しときたいんだろうけど、コースリーのヤロウ等が来たら隠してやるから安心しな」
マントを脱いでスヴェトラーナの顔を見たら老婆は気が付くだろうか。スヴェトラーナが公女だと気が付いたらどうなるだろうか。
押し切るしかない。もし気が付いても公女ではないと押し切ろう。
胸の痛みに堪えるスヴェトラーナにせめて身体だけでも休ませる方を選ぶべきだ。
賭けになるかもしれなかったが、ルカは決めた。
言い方からコースリーのことを相当嫌っているように見えるし、ここで逡巡する方が怪しい。
「マントを貸して」
ルカはマスケット銃を包みながらマントを脱いでスヴェトラーナに手を伸ばして言った。
剣も銃も見せるのは怪しまれるかもしれないと思い銃だけでもと隠したのだ。
手を伸ばされたスヴェトラーナはルカを見上げた。
ルカが頷いて見せると、心を決めゆっくりとマントを取りルカに渡した。
汚れてはいるが、品のある美しい顔が出てきて老婆は目を細めた。
「なんだい、美形兄妹だねー。こんだけべっぴんさんだったら兄ちゃんも不安だったろう。コースリーのヤロウ等に何されるか分かったもんじゃないからね」
言いながら暖炉の横において温めてあったポットから茶を注ぎスヴェトラーナに渡し頭を撫でた。
スヴェトラーナが公女だと気付いてないようだ。ルカは安堵に小さくため息を吐いた。
スヴェトラーナはバレなかった安堵と共に、老婆の手の優しさに胸がじんわりと暖かくなった。
ルカは心の中でスヴェトラーナにぬくもりをくれた老婆に礼を言った。
ありがたいことにその後スヴェトラーナに聞かせたくないような話は出て来ず、老婆の亡くなった夫や嫁いで行った娘の話題にルカは再び安堵した。
嫁に行った娘が使っていたという屋根裏部屋を貸してもらえるだけでなく、老婆はスヴェトラーナに清潔な下着と寝間着まで用意してくれた。
バケツに湯を入れて渡され、ひとりの部屋で身体を拭いた。
少し前まで当たり前のように風呂に入り清潔でいられたことがはるか遠くに感じる。
身体を拭くことが出来るだけでこんなにも気持ちがいいものなのかと実感していた。
清潔な下着に着替え寝間着を着てから髪を拭いていると、小さなノックがドアから聞こえた。
「はい」
「入っても大丈夫ですか?」
ルカだった。
大丈夫だと告げると荷物と毛布、大きなバケツを持ったルカが入ってくる。
ベッドに腰を掛けていたスヴェトラーナの前にバケツを置き、毛布と荷物を下ろしてから目の前にしゃがむ。
「湯を貰ってきました。この中に足を入れてください。ブーツを脱ぐのも三日ぶりですから相当疲れているでしょう。湯につけると少しは楽になります」
言われた通りにしようと足を上げると、ルカの手が触り湯の中にスヴェトラーナの足を誘導した。
ドキリとした。
男性に素足を触られたのは初めてなのだ。
大きな手がスヴェトラーナの小さな足を大事そうにゆっくりとバケツの湯の中に沈める。
コートを脱いでシャツだけのルカは今まで隠れていた首と鎖骨が出て男らしさを見せていた。捲った袖から伸びている腕も逞しかった。
「熱くないですか?」
見上げるルカの優しい笑みに、スヴェトラーナの胸は更に鳴った。
ルカも身体や髪を拭いてすっきりし汚れと共に険しさも取れ、朴訥とした人柄を表す穏やかな顔にあるグレーの瞳がスヴェトラーナを愛しそうに見たように感じたのだ。
口を引き結ぶスヴェトラーナを見て、無自覚で女性の素足を触ってしまっていることに気付いたルカは急いで離し手を後ろに隠した。
「すみません! あの……変な意図はなく……」
気持ちよくさせてあげたいと思ってしたことだが、触るのは失礼なことだ。
ルカは焦って謝り、やらしい気持ちでしたことではないと説明しようとした。
「大丈夫です。本当です。大丈夫です」
スヴェトラーナも焦ってしまった。
ルカに意図などあるはずがないのはわかっているのに、おかしな反応をしてしまった。
ただ急にひとりの男性として意識してしまった事と、愛しそうに見られているように思ってしまった事が恥ずかしくなってしまった。
お互い気まずさで黙ってしまい動かないまま沈黙が続いた。
恥ずかしさに黙ったまま暫く俯いていると、スヴェトラーナの身体がホカホカとしてきた。
足を熱い湯に入れていたので身体全体が温まってきたのだ。
「本当に、気持ちがいいです」
「よかった。足湯は寝つきも良くなりますし、今日はぐっすり休んでください」
ルカは俯いたままで言った。
スヴェトラーナも俯いたままで頷いた。
「それと、姫様にはこのベッドで寝ていただくのですが、兄弟という設定なので……。あの……せっかくゆっくり部屋で休めるチャンスなんですが、俺もこの部屋にいさせてもらえますか」
遠慮がちに言うルカにスヴェトラーナは顔を上げた。
「当たり前です。そんなことを断わる必要はありません」
「はい……」
ルカが疲れていないはずない。むしろスヴェトラーナよりも食事を取らず寝ていないはずだ。
ルカが自分のために神経をすり減らし警戒し、更に気使いまでしているのにこんなことまで気にすることに切なくなった。
ルカがスヴェトラーナに休んでもらいたいと思うように、スヴェトラーナもルカに休んでもらいたい。
ベッドを使いたいなら譲ることだって出来る。
せっかく休めるのだからひとりがいいなどとは思わないと信じて欲しい。
「あなたにも、ちゃんと休んでもらいたいと思っています」
「ありがとうございます」
スヴェトラーナの思いは通じている。ルカはスヴェトラーナがそんなこと思わないとわかっている。
ただルカの休ませてあげたいと思う気持ちの方が強いだけだ。
久しぶりに暖かいものを食べ、足を湯に入れたことで温まった身体に睡魔が襲う。
眠ろうとしても色々なことが頭に浮かび寝付けなかった。地面も硬くて痛かった。
宮殿の自室ではないが、やっと柔らかいベッドに横たえることが出来る安心感が、複雑な感情も痛い身体も遠くへ追いやり瞼を重くした。
張りつめ続けた神経がもう限界だったのだ。
スヴェトラーナの眠気に気付き、ルカは一瞬躊躇をしたがスヴェトラーナに声をかけた。
「姫様、足を触ります」
遠のく意識の中でスヴェトラーナは自分が頷いたかもわからなかった。
実際には崩れそうになった身体をルカが咄嗟に腕で受け止め、身体をベッドに降ろした。
バケツに浸かった足を一本ずつ出して拭き、身体ごと抱き上げてベッドの中央へ横たわらせる。
ルカは思っていたよりもずっとスヴェトラーナが軽いことに驚いた。
馬車から馬へ乗り移るときに一瞬スヴェトラーナの身体を抱きかかえたが、あの時は必死で気付かなかった。
こんなか細い身体で文句のひとつも言わず歩いてくれたことに胸が苦しくなった。
毛布を掛けてスヴェトラーナを見下ろしてから、ルカはビクリと身体を固めた。
今何をしようとした?
無意識だった。スヴェトラーナの頬を撫でようとしてしまった。
健気なスヴェトラーナを愛しく思ってしまった。
自分はそんな風にスヴェトラーナを思って言い身分ではないのに。
ルカは急いで毛布を身体に巻き、スヴェトラーナの寝るベッドに背をもたれて剣を抱えて座った。
浅ましい。何をやっているんだ俺は。
自分の光だと思っていたひとが近くにいて、自分を信じてくれて安心して眠る姿に無意識に感情が込み上げてしまった。
こんな感情は間違っている。身分を弁えず調子に乗って眠っているスヴェトラーナの頬に触ろうとまでしてしまうなんて最低だ。
自分の役目を思い出せ。
役目を果たしたら、必要のない存在だと忘れるな。
ルカは自分を心の中で叱咤し、膝を強く抱えた。
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しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
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そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
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両片思いのすれ違いのお話です。
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※小説家になろう様にも投稿させていただいております。
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