亡国の公女の恋

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 レイルズにスヴェトラーナが到着しイグナシオ侯爵邸で一週間過ごした後、母エカチェリーナと弟ゴルジェイはレイルズの首都に旅立った。
 再びの別れにエカチェリーナもゴルジェイも寂しがったが、国を出た時と状況が違う。
 侯爵邸ではスヴェトラーナがかわいがってもらえることが滞在中の夫妻の態度でわかったし、今生の別れではない。
 新しい生活のための旅立ちなのだ。

「スヴェトラーナ、手紙を書きます。あたなも早く来てくださいね」

 残していくことを諦められないエカチェリーナは手を握りながら早く来て欲しいと何度も口にしたが、スヴェトラーナは黙って握り返した。
 やっとの思いで逢えた母と弟だ、離れることが寂しくないわけはない。
 それでも残ると決めた。
 スヴェトラーナはまた逢える。必ず逢えるからと笑顔で手を振り別れた。


 その翌日からスヴェトラーナの行動は始まった。
 週に二~三回街に出ることにしたのだ。
 本当は毎日でも行きたかったが侯爵夫人が心配するのでこの回数になった。
 本当は歩いて行きたかったが、これも侯爵が心配するので街までは馬車で行くことになった。
 自分はここに居ると。知らしめたいのだ。
 どこでルカが見てくれるかわからないので、家に籠っていることは出来なかった。
 ただひたすらルカだけに存在証明をするためにスヴェトラーナは歩いた。

 半年が過ぎた頃、心配するイグナシオ伯爵からこの街にはいないのだろうと言われたがスヴェトラーナはやめなかった。

 一年が過ぎた頃夫人からお茶会に招待した男性を紹介された。伯爵家の御子息だった。
 スヴェトラーナの境遇に同情し、侯爵夫人から交際の申し入れがあったことを聞いた。
 しかしスヴェトラーナは断り、また歩き続けた。
 その後何度か同じように貴族の男性との出会いを侯爵夫人が用意したが、スヴェトラーナは断り歩き続けた。

 スヴェトラーナを娘の様に思い始めていたイグナシオ侯爵は二年近くも待ち、歩き続けていることがかわいそうで仕方がなかった。

「これだけ待っても彼は現れない。もう忘れてもいい頃だ」

 諦めろとそれとなく、しかし何度も言われた。その度にスヴェトラーナは首を振った。

「ルカが私の愛情と自分の存在価値を信じるには時間が必要なのです。二年ではまったく足りません。こんな短い期間では証明出来ないのです、私がルカを愛しルカだけが欲しいと思っていることを。ルカが自分の勘違いに気付いて私の愛を信じてもらえるまで十年でも二十年でも私は待ちますし歩きます。ルカはきっと私を見つけてくれます。気付いてくれます。信じられる時が来ると、私は信じています」

 二年半が過ぎてもスヴェトラーナは変わらず、当時十八歳だった少女がこれほどの意志と決意でたったひとりの男に人生を捧げようとしていることを侯爵夫婦はやっと信じた。

 三年目になってすっかり大人の女性に成長したスヴェトラーナは変わらず歩き続けていた。
 目を凝らして探しながら。私はここに居て待っている、あなたはそれほどの存在なのだと信じて欲しいと心の中で叫びながら。




 *****




 天気が良くてよかった。
 明るい日差しはルカがスヴェトラーナを見つけやすく、スヴェトラーナもルカを探しやすい。
 いつものように馬車に乗りいつもの場所まで向かっているスヴェトラーナだったが、その窓の景色のなかにそれは突然現れた。
 見逃してしまうような速さで通り過ぎ、見間違えかもしれないくらいに遠かった。
 しかしスヴェトラーナは咄嗟に馬車の壁を叩き従者に叫んだ。

「止まって! 止まってください!」

 いきなりのことに慌てた従者は急いで馬を止め、馬車が後ろにガクンと揺れた。
 その時にはもうドアを開けてしまっていたスヴェトラーナは馬車から乗り出した身体を支えきれず地面に落ちた。
 身体の痛みは感じなかった。
 実際には相当な痛みがあったはずだが、今のスヴェトラーナにとっては重要じゃなかった。
 痛みを感じていられない。落ちたままで辺りを必死で探す。

 間違いなかった。間違えるはずがない。
 どんなに姿を変えようとわかる。
 変わっていないのならわからないはずがない。
 一時だって忘れたことはないのだから。

「ルカ……? ルカ、どこにいるの?」

 確かにルカだった。
 スヴェトラーナには確信があった。
 愛しいひとの姿だった。
 走る馬車をあんな目で見るひとは他にはいない。
 怯えている、傷ついている目だった。
 あれはルカだ。

「スヴェトラーナ様! 大丈夫ですか?」

 従者が飛び降りてスヴェトラーナに駆け寄る。
 しかしスヴェトラーナにはその声も届かない。
 戸惑う従者が背後で様子を窺うが、スヴェトラーナの目は令嬢が馬車から豪快に落ちているのを見ているひとのなかだ。

「ルカ。助けてください。立てません。ルカ、助けてください……」

 スヴェトラーナはひとの中へ訴える。

 出てきて、姿を見せて。
 お願いだから、側に来て。

「ルカ! 助けてください! 私を助けてください! ルカ!」

 叫んだ。
 スヴェトラーナは必死で叫んだ。
 何年だって待つと決めていたが、ルカがここに居てその姿を見てしまったら我慢は出来ない。
 もう一度姿を見せて欲しい。感じさせて欲しい。
 怯えなくていいと、傷つかなくていいと伝えたい。
 この声で、言葉で、身体で、すべてで。

「お願いです……ルカ、助けて……」

 スヴェトラーナはひとりの影が動くのを見つけた。
 その影が姿を現すと、スヴェトラーナの視界がぼやける。
 影はまっすぐにスヴェトラーナの前まで歩いてきた。
 皮の擦り切れたブーツ。ところどころ修復の縫い目のある綿のズボン。
 下がった手は大きくて爪が少し汚れている。このフロックコートはまだ着ていたのか。
 皺だらけの綿のスカーフを巻いた上にある顔は、三年前より少しやつれている。
 スヴェトラーナはわかっていた。
 ルカはなにがあってもスヴェトラーナを助けてくれると。
 どんな時でも、自分を犠牲にしても。スヴェトラーナを助けに来てくれる。
 だから叫んだ。『助けてください』と。

「ルカ……信じていました。絶対に、私を助けてくれると」

 見上げるスヴェトラーナの目は涙で濡れ、視界がぼやけている。
 国を出て初めて、スヴェトラーナは泣いていた。
 戸惑うルカの手を掴み額を押し当てる。
 流れ込んで、気が付いて、わかって。
 ルカが欲しい、ルカを愛しているって気持ちが流れ込むように必死で。

 座り込んでいるスヴェトラーナの前にしゃがみこみ、ルカはやっと口を開いた。

「どうしてですか? なぜ忘れて幸せになってくださらないのですか?」

 ルカは握られた手を握り返さず、怯えた目でスヴェトラーナを見つめた。

「どうしてルカを愛しているのに忘れなくてはいけませんか? ルカがいないのにどうして幸せになれますか?」

 ルカは黙ったまま俯いた。

「ずっと信じていました。信じて待っていました。ルカに信じてもらうために待っていました。ルカがいなくては幸せになれないと信じてください。ルカが私のすべてだと信じてください」

 握り返さないルカの手が堪えるように力を込めた。

「たった、十日一緒にいただけの俺を、どうしてそんなに……」
「私には運命の十日でした。ルカにとってもそうだったと信じています。あの時私にくれた愛情は偽りではなかったと信じています。私を欲してくれたあの時から、私はルカのものです」
「酷いことも、俺、してしまいました」
「私はルカを知っています。あのルカが本当のルカではないと知っています」
「三年も……姫様を……」
「私の望みはひとつだけ。ルカだけです。ルカを信じる私を信じてください。ルカでなければ私はだめなのです」

 身体を引きずり進み、ルカの腕を掴む。
 スヴェトラーナは必死だった。
 もし今ルカがスヴェトラーナを置いて走って行ってしまっても、スヴェトラーナはまた待つ。
 でも会えてしまったから、この手を離したくない。

「ルカの恐れも不安も、私がすべて消します。ルカは私が唯一愛する存在なのです。理由はわかっているはずです。ルカが私を愛してくれているのと同じように、私はルカを愛しているのです」

 ルカはもう限界だった。
 スヴェトラーナに掴まれていた手を握り引いた。
 身体ごとルカに引かれ抱きしめられた。

 たった十日間一緒にいただけ。思いが通じ合ったのは二日だけ。
 それがどうしてここまでこのひとがすべてなのか。
 理由は必要ない。
 運命だったから。

「どうしてですか……。もう離せませんよ……」
「離さないでください」
「俺なんかが触っていい方じゃないのに」
「ルカにしか触られたくありません」
「俺では侯爵邸のような生活も、させられません」
「必要ありません。私はもうあそこへは戻りません。ルカに付いて行きます」
「幸せに出来る自信も、ありません……」
「私がルカを幸せ出来るのなら、私にそれ以上の幸せはありません」

 抱き締める腕に力が籠る。

「姫……」
「ルカ、私をもう二度と離さないでください」
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