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ヴェルミラ
しおりを挟む大森林の奥深く――その最南に、ただ一ヶ所だけ、沈黙と寒気が支配する領域があった。
それが、死者の森である。
生者は存在せず、風も息も音さえも凍りつく。
「……なあ、トルド殿」
オーガの将軍バルドが、くぐもった声を落とす。隣を歩く参謀のトルドは、黙して彼の言葉を待った。
「俺たちこそ……腰抜けじゃないのか? 死者の手を借りてでも勝とうってんだからな」
その問いに、トルドは答えなかった。否定も肯定もできなかった。
この森の主――死者の女王ヴェルミラに謁見する。それは、命と誇りを――ときに種族の尊厳すらも――犠牲にする覚悟を意味していた。
やがて、森の深奥に現れたのは、黒鉄の尖塔群。それはまるで、地の底から突き出た死の牙のようだった。
そして、その中心に――
「……来たか。空も飛べんのか?」
玉座の上、黒衣に身を包んだ女が静かに見下ろしていた。顔は深いヴェールで隠され、声には氷のような冷たさが宿る。
死者の女王、ヴェルミラ。
「戦など、好きにすればいい。オークの王は弱かったが……我に膝をついて生贄を差し出した。その一点だけで、気に入っていた」
「……それでは、仇討ちをされますか?」
トルドが皮肉混じりに笑みを浮かべる。だが、その笑みは女王の瞳にあまりにも薄っぺらく映った。
「その言葉、そっくり返そう。オークとオーガは、長きにわたる盟友ではなかったのか?」
空気が、凍りつく。沈黙が圧を持ち始める。
ヴェルミラの顔は見えぬはずなのに――その唇が、皮肉に微笑んでいると、誰もが直感した。
「……」
「腰抜けどもが」
その声は感情すら帯びず、ただ断罪のように響いた。
「ところで――狼と共にいた人間。どんな者か、知っているのか?」
「……ただの、魔術師と聞いていますが」
「ほう。名をトルドと言ったな? 智者を気取る割に、浅い知見だな」
感情の欠片もない声音で、彼女はただ淡々と告げた。
「お前たちが人族の領へ侵攻するのか? ならば、我が軍も狼の森へと進軍しよう。血を流すのはオークだけ、などという茶番には、つきあいきれぬ」
その言葉に、バルドが剣の柄に手をかけた。怒気が全身を満たしていた。
「バルド殿、御自重を」
トルドが低く制し、乾いた笑みを浮かべた。
「……やはり、ハイエルフに一度殺されかけた将軍は、血の気が多い。脳の方は冷えているようで何より」
「人族への侵攻、やってやろうじゃないか!」
挑発か、揶揄か――女王は、ただ静かに言葉を返す。
「面白い。“目にもの見せてやろう”というなら、期待しておこう。我らの目は、どこにでもある。戦の支度をして待っていよう」
それきり、会談は終わった。
※
ヴェルミラは、ふぅと小さく吐息を洩らし、玉座に身を預けた。先ほどまでの冷たさが溶け、疲れたような素顔が覗く。
その傍らには、黒き鎧を纏う骸骨の騎士――ゼル=ラザールが、静かに膝をついていた。
「本気で、戦をお望みなのですか?」
「……まさか。ゼル。お前ほどの古き将が、なぜそんなことを訊く?」
微笑を浮かべた女王は、指先で空をなぞる。
「――あの島に、聖女が現れたら。私たちなど、一日と保たぬ」
記憶が蘇る。
風が吹いた。それだけで、屍兵の軍団が塵のように崩れ、霧と化して消えた。死の魔法すら通じず、ただ“祈り”だけが全てを浄化した。
「……あの軍団を集めるのに、何百年かかったと思っている」
声が震えた。唇を噛む。
「クロガミ様の意志は理解している。だが――ラピス様の命も、無視はできぬ」
その名が告げられた瞬間、玉座の間に、わずかに冷気が走った。
死の女王は、ただの死者ではない。
彼女もまた、命を想い、誇りを守る者――沈黙の王国で、密やかに生きている。
戦が始まる。
けれど――その果てに、本当の勝者など、存在するのだろうか?
※
「どうするつもりだ、トルド殿」
「……まさしく、“ミイラ取りがミイラになる”だな。我々の方が一枚劣っていた」
全て、読まれていた。ヴェルミラにトルドを出したことで、会談の失敗が覆い隠せなくなった。
「それで? 人族領への侵攻は?」
「もちろん、バルド将軍にお願いするつもりです。大王の許可を得てからですが」
ハイエルフとの戦で敗れながらも、バルドの民からの評価は高い。戦後、敵の族長の子を捕虜にし、被害を最小限に抑えた功績があるからだ。
「ほう、それは楽しみですな!」
バルドは、決して無能ではない。だが、その真価が発揮されるのは――敗北の時だ。
「ぜひとも、ウエストグレンを奪取し、死守していただきたい。歴史に名を刻めるでしょう」
その言葉に、トルドを吐きながら苦笑した。
残念だが、彼は英雄として、私は無能なる執政官となるだろうなと。
その“歴史”が、どの国の、種族ものとして語り継がれるかは――神すら知らぬだろう。
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