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蠱惑の魔剣
眠れる島の夜明け
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夜明け前のノシロ雑貨店。
海風がレースのカーテンをそっと揺らし、潮の香りが店の奥まで流れ込む。
ノシロはまだ眠たそうにしている娘ニコラを腕に抱き、柔らかな頬に唇を寄せた。
「じゃあ、行ってくるよ、ニコラ」
その声はかすかに震えていた。
娘の体温を離した瞬間、胸の奥で何かがほどけるように痛んだ。
エルフの妻リジェが静かに娘を受け取る。長い銀髪が朝の薄明かりをすべらせた。
「気をつけてね、あなた」
「ああ……何が起きるかわからん。だが、この島を守らなきゃならない」
ノシロの装いは、もう店主のそれではなかった。
腰には使い慣れた剣、肩には革鎧。かつての冒険者時代の装備を身に着けている。
「それじゃあ、私はサルサ様のところに行ってるね」
「ああ、頼む」
祝祭の実行委員長——それが今日の彼の肩書きだった。
準備期間はわずか数日。大陸との海路は封鎖され、物資も人手も足りない。
それでも、島の人々にとって祝祭は特別なものだ。
「出店も舞台も、今はどうでもいい……孤児院が襲われてるのに」
思わず漏れた呟きは、潮風にかき消された。
祝祭はすでに全島民に告知されている。
聖女ネフェルが来島するという噂が、まるで真実のように広がった。
この祭りの日に何かが変わる——さらに、島主から新たな宣言が出される予定だ。
「島民を守ることと、飢えさせないこと……両方やるしかないか」
ノシロは息を吐き、剣帯をきつく締め直す。
背中を押すのは義務や命令ではなく、ただ小さな娘の寝息だった。
今や冒険者たちは、領主代行ラゼルの私兵のように動いている。
島の秩序は、音もなく軋んでいた。
「どうなってるんだ……」
その言葉を残し、ノシロは夜明け前の通りを歩き出す。
空はまだ暗い青のまま。それでも東の端には、朝の気配がかすかにのぞく。
嵐の前に訪れる、一瞬の静けさだった。
※
同じ早朝、島庁舎の地下。
湿った石壁に囲まれた暗い監獄。水滴の音がぽつり、ぽつりと響き、ランプの灯が揺れる。
リコの予想通り、ノルドは牢の中でビュアンとささやかな食事会を開いていた。
机代わりの木箱の上には、ケーキと水出しの紅茶。監獄ではあり得ない光景に、空気は意外なほど穏やかだった。
「さすがノルドね。さっぱりしてて美味しいわ」
「まだ他にもあるよ。アーモンドとレモンのやつとか」
「ふふ、贅沢ね」
ビュアンは嬉しげにノルドの周りを回ると、再び木箱に座った。
「ヴァルの傷はどうだった?」
「毛がないところがあって笑っちゃったわ。でも命に別状はありません!」
「ポーションでも生えなかったのか。まあ、冬毛が戻るまでの我慢だな。毛生え薬、いつか作れるようになりたいな」
「そんな薬、必要かしら?」
二人の笑い声が、小さな明かりのように闇を照らす。
その時、遠くから靴音が響いた。
ビュアンは音を察し、ふっとノルドの影の中へ消える。
足音が止まった瞬間、低く落ち着いた声が響いた。
「ノルド、久しぶりだな」
振り向くと、そこに立っていたのはローカンだった。
ランプの灯に照らされた彼の顔は、以前より鋭く、だが優しさを帯びている。
「ローカンさん! どうしたんですか?」
「お前に会いに来た。実は——新婚旅行でな」
「えっ⁉︎ お、おめでとうございます!」
冗談のような言葉だが、笑っているのは口元だけ。瞳の奥に、男の静かな決意が滲んでいる。
彼は元部下の看守たちと話をつけ、ノルドに会うためにやってきたのだ。
「ありがとう。ノルドの無事を確認することと、他に二つ目的があってな」
島で起きている異変、領主代行の暴走、外からの圧力——。
話を聞くノルドの瞳に、決意の光が宿る。
「この牢には、共和国の大使や聖王国の司祭もいるのか?」
「はい、います」
「彼らを脱出させる。看守は俺がなんとかする」
「それなら、僕も行きます。やることがありますから」
ノルドの声は少年のそれではなかった。
母を想い、仲間を案じ、それでも前へ進む者の声だ。
「……大人になったな」
ローカンは小さく笑った。
「もし島に居られなくなったら、ヴァル君と俺の国に来い。生活には困らせん」
「ありがとうございます。でも、聖王国のグラシアス商会か共和国の大学で母の病気の研究をしたいんです」
「振られたか」
ローカンの口元に苦笑が浮かぶ。
ノルドの耳に、小さな声が響く。
『ついていくわよ、どこまでも』
ビュアンの囁きが胸に温かく灯る。
「……ちっ、いつでも待ってるからな」
「はい。旅で行きます」
ノルドの瞳はまっすぐローカンを見返す。迷いはもうない。
「さて、問題は……どうやって脱獄させようか」
「え?」
「いや、準備を忘れてた。犯罪者を助けるから鍵を貸せとは言えんしな」
「はは……相変わらずですね」
ノルドは小さく笑い、牢の扉に手をかける。
「実は、いつでも出られるんです。鍵、もう壊してありますから」
「お前……そんなことまで」
扉が静かに開く音。
「さて、解放しましょう!」
「あ、どこに囚われてるかな……」
そのいい加減さは以前のローカンと変わらない。
「共和国の大使はこの奥。外の音でわかりました」
「なら俺は見張りを——」
「はい、お願いします」
ノルドは収納空間から工具を取り出し、淡々と作業を始める。
その横顔はもはや囚人ではなかった。
ローカンは眠そうに見える姿で入口に立ち、周囲の気配を探る。
背には以前にはなかった、静かな威圧感が漂っていた。
「なんなの、あいつ……使えないようでいて、ちょっとカッコつけてるじゃない」
ビュアンがノルドの肩でつぶやく。
「変わったんだよ。人を守るって、ああいう顔になるんだな」
解錠の音。扉が静かに開く。
囚われていた大使と司祭たちが、暗闇から光へと顔を上げたその瞬間——。
監獄の入口から、複数の足音が響いた。
「何をしている?」
刑務所長が看守を引き連れ、冷たい声で言い放つ。
廊下のランプの灯を全てビュアンは吹き消した。
その場は暗闇に包まれ、牙狼族のノルドだけが全員の動きが見えていた。
海風がレースのカーテンをそっと揺らし、潮の香りが店の奥まで流れ込む。
ノシロはまだ眠たそうにしている娘ニコラを腕に抱き、柔らかな頬に唇を寄せた。
「じゃあ、行ってくるよ、ニコラ」
その声はかすかに震えていた。
娘の体温を離した瞬間、胸の奥で何かがほどけるように痛んだ。
エルフの妻リジェが静かに娘を受け取る。長い銀髪が朝の薄明かりをすべらせた。
「気をつけてね、あなた」
「ああ……何が起きるかわからん。だが、この島を守らなきゃならない」
ノシロの装いは、もう店主のそれではなかった。
腰には使い慣れた剣、肩には革鎧。かつての冒険者時代の装備を身に着けている。
「それじゃあ、私はサルサ様のところに行ってるね」
「ああ、頼む」
祝祭の実行委員長——それが今日の彼の肩書きだった。
準備期間はわずか数日。大陸との海路は封鎖され、物資も人手も足りない。
それでも、島の人々にとって祝祭は特別なものだ。
「出店も舞台も、今はどうでもいい……孤児院が襲われてるのに」
思わず漏れた呟きは、潮風にかき消された。
祝祭はすでに全島民に告知されている。
聖女ネフェルが来島するという噂が、まるで真実のように広がった。
この祭りの日に何かが変わる——さらに、島主から新たな宣言が出される予定だ。
「島民を守ることと、飢えさせないこと……両方やるしかないか」
ノシロは息を吐き、剣帯をきつく締め直す。
背中を押すのは義務や命令ではなく、ただ小さな娘の寝息だった。
今や冒険者たちは、領主代行ラゼルの私兵のように動いている。
島の秩序は、音もなく軋んでいた。
「どうなってるんだ……」
その言葉を残し、ノシロは夜明け前の通りを歩き出す。
空はまだ暗い青のまま。それでも東の端には、朝の気配がかすかにのぞく。
嵐の前に訪れる、一瞬の静けさだった。
※
同じ早朝、島庁舎の地下。
湿った石壁に囲まれた暗い監獄。水滴の音がぽつり、ぽつりと響き、ランプの灯が揺れる。
リコの予想通り、ノルドは牢の中でビュアンとささやかな食事会を開いていた。
机代わりの木箱の上には、ケーキと水出しの紅茶。監獄ではあり得ない光景に、空気は意外なほど穏やかだった。
「さすがノルドね。さっぱりしてて美味しいわ」
「まだ他にもあるよ。アーモンドとレモンのやつとか」
「ふふ、贅沢ね」
ビュアンは嬉しげにノルドの周りを回ると、再び木箱に座った。
「ヴァルの傷はどうだった?」
「毛がないところがあって笑っちゃったわ。でも命に別状はありません!」
「ポーションでも生えなかったのか。まあ、冬毛が戻るまでの我慢だな。毛生え薬、いつか作れるようになりたいな」
「そんな薬、必要かしら?」
二人の笑い声が、小さな明かりのように闇を照らす。
その時、遠くから靴音が響いた。
ビュアンは音を察し、ふっとノルドの影の中へ消える。
足音が止まった瞬間、低く落ち着いた声が響いた。
「ノルド、久しぶりだな」
振り向くと、そこに立っていたのはローカンだった。
ランプの灯に照らされた彼の顔は、以前より鋭く、だが優しさを帯びている。
「ローカンさん! どうしたんですか?」
「お前に会いに来た。実は——新婚旅行でな」
「えっ⁉︎ お、おめでとうございます!」
冗談のような言葉だが、笑っているのは口元だけ。瞳の奥に、男の静かな決意が滲んでいる。
彼は元部下の看守たちと話をつけ、ノルドに会うためにやってきたのだ。
「ありがとう。ノルドの無事を確認することと、他に二つ目的があってな」
島で起きている異変、領主代行の暴走、外からの圧力——。
話を聞くノルドの瞳に、決意の光が宿る。
「この牢には、共和国の大使や聖王国の司祭もいるのか?」
「はい、います」
「彼らを脱出させる。看守は俺がなんとかする」
「それなら、僕も行きます。やることがありますから」
ノルドの声は少年のそれではなかった。
母を想い、仲間を案じ、それでも前へ進む者の声だ。
「……大人になったな」
ローカンは小さく笑った。
「もし島に居られなくなったら、ヴァル君と俺の国に来い。生活には困らせん」
「ありがとうございます。でも、聖王国のグラシアス商会か共和国の大学で母の病気の研究をしたいんです」
「振られたか」
ローカンの口元に苦笑が浮かぶ。
ノルドの耳に、小さな声が響く。
『ついていくわよ、どこまでも』
ビュアンの囁きが胸に温かく灯る。
「……ちっ、いつでも待ってるからな」
「はい。旅で行きます」
ノルドの瞳はまっすぐローカンを見返す。迷いはもうない。
「さて、問題は……どうやって脱獄させようか」
「え?」
「いや、準備を忘れてた。犯罪者を助けるから鍵を貸せとは言えんしな」
「はは……相変わらずですね」
ノルドは小さく笑い、牢の扉に手をかける。
「実は、いつでも出られるんです。鍵、もう壊してありますから」
「お前……そんなことまで」
扉が静かに開く音。
「さて、解放しましょう!」
「あ、どこに囚われてるかな……」
そのいい加減さは以前のローカンと変わらない。
「共和国の大使はこの奥。外の音でわかりました」
「なら俺は見張りを——」
「はい、お願いします」
ノルドは収納空間から工具を取り出し、淡々と作業を始める。
その横顔はもはや囚人ではなかった。
ローカンは眠そうに見える姿で入口に立ち、周囲の気配を探る。
背には以前にはなかった、静かな威圧感が漂っていた。
「なんなの、あいつ……使えないようでいて、ちょっとカッコつけてるじゃない」
ビュアンがノルドの肩でつぶやく。
「変わったんだよ。人を守るって、ああいう顔になるんだな」
解錠の音。扉が静かに開く。
囚われていた大使と司祭たちが、暗闇から光へと顔を上げたその瞬間——。
監獄の入口から、複数の足音が響いた。
「何をしている?」
刑務所長が看守を引き連れ、冷たい声で言い放つ。
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