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仮の番、初日
「迎えに来た」
重々しい静寂を破ったのは、その一言だった。
漆黒の高級車の後部座席に恐る恐る乗り込むと低く落ち着いた声がした。
鷹城怜司は、今日も変わらず隙のないスーツ姿でハンドルを握っている。ルームミラー越しにちらりとこちらを見るが、その視線はあくまで静かで、まるで俺という人間の輪郭さえ掴もうとしていないようだった。その無関心さが、逆に翔太の心をざわつかせる。
「じゃあ……よろしくお願いします。鷹城さん、って呼べばいいんですか?」
おずおずと尋ねると、怜司は前を向いたまま答えた。
「怜司でいい。人前ではそう呼んでもらう。仮にも『番』だ。苗字で呼び合うのは不自然だろう?」
……番。
その言葉の持つ社会的な重みを、この男は本当にわかっているのだろうか。
本能で結びつき、生涯を誓い合う絶対的な関係。それを「不自然だから」という理由だけで口にする怜司に、翔太は底知れない違和感を覚えた。
……ああ、でも、もう始まってるんだな。この歪な関係が。
そう自分に言い聞かせ、翔太は小さく、力なく頷いた。
***
「……ここが、俺が住むところ……?」
荷物と呼べるほどの物もない、使い古されたリュックひとつだけを肩に提げ、翔太は目の前に広がる光景に言葉を失った。
案内された先は、都心の夜景を一望する超高級タワーマンション。大理石の床が続く広大なエントランスを抜けた瞬間から、息が詰まるような静けさと、無機質なまでの美しさに囲まれる。まるで現実感のない、ドラマのセットのようだ。フロントには、完璧な仕草で居住者に一礼するコンシェルジュが控えている。
「部屋は最上階のペントハウスだ。君の生活空間はこちらで用意してある。家具、日用品もすべて揃っているはずだ。不足があれば、そこのスタッフに言え」
怜司は何でもないことのようにそう告げると、カードキーを片手に、まっすぐ専用エレベーターへと向かった。その背中、その歩き方ひとつ取っても無駄がない。翔太は慌ててその後を追うが、心臓だけがうるさく鳴って、足元はフワフワと覚束ない。
「……こんな場所、俺が住んでいいわけが……」
エレベーターが滑るように最上階に到着し、重厚な扉が開かれた瞬間、翔太は息を呑んだ。目の前に広がっていたのは、想像を遥かに超えた異次元の空間だった。広々としたリビング、壁一面のガラス窓の向こうには、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。床に敷かれた毛足の長いラグは、踏むことさえ躊躇われるほど高級そうで、何もかもが場違いすぎて、自分が住むというより展示されているような感覚に陥った。
「仮の番である以上、君が鷹城のパートナーとして相応しく振る舞える環境が必要だ。これはそのための投資に過ぎない」
そう言い切る怜司の声はどこまでも冷静で、まるで人を住まわせるという実感すらないようだった。だが、翔太にはその完璧なまでの割り切りが、余計に居心地を悪くさせた。まるで価値のある商品をショーケースに並べるような扱いに、軋むように自尊心が痛む。
「そもそも契約って言っても、俺、家事とかも何もできるわけじゃ……」
「その必要はない。生活の一切は雇ったスタッフが管理する。君はただ、ここにいて、俺の番らしく見えるだけでいい。それが君の仕事であり、契約だ」
怜司の返答は端的で、一片の情も介在しない。ただ、その黒曜石のような瞳だけが、時折翔太を捉えるときに、ほんのわずかに揺らめいている気がした。気のせいかもしれない。けれど、完全に冷たいとも言い切れない何かが、そこにあるような気がしてならなかった。
「……俺がいると、邪魔ですよね。どこか端っこの物置みたいな部屋にでも押し込んでくれればそれで」
「……君が寝るのは、俺の隣の部屋だ」
「は?」
「番だ。外から見れば……同居し、寝室が隣接しているのは当然だろう」
理屈は、わかる。でも感情が納得することを頑なに拒否していた。
「……俺、こう見えてけっこう神経質なんですよ。夜中に物音とかされると眠れなくなるし、生活音とかも気にするタイプで……」
「では、壁を防音仕様に改装しよう。今からエンジニアを呼ぶか?」
「そういうことじゃねぇんだけどっ!」
会話が……まるで噛み合わない。冷静すぎる。ビジネスの交渉みたいに人と話す奴がいるかよ。
苛立ちを隠せないでいると、目の前で怜司が巨大な冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、無言で俺にも一本を差し出してきた。
「……どうも」
「体調は?」
「は?なんで急にそんなこと聞くんですか」
「劣勢オメガは環境の変化で体調を崩しやすいと聞いた。それに、君の経歴には過労による入院歴もあった。先に確認しておきたかっただけだ」
「……なんでそこまで調べてるんですか。気持ち悪っ……」
「契約だからだ」
即答だった。しかも表情ひとつ変えずに。この人、やっぱりちょっとどころじゃなく、やべぇ奴じゃないか?
いや、違う。たぶん……この人は、徹底した合理主義者なんだ。気遣いの言葉も、差し出された水も、すべてが目的のための最短距離。俺みたいに、いちいち感情で動く人間とは、住む世界が違う。
「怜司さんって……アルファなのに、なんか変ですよね」
「変か?」
「うん。だって、普通のアルファならもっと……ほら、オメガに反応するとか、あるじゃないですか?いや、俺は嫌ですけど!?ぜっっったいに無理ですけど!っていうか、俺みたいな劣勢には反応しないと思うけどね!」
慌てて捲し立てるように否定する俺を、怜司は静かに見つめ、少しの間を置いてから答えた。
「俺は、他者のフェロモンに共鳴しにくい体質なんだ。自己抑制力が強すぎて並大抵のオメガには反応しない。……唯一、番と定めた相手にだけ、極端に結びつく」
その声には、諦めにも似た響きがあった。
「へぇ……そんな体質あるんですね」
「稀少らしい。医学的には『ゼロ・アルファ』と呼ばれている」
「ゼロ……?」
初めて聞いたその言葉は、どこか人間味を削ぎ落とされた称号のようだった。
理性だけで相手を選び、欲望ではなく、意志で番を決める存在。それが、今、俺の目の前にいる仮の番。
「本能で流されるより、理性で選ぶ番のほうが俺には合っている。だから君を選んだ。感情に振り回されない、強いオメガだと初対面でわかったからだ」
「……それ、俺がただ冷めてるってだけですよ」
「俺は、それでいいと思っている」
まるで感情の存在そのものを拒絶しているような男。
……なのに、その目だけが時々、妙に静かで、どこか耐え忍ぶように見えるのは、一体なんでなんだ。
「今夜の食事は、別々で構わないな?」
「……あ、はい。その方が、助かります」
家族でも、恋人でもない。互いに踏み込まない、この乾いた距離感は、ある意味では……心地よかった。
でも同時に、広すぎるリビングの片隅で、ほんの少しだけ、寂しいと感じている自分もいた。
***
夜。
翔太が自室のベッドに横たわり、無機質な天井を見つめている頃。
リビングでは、怜司が一人、グラスを傾けていた。
(感情に流されない、か……)
本当に、そうだろうか。
契約を突きつけた時の、あの真っ直ぐな瞳。悔しさと怒りに燃えながらも、決して折れなかった強い光。
怜司はグラスの中の琥珀色の液体を見つめ、小さく息を吐いた。
あれは、俺が今まで出会ったどのオメガとも違っていた。
***
(……なんか、羨ましいな)
これは仕事だ。割り切らなくては。感情なんか持ち込んだら、負けだ。
そう自分に何度も言い聞かせながら、翔太は慣れないシルクのシーツに顔を埋めた。
けれどその夜……翔太の夢に現れたのは、怜司の横顔だった。
いつもは冷たいはずのその横顔が、なぜだかとても優しく見えたのが、無性に悔しかった。
重々しい静寂を破ったのは、その一言だった。
漆黒の高級車の後部座席に恐る恐る乗り込むと低く落ち着いた声がした。
鷹城怜司は、今日も変わらず隙のないスーツ姿でハンドルを握っている。ルームミラー越しにちらりとこちらを見るが、その視線はあくまで静かで、まるで俺という人間の輪郭さえ掴もうとしていないようだった。その無関心さが、逆に翔太の心をざわつかせる。
「じゃあ……よろしくお願いします。鷹城さん、って呼べばいいんですか?」
おずおずと尋ねると、怜司は前を向いたまま答えた。
「怜司でいい。人前ではそう呼んでもらう。仮にも『番』だ。苗字で呼び合うのは不自然だろう?」
……番。
その言葉の持つ社会的な重みを、この男は本当にわかっているのだろうか。
本能で結びつき、生涯を誓い合う絶対的な関係。それを「不自然だから」という理由だけで口にする怜司に、翔太は底知れない違和感を覚えた。
……ああ、でも、もう始まってるんだな。この歪な関係が。
そう自分に言い聞かせ、翔太は小さく、力なく頷いた。
***
「……ここが、俺が住むところ……?」
荷物と呼べるほどの物もない、使い古されたリュックひとつだけを肩に提げ、翔太は目の前に広がる光景に言葉を失った。
案内された先は、都心の夜景を一望する超高級タワーマンション。大理石の床が続く広大なエントランスを抜けた瞬間から、息が詰まるような静けさと、無機質なまでの美しさに囲まれる。まるで現実感のない、ドラマのセットのようだ。フロントには、完璧な仕草で居住者に一礼するコンシェルジュが控えている。
「部屋は最上階のペントハウスだ。君の生活空間はこちらで用意してある。家具、日用品もすべて揃っているはずだ。不足があれば、そこのスタッフに言え」
怜司は何でもないことのようにそう告げると、カードキーを片手に、まっすぐ専用エレベーターへと向かった。その背中、その歩き方ひとつ取っても無駄がない。翔太は慌ててその後を追うが、心臓だけがうるさく鳴って、足元はフワフワと覚束ない。
「……こんな場所、俺が住んでいいわけが……」
エレベーターが滑るように最上階に到着し、重厚な扉が開かれた瞬間、翔太は息を呑んだ。目の前に広がっていたのは、想像を遥かに超えた異次元の空間だった。広々としたリビング、壁一面のガラス窓の向こうには、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。床に敷かれた毛足の長いラグは、踏むことさえ躊躇われるほど高級そうで、何もかもが場違いすぎて、自分が住むというより展示されているような感覚に陥った。
「仮の番である以上、君が鷹城のパートナーとして相応しく振る舞える環境が必要だ。これはそのための投資に過ぎない」
そう言い切る怜司の声はどこまでも冷静で、まるで人を住まわせるという実感すらないようだった。だが、翔太にはその完璧なまでの割り切りが、余計に居心地を悪くさせた。まるで価値のある商品をショーケースに並べるような扱いに、軋むように自尊心が痛む。
「そもそも契約って言っても、俺、家事とかも何もできるわけじゃ……」
「その必要はない。生活の一切は雇ったスタッフが管理する。君はただ、ここにいて、俺の番らしく見えるだけでいい。それが君の仕事であり、契約だ」
怜司の返答は端的で、一片の情も介在しない。ただ、その黒曜石のような瞳だけが、時折翔太を捉えるときに、ほんのわずかに揺らめいている気がした。気のせいかもしれない。けれど、完全に冷たいとも言い切れない何かが、そこにあるような気がしてならなかった。
「……俺がいると、邪魔ですよね。どこか端っこの物置みたいな部屋にでも押し込んでくれればそれで」
「……君が寝るのは、俺の隣の部屋だ」
「は?」
「番だ。外から見れば……同居し、寝室が隣接しているのは当然だろう」
理屈は、わかる。でも感情が納得することを頑なに拒否していた。
「……俺、こう見えてけっこう神経質なんですよ。夜中に物音とかされると眠れなくなるし、生活音とかも気にするタイプで……」
「では、壁を防音仕様に改装しよう。今からエンジニアを呼ぶか?」
「そういうことじゃねぇんだけどっ!」
会話が……まるで噛み合わない。冷静すぎる。ビジネスの交渉みたいに人と話す奴がいるかよ。
苛立ちを隠せないでいると、目の前で怜司が巨大な冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、無言で俺にも一本を差し出してきた。
「……どうも」
「体調は?」
「は?なんで急にそんなこと聞くんですか」
「劣勢オメガは環境の変化で体調を崩しやすいと聞いた。それに、君の経歴には過労による入院歴もあった。先に確認しておきたかっただけだ」
「……なんでそこまで調べてるんですか。気持ち悪っ……」
「契約だからだ」
即答だった。しかも表情ひとつ変えずに。この人、やっぱりちょっとどころじゃなく、やべぇ奴じゃないか?
いや、違う。たぶん……この人は、徹底した合理主義者なんだ。気遣いの言葉も、差し出された水も、すべてが目的のための最短距離。俺みたいに、いちいち感情で動く人間とは、住む世界が違う。
「怜司さんって……アルファなのに、なんか変ですよね」
「変か?」
「うん。だって、普通のアルファならもっと……ほら、オメガに反応するとか、あるじゃないですか?いや、俺は嫌ですけど!?ぜっっったいに無理ですけど!っていうか、俺みたいな劣勢には反応しないと思うけどね!」
慌てて捲し立てるように否定する俺を、怜司は静かに見つめ、少しの間を置いてから答えた。
「俺は、他者のフェロモンに共鳴しにくい体質なんだ。自己抑制力が強すぎて並大抵のオメガには反応しない。……唯一、番と定めた相手にだけ、極端に結びつく」
その声には、諦めにも似た響きがあった。
「へぇ……そんな体質あるんですね」
「稀少らしい。医学的には『ゼロ・アルファ』と呼ばれている」
「ゼロ……?」
初めて聞いたその言葉は、どこか人間味を削ぎ落とされた称号のようだった。
理性だけで相手を選び、欲望ではなく、意志で番を決める存在。それが、今、俺の目の前にいる仮の番。
「本能で流されるより、理性で選ぶ番のほうが俺には合っている。だから君を選んだ。感情に振り回されない、強いオメガだと初対面でわかったからだ」
「……それ、俺がただ冷めてるってだけですよ」
「俺は、それでいいと思っている」
まるで感情の存在そのものを拒絶しているような男。
……なのに、その目だけが時々、妙に静かで、どこか耐え忍ぶように見えるのは、一体なんでなんだ。
「今夜の食事は、別々で構わないな?」
「……あ、はい。その方が、助かります」
家族でも、恋人でもない。互いに踏み込まない、この乾いた距離感は、ある意味では……心地よかった。
でも同時に、広すぎるリビングの片隅で、ほんの少しだけ、寂しいと感じている自分もいた。
***
夜。
翔太が自室のベッドに横たわり、無機質な天井を見つめている頃。
リビングでは、怜司が一人、グラスを傾けていた。
(感情に流されない、か……)
本当に、そうだろうか。
契約を突きつけた時の、あの真っ直ぐな瞳。悔しさと怒りに燃えながらも、決して折れなかった強い光。
怜司はグラスの中の琥珀色の液体を見つめ、小さく息を吐いた。
あれは、俺が今まで出会ったどのオメガとも違っていた。
***
(……なんか、羨ましいな)
これは仕事だ。割り切らなくては。感情なんか持ち込んだら、負けだ。
そう自分に何度も言い聞かせながら、翔太は慣れないシルクのシーツに顔を埋めた。
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