【完結】獣王の番

なの

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第四章:心の揺らぎ

第十九話:残された温もり

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ライオネルが辺境の砦へと旅立ってから、城は嘘のように静まり返っていた。

王という巨大な熱源を失った権力の中心は、まるでぽっかりと穴が空いたように冷え切っている。

だが、宰相グレンの厳格な指揮のもと役人たちは粛々と日々の政務をこなしているが、その足音さえもどこか虚ろで城全体が重い喪失感に満たされていた。

ユリアンは、再び一人きりになった王の私室で、ただ窓の外を眺めて過ごすことが多くなった。
あの日、ライオネルが残した置き手紙を読んだ時の、心臓が凍りつくような絶望が、今も胸に突き刺さったままだ。

彼は自分から逃げたのだ。愛してしまうことから、そして、愛することでいつか自分を傷つけてしまう未来から……。

セラフィオから聞かされた彼の過去が、重く胸にのしかかる。父王の歪んだ愛によって心を壊した母。
その全てを幼い頃から見てきたライオネルの魂に刻まれた傷。自分は、彼の最も触れられたくないその傷に、無邪気に塩を塗り込むようなことをしてしまったのだ。

「……馬鹿だ、僕は」

何度、そう呟いただろう。後悔の念が、毒のように全身を巡る。けれど、もう遅い。彼は、ここにはいない。

数日が過ぎた。ユリアンは食事も喉を通らず、夜もろくに眠れずにいた。
ライオネルの香りが微かに残る寝台に一人横たわると、その不在がより一層、鋭く胸を抉る。彼の温もりを思い出しては、シーツを固く握りしめる夜が続いた。

そんなある日、ユリアンはまるで夢遊病者のように、ふらりと立ち上がった。
彼の残した温もりの欠片に、どうしても触れたかった。その一心で彼はライオネルの執務室を訪れた。

主のいない部屋は、ひっそりと静まり返っている。
ユリアンは、彼の大きな執務机にそっと指先で触れた。
あの日、「気味が悪い」と彼に言われた、あの机だ。今はもう、その言葉を恨む気持ちはなかった。ただ、彼の苦しみが、痛いほどに伝わってくるだけだった。

机の上に乱雑に置かれた書類を整理していると、一冊の分厚い革張りの手帳が目に入った。
それは、ライオネルが日々の政務や所感を記録している手帳だった。見てはいけないものだ。そう頭では分かっていながら、ユリアンは、吸い寄せられるようにそのページをめくってしまう。

そこには、彼の性格を表すような几帳面な文字で日々の出来事や政務に関する考察がびっしりと書き込まれていた。
ページをめくっていくと、ユリアンは、ある記述に目を留めた。それは、自分がこの城に来て間もない頃の日付だった。

『――今日、隣国からΩが献上された。和平のための人質。番など馬鹿げている。俺は父のようにはならん。誰かを愛し、その愛に縛られ狂うことなど決して……』

やはり、彼は最初から父親の影に怯えていたのだ。その苦しみに気づけなかった自分が、ひどく愚かに思えた。

さらにページをめくる。すると、ユリアンに関する記述が、少しずつ増えていくことに気がついた。

『――深夜の書庫で、あのΩと遭遇。歴史書を読んでいた。物好きな奴だ。
だが、その瞳に宿る光は、ただのか弱いΩのものではなかった。妙に心に残る』

『――薬草園で、少年と笑い合っていた。なぜ、あの笑顔がこれほど心を乱すのか理解できん。苛立つ』

『――建国祭。
俺の隣に立つあいつは、誰よりも美しかった。
あれは俺の番だ。誰にも渡さん。だが、この腹の底から湧き上がる独占欲が、いつかあいつを傷つけるのだろうか……。父のように、俺も……』

手帳を持つ指が、小さく震える。彼の不器用な言葉の一つ一つが、凍りついたユリアンの心に、小さな温かい灯をともしていくようだった。

そして、最後の日付。喧嘩をしてしまった、あの夜。

『――ユリアンが俺以外の男の名を口にした。
セラフィオ。あの食わせ物め、腹が立った。だが、一番腹立たしいのは嫉妬に狂う自分自身だ。
やはり俺は、父と同じなのか……。このままでは俺はユリアンをあの鳥籠に閉じ込めてしまう。それだけは、絶対に嫌だ。
あいつには笑っていてほしい。自由に、誰にも縛られず笑っていてほしいのだ。

ならば、俺が……俺という存在が、あいつの前から消えるしかない』

そこまで読んで、ユリアンの瞳から、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。声にならない嗚咽が、静かな部屋に響く。
手帳を持つ手が激しく震えていた。

彼は、逃げたのではなかった。
自分を、守ろうとしてくれたのだ。
彼の歪んだ愛が、いつか自分を傷つけてしまう前に、自ら身を引いてくれた。
自分が自由でいられるように、彼が、全ての孤独と苦しみを引き受けてくれた。

「……ライオネル……っ!ライオネル……!」

その名を呼び、ユリアンは手帳を強く胸に抱きしめた。紙を通して、彼の鼓動が伝わってくるような気さえした。
会いたい。今すぐ、彼に会いたい。そして、伝えたい。
あなたの愛は、僕を傷つけなどしない、と。あなたの独占欲も、嫉妬も、その全てが、僕にはどうしようもなく愛おしいのだ、と。

どれくらい泣き続けたろうか。やがてユリアンは、涙で濡れた顔を上げた。窓から差し込む月光が、彼の銀の髪を照らしている。
もう、泣いている場合ではない。
ここには、彼が残してくれたものが、たくさんある。
彼が愛した国。彼が守ろうとした民。
彼が帰ってくるまで今度は自分が、それを守る番だ。

ユリアンは、手帳を元の場所に戻すと、静かに立ち上がった。そして、迷いのない足取りで宰相グレンの元へと向かった。

執務室の扉をノックし、中に入る。灯火の下で書類仕事をしていたグレンが、驚いたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、数日前までの、か弱くうなだれていた少年ではなかった。

ユリアンは、彼の前に進み出ると、深く、そして凛とした声で言った。

「宰相閣下。陛下のご不在の間、僕に何かお手伝いできることはありませんか?」

その青い瞳には、もう涙の痕跡はなかった。
そこにあるのは、王の番として、この国を、そして愛する人を守り抜くという、強く、そして揺るぎない決意の光だった。

ただ待つだけのΩは、もうどこにもいなかった。
遠く離れた王を支えるため、ユリアンの、静かな戦いが始まろうとしていた。
 


(第四章 完)


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