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王宮の大広間に、よく響く声が轟いた。
「ラミリア・バーンスタイン! 貴様との婚約を、今この時を持って破棄する!」
煌びやかなシャンデリアの下。
贅を尽くした料理と、着飾った貴族たち。
建国記念パーティーというこの国で最も華やかな宴の最中に、その怒号はあまりにも不釣り合いだった。
声の主は、この国の第二王子であるジェラルド殿下だ。
燃えるような赤髪に、自信に満ち溢れた碧眼。
整った顔立ちは確かに美しいが、今は怒りで歪んでいるため、せっかくのイケメンが台無しである。
彼の腕には、小柄で可愛らしい少女がしがみついていた。
男爵令嬢のミナ様だ。
ピンク色のふわふわとしたドレスを身に纏い、怯えたように震える仕草は、守ってあげたくなる小動物そのもの。
対する私は、ラミリア・バーンスタイン。
バーンスタイン伯爵家の長女であり、地味な紺色のドレスを着た、何の変哲もない女だ。
魔力もない。剣の才能もない。
特技といえば、書類整理と人の顔を覚えることくらい。
そんな「持たざる者」である私が、なぜか今、衆人環視の中で断罪されている。
「……殿下。今の言葉、本気でしょうか?」
私は努めて冷静に問い返した。
手には飲みかけのグラス。
中身がこぼれないように水平を保つのに必死だったのは内緒だ。
「本気に決まっているだろう! 貴様のような、嫉妬に狂った悪毒な女を、将来の妃にするわけにはいかない!」
ジェラルド殿下は、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
周囲の貴族たちがざわめき始めた。
「おい、聞いたか? 婚約破棄だってよ」
「ラミリア嬢が嫉妬?」
「まさか……」
ひそひそとした声が広がる。
普通なら、ここでヒロイン(悪役令嬢役)は顔面蒼白になり、崩れ落ちるのがお約束だ。
あるいは涙ながらに無実を訴えるか。
けれど、私は違った。
私の視線は、ジェラルド殿下の顔ではなく、その少し下。
首元の一点に釘付けになっていたのだ。
(あ、ネクタイ曲がってる)
気になって仕方がない。
今朝、私が選んで結んで差し上げたロイヤルブルーのネクタイが、右に大きくズレている。
ミナ様がいちゃついた拍子に引っ張ったのだろうか。
王族として、あのズレ方は致命的にだらしない。
「黙っているのは図星だからか! ミナへの陰湿な嫌がらせの数々……。階段から突き飛ばし、教科書を破り、あまつさえお茶会では彼女のドレスにワインをかけたそうだな!」
殿下の告発は続く。
身に覚えのない罪状が次々と列挙されていく。
(教科書を破る? 王立学園の教科書は特殊な羊皮紙でできているから、魔力を使わないと破れないはずだけど……私は魔力ゼロだし)
(ドレスにワイン? あの日のお茶会、私は財務省の裏方手伝いで、一日中地下室に籠もっていたはずだけど……)
突っ込みどころが満載すぎて、逆にどこから訂正すればいいのか分からない。
私は小さく溜息をつき、そっとグラスを近くの給仕に預けた。
給仕の少年は、私の顔を見るとハッとして、心配そうに小声で囁いた。
「ラミリア様……大丈夫ですか? 俺たちが証言しましょうか?」
「ううん、大丈夫よ。ありがとう、トビー。新しい靴、足に馴染んだみたいでよかったわね」
「ッ! ……あ、ありがとうございます!」
以前、彼が靴擦れで苦しんでいた時に絆創膏をあげたのを覚えていただけなのだが、トビーは顔を赤くして下がった。
こういうちょっとした気遣いが、私の生存戦略だ。
特別な力がないなら、味方を増やすしかない。
それが私のモットーである。
さて、トビーとの会話を終え、私は改めて殿下に向き直った。
「どうした、反論もできないのか! この魔力なしの無能女め!」
殿下がさらに声を張り上げる。
「無能」という言葉に、会場の空気がピリリと変わった気がした。
だが、殿下本人は気づいていない。
自分の背後に控えている近衛騎士たちが、一斉に険しい顔をして殿下を睨んでいることに。
騎士団長に至っては、こめかみに青筋を浮かべている。
先月、彼が胃潰瘍で倒れそうだった時に、特製の胃薬と消化に良いお粥レシピを渡したのは私だ。
彼は義理堅い人だから、恩人の私が「無能」呼ばわりされたのが許せないのだろう。
(まあまあ、団長様。そんなに怒るとまた胃に穴が開きますよ)
私は心の中で苦笑しながら、一歩前へ進み出た。
断罪される哀れな令嬢としてではなく、彼の世話係のような足取りで。
「殿下」
「な、なんだ! 今さら謝っても遅いぞ!」
殿下が身構える。
ミナ様も「きゃっ、怖いですぅ」とわざとらしく身を縮める。
私は二人の前まで歩み寄ると、静かに手を伸ばした。
そして――。
キュッ。
「ぐぇっ!?」
殿下の首元のネクタイを掴み、素早く中央に戻して締め直した。
「……はい、これで真っ直ぐになりました。大勢の方が見ていらっしゃるのですから、身嗜みはきちんとなさってください」
パンパン、と襟元を整えて微笑む。
会場に、奇妙な沈黙が落ちた。
「は……?」
ジェラルド殿下は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっている。
自分が何をされたのか理解できていないようだ。
「き、貴様……! 何を……!?」
「何って、ネクタイを直しただけですが。それより殿下、先ほどのお話ですが」
私は一転して事務的な口調に切り替えた。
王城での仕事モード、通称「鉄の女」モードだ。
「婚約破棄、承知いたしました。謹んでお受けいたします」
「えっ」
予想外のあっさりとした返答に、殿下の目が点になる。
ミナ様も「へ?」と間の抜けた声を漏らした。
「し、しかしだな! 貴様はもっとこう、泣いて縋るとか……」
「そのような見苦しい真似はいたしません。殿下のご意思が固いのであれば、私が身を引くのが筋でしょう。それに……」
私はチラリと、会場の隅で待機している宰相閣下と視線を合わせた。
閣下は「やれやれ」といった様子で、しかし力強く頷いてくれた。
(準備完了、ということですね)
私はニッコリと笑った。
「殿下が私を『無能』と判断されたのであれば、私のサポートはもう不要ということですね? これまでの事務作業、スケジュール管理、根回し、その他諸々の雑務……明日から全てご自身でなされるということで、よろしいですね?」
「は? あ、ああ! もちろんだ! 貴様ごときがいなくとも、俺には優秀なミナがいる! それに、俺は王族だぞ? その程度の仕事、どうとでもなる!」
殿下は胸を張って断言した。
ああ、言質を取ってしまった。
会場のあちこちから、「終わったな……」「殿下、ご愁傷様です」「明日から城が機能停止するぞ」という絶望の声が漏れているのが聞こえる。
侍女長などは、すでにハンカチで目元を拭っていた。
悲しいからではない。
「あの馬鹿王子、やっと切れるわ」という嬉し涙だろう。
「分かりました。では、これにて失礼いたします」
私は優雅にカーテシー(膝を折る礼)を披露した。
完璧な角度、完璧な姿勢。
魔力はなくとも、礼儀作法だけは叩き込まれている。
「さようなら、ジェラルド殿下。どうか、お元気で」
私は踵を返した。
背後で殿下が「お、おい! 待て! 話はまだ終わってないぞ!」と叫んでいるが、無視だ。
これ以上付き合っていると、せっかくの料理が冷めてしまう。
出口に向かって歩き出した私の前に、不意に人影が現れた。
会場の空気が、先ほどとは比べ物にならないほど凍りつく。
絶対零度のプレッシャー。
「……騒がしいな」
低く、艶のあるバリトンボイス。
そこに立っていたのは、この国で最も恐れられている男。
『氷の公爵』こと、アレクセイ・フォン・ルークス公爵閣下だった。
(げっ、公爵様)
私は思わず足を止めた。
彼とは面識がある。
といっても、以前雨の日に、屋敷の裏口で捨て猫に餌をやっていたところを見られただけだが。
あの時はすごく怖い顔で睨まれたので、きっと怒られるに違いない。
「公爵! ちょうどいいところに! この女を捕らえろ! 私への不敬罪だ!」
ジェラルド殿下が、叔父である公爵に向かって命令する。
公爵はゆっくりと、氷のような銀色の瞳を殿下に向けた。
「……五月蝿い」
「ひっ」
たった一言。
それだけで、殿下は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
公爵は殿下への興味を失ったように視線を外し、私の前へと歩み寄ってくる。
コツ、コツ、と靴音が響く。
怖い。
何されるんだろう。
私は覚悟を決めて目を閉じた。
しかし、予想された罵倒や衝撃は来なかった。
代わりに聞こえたのは、呆れるほど甘く、優しい声。
「……やっと、あの馬鹿がお前を手放したか」
「え?」
目を開けると、そこには信じられない光景があった。
あの『氷の公爵』が、私の手を取り、跪いていたのだ。
まるで、物語の王子様のように。
「ラミリア嬢。我が屋敷に来ないか? ……猫も、お前を待っている」
……はい?
「ラミリア・バーンスタイン! 貴様との婚約を、今この時を持って破棄する!」
煌びやかなシャンデリアの下。
贅を尽くした料理と、着飾った貴族たち。
建国記念パーティーというこの国で最も華やかな宴の最中に、その怒号はあまりにも不釣り合いだった。
声の主は、この国の第二王子であるジェラルド殿下だ。
燃えるような赤髪に、自信に満ち溢れた碧眼。
整った顔立ちは確かに美しいが、今は怒りで歪んでいるため、せっかくのイケメンが台無しである。
彼の腕には、小柄で可愛らしい少女がしがみついていた。
男爵令嬢のミナ様だ。
ピンク色のふわふわとしたドレスを身に纏い、怯えたように震える仕草は、守ってあげたくなる小動物そのもの。
対する私は、ラミリア・バーンスタイン。
バーンスタイン伯爵家の長女であり、地味な紺色のドレスを着た、何の変哲もない女だ。
魔力もない。剣の才能もない。
特技といえば、書類整理と人の顔を覚えることくらい。
そんな「持たざる者」である私が、なぜか今、衆人環視の中で断罪されている。
「……殿下。今の言葉、本気でしょうか?」
私は努めて冷静に問い返した。
手には飲みかけのグラス。
中身がこぼれないように水平を保つのに必死だったのは内緒だ。
「本気に決まっているだろう! 貴様のような、嫉妬に狂った悪毒な女を、将来の妃にするわけにはいかない!」
ジェラルド殿下は、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
周囲の貴族たちがざわめき始めた。
「おい、聞いたか? 婚約破棄だってよ」
「ラミリア嬢が嫉妬?」
「まさか……」
ひそひそとした声が広がる。
普通なら、ここでヒロイン(悪役令嬢役)は顔面蒼白になり、崩れ落ちるのがお約束だ。
あるいは涙ながらに無実を訴えるか。
けれど、私は違った。
私の視線は、ジェラルド殿下の顔ではなく、その少し下。
首元の一点に釘付けになっていたのだ。
(あ、ネクタイ曲がってる)
気になって仕方がない。
今朝、私が選んで結んで差し上げたロイヤルブルーのネクタイが、右に大きくズレている。
ミナ様がいちゃついた拍子に引っ張ったのだろうか。
王族として、あのズレ方は致命的にだらしない。
「黙っているのは図星だからか! ミナへの陰湿な嫌がらせの数々……。階段から突き飛ばし、教科書を破り、あまつさえお茶会では彼女のドレスにワインをかけたそうだな!」
殿下の告発は続く。
身に覚えのない罪状が次々と列挙されていく。
(教科書を破る? 王立学園の教科書は特殊な羊皮紙でできているから、魔力を使わないと破れないはずだけど……私は魔力ゼロだし)
(ドレスにワイン? あの日のお茶会、私は財務省の裏方手伝いで、一日中地下室に籠もっていたはずだけど……)
突っ込みどころが満載すぎて、逆にどこから訂正すればいいのか分からない。
私は小さく溜息をつき、そっとグラスを近くの給仕に預けた。
給仕の少年は、私の顔を見るとハッとして、心配そうに小声で囁いた。
「ラミリア様……大丈夫ですか? 俺たちが証言しましょうか?」
「ううん、大丈夫よ。ありがとう、トビー。新しい靴、足に馴染んだみたいでよかったわね」
「ッ! ……あ、ありがとうございます!」
以前、彼が靴擦れで苦しんでいた時に絆創膏をあげたのを覚えていただけなのだが、トビーは顔を赤くして下がった。
こういうちょっとした気遣いが、私の生存戦略だ。
特別な力がないなら、味方を増やすしかない。
それが私のモットーである。
さて、トビーとの会話を終え、私は改めて殿下に向き直った。
「どうした、反論もできないのか! この魔力なしの無能女め!」
殿下がさらに声を張り上げる。
「無能」という言葉に、会場の空気がピリリと変わった気がした。
だが、殿下本人は気づいていない。
自分の背後に控えている近衛騎士たちが、一斉に険しい顔をして殿下を睨んでいることに。
騎士団長に至っては、こめかみに青筋を浮かべている。
先月、彼が胃潰瘍で倒れそうだった時に、特製の胃薬と消化に良いお粥レシピを渡したのは私だ。
彼は義理堅い人だから、恩人の私が「無能」呼ばわりされたのが許せないのだろう。
(まあまあ、団長様。そんなに怒るとまた胃に穴が開きますよ)
私は心の中で苦笑しながら、一歩前へ進み出た。
断罪される哀れな令嬢としてではなく、彼の世話係のような足取りで。
「殿下」
「な、なんだ! 今さら謝っても遅いぞ!」
殿下が身構える。
ミナ様も「きゃっ、怖いですぅ」とわざとらしく身を縮める。
私は二人の前まで歩み寄ると、静かに手を伸ばした。
そして――。
キュッ。
「ぐぇっ!?」
殿下の首元のネクタイを掴み、素早く中央に戻して締め直した。
「……はい、これで真っ直ぐになりました。大勢の方が見ていらっしゃるのですから、身嗜みはきちんとなさってください」
パンパン、と襟元を整えて微笑む。
会場に、奇妙な沈黙が落ちた。
「は……?」
ジェラルド殿下は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっている。
自分が何をされたのか理解できていないようだ。
「き、貴様……! 何を……!?」
「何って、ネクタイを直しただけですが。それより殿下、先ほどのお話ですが」
私は一転して事務的な口調に切り替えた。
王城での仕事モード、通称「鉄の女」モードだ。
「婚約破棄、承知いたしました。謹んでお受けいたします」
「えっ」
予想外のあっさりとした返答に、殿下の目が点になる。
ミナ様も「へ?」と間の抜けた声を漏らした。
「し、しかしだな! 貴様はもっとこう、泣いて縋るとか……」
「そのような見苦しい真似はいたしません。殿下のご意思が固いのであれば、私が身を引くのが筋でしょう。それに……」
私はチラリと、会場の隅で待機している宰相閣下と視線を合わせた。
閣下は「やれやれ」といった様子で、しかし力強く頷いてくれた。
(準備完了、ということですね)
私はニッコリと笑った。
「殿下が私を『無能』と判断されたのであれば、私のサポートはもう不要ということですね? これまでの事務作業、スケジュール管理、根回し、その他諸々の雑務……明日から全てご自身でなされるということで、よろしいですね?」
「は? あ、ああ! もちろんだ! 貴様ごときがいなくとも、俺には優秀なミナがいる! それに、俺は王族だぞ? その程度の仕事、どうとでもなる!」
殿下は胸を張って断言した。
ああ、言質を取ってしまった。
会場のあちこちから、「終わったな……」「殿下、ご愁傷様です」「明日から城が機能停止するぞ」という絶望の声が漏れているのが聞こえる。
侍女長などは、すでにハンカチで目元を拭っていた。
悲しいからではない。
「あの馬鹿王子、やっと切れるわ」という嬉し涙だろう。
「分かりました。では、これにて失礼いたします」
私は優雅にカーテシー(膝を折る礼)を披露した。
完璧な角度、完璧な姿勢。
魔力はなくとも、礼儀作法だけは叩き込まれている。
「さようなら、ジェラルド殿下。どうか、お元気で」
私は踵を返した。
背後で殿下が「お、おい! 待て! 話はまだ終わってないぞ!」と叫んでいるが、無視だ。
これ以上付き合っていると、せっかくの料理が冷めてしまう。
出口に向かって歩き出した私の前に、不意に人影が現れた。
会場の空気が、先ほどとは比べ物にならないほど凍りつく。
絶対零度のプレッシャー。
「……騒がしいな」
低く、艶のあるバリトンボイス。
そこに立っていたのは、この国で最も恐れられている男。
『氷の公爵』こと、アレクセイ・フォン・ルークス公爵閣下だった。
(げっ、公爵様)
私は思わず足を止めた。
彼とは面識がある。
といっても、以前雨の日に、屋敷の裏口で捨て猫に餌をやっていたところを見られただけだが。
あの時はすごく怖い顔で睨まれたので、きっと怒られるに違いない。
「公爵! ちょうどいいところに! この女を捕らえろ! 私への不敬罪だ!」
ジェラルド殿下が、叔父である公爵に向かって命令する。
公爵はゆっくりと、氷のような銀色の瞳を殿下に向けた。
「……五月蝿い」
「ひっ」
たった一言。
それだけで、殿下は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
公爵は殿下への興味を失ったように視線を外し、私の前へと歩み寄ってくる。
コツ、コツ、と靴音が響く。
怖い。
何されるんだろう。
私は覚悟を決めて目を閉じた。
しかし、予想された罵倒や衝撃は来なかった。
代わりに聞こえたのは、呆れるほど甘く、優しい声。
「……やっと、あの馬鹿がお前を手放したか」
「え?」
目を開けると、そこには信じられない光景があった。
あの『氷の公爵』が、私の手を取り、跪いていたのだ。
まるで、物語の王子様のように。
「ラミリア嬢。我が屋敷に来ないか? ……猫も、お前を待っている」
……はい?
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