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10.蛙との勝負
しおりを挟む「また、謝罪を受け入れて……それに、セレナ、本当にマリアーノ侯爵令息と2人で試験を受けるのかい?」
先ほどの騒ぎがようやく収束した廊下で、ヴィクター様が驚いたように目を瞬かせた。
その表情には、心配と「君ならやりかねない」という諦観が半々に混ざっている。
「ええ。皆さんも興味があるようでしたし、王宮で作られる試験にとても関心がありますの。これはある意味、一生に一度のチャンスかもしれませんから」
にこりと微笑み返すと、ヴィクター様は肩をすくめてと小さく笑った。呆れたような、しかしどこか誇らしげな眼差しだ。
「ヴィクター様のおかげで試験内容に条件を一つ付け加えることができましたし、全力で頑張りますわ」
王宮の文官長に試験問題を作らせる、という無謀な提案。
それを“公式な勝負”に仕立て上げることができたのは、間違いなく彼の存在によるものだ。
あの時、彼が怒りを押しとどめて理路整然と反論していなければ、ここまでスムーズには進んでいない。
「そうかい? わかったよ、頑張ってねセレナ。応援している」
優しい声が、頭を撫でられたかのように心地よく胸に染み込む。私が望む方向へ、迷いなく背を押してくれる人――そう思うと、自然に背筋が伸びた。
そのあと、ヴィクター様はふと視線をそらし、ぽつりと呟いた。
『でも、これも「ざまぁ」って感じじゃないんだよな……正攻法の勝負なのか?』
腕を組み、首をひねり、不満げに眉を寄せる。
“ざまぁ”に関して妙なこだわりを見せるところが、なんとも可愛らしい。
私はそっと扇子で唇を隠し、くすりと笑った。
――ふふ、これからですわよ。
*****
ーsideマリアーノ侯爵令息ー
『え? なんだ……この問題。どういうことだ、ほとんど分からないではないか!!』
開始の合図と同時に紙面をめくった瞬間、胃がひっくり返るような衝撃が走った。
文の構造は辛うじて分かる。だが――内容が分からない。見たことのない形式、聞いたことのない単語、そして突拍子もなく高度な計算。
ま、まずい……これは、まずいぞ!
昨日までの自信と興奮はどこへ消えたのか。
王太子殿下に直談判し、文官長に“本物の問題”を作ってもらえると聞いた瞬間、あれほど胸が躍ったというのに。
ちょっと難しいくらいだろう、そう思っていたのに……これは、試験ではない。拷問だ!!
周囲を見れば、試験会場にはホフマン伯爵令嬢と学院教師が数名。
教師たちは机を並べて座り、こちらをじろりと監視している。…いや、監視“しているように”見えるだけだろうか。
な、なんだその目は。まるで私がカンニングでもする前提のような……失礼な!
気のせいだ、落ち着けと自分を叱咤しつつ、震える指でペンを握る。
その時だった。
――カリ、カリ、カリ。
静かな会場に、鋭く軽やかなペンの音が響く。
真横からだ。迷いもなく答えを書き進めているかのような一定のリズムで。
う、嘘だろ……こんな難問を? 本当に解いているのか? いや、まさか……
焦りだけが膨張し、頭の中で警鐘が鳴り続ける。時間だけが容赦なく過ぎていく。わたしの紙は、真っ白なまま……いや、ほんの数行、苦し紛れの落書き程度の解答が並ぶだけだ。
「そこまでです」
試験官の無情な声が響き渡った瞬間、肩から力が抜け落ちた。
な……なんということだ……!
書けたところなど、数えるほどしかない。いや、数えたくもない。
混乱している私の前に、あっさりと帰り支度を終えたホフマン伯爵令嬢が歩み寄ってくる。その表情は――余裕。そして、悪戯を企む猫のような笑み。
「…この問題はどういうことだ。ホフマン伯爵令嬢……確か問題の作成に、一つ条件を付けていたな」
自分でも驚くほど情けない声が出た。
令嬢は扇子を軽く揺らしながら、紅茶談義でも始めるかのように穏やかに言う。
「文官試験と同じレベルの試験。いかがでしたか? あら、マリアーノ侯爵令息。ずいぶんと顔色が悪いですわよ。問題、そんなに難しかったですか? ふふふ」
文官試験……!?
耳にした瞬間、背中に冷水を流されたような感覚が走った。
まるで悪い冗談だ。
「意外な顔をなさるのね。あなた、宰相を目指しているのでしょう? 卒業したら文官からスタートですわよ。こんな試験、余裕でしょう?」
「ば、ばかな……だとしても今年ではない! 習っていないことが多すぎる!」
声が裏返った。恥ずかしいが、それどころではない。
ま、またこいつの策略か……!? 自分の首も締まるはずなのに……いや、待て。さっきの音……書き進めていた、あれは――
私は令嬢の解答用紙に目を向けた。
そして悟る。
ま、まさか……本当に解けたのか!?
「ふふ、結果、楽しみですわね。学院で習った範囲のテストでは僅差でしたけど……習っていない高度な試験。果たして僅差かしら?」
ぞくり、と背筋が震えた。
令嬢の微笑みは、冬の風より冷たい。だが同時に、恐ろしいほど優雅だった。
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