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11.蛙の末路
しおりを挟むーsideマリアーノ侯爵令息ー
「……ホフマン伯爵令嬢に喧嘩を売ったそうだな」
父上の執務室に呼び出された瞬間、私は全身を氷水に沈められたような感覚に襲われた。
机の上には書類が整然と並び、父上はその背後でゆっくりと眼鏡を外して私を見つめている。その視線が、何よりも恐ろしい。
「け、喧嘩など……」
なぜだ。
なぜ、父上が知っている。
「お前は私を誰だと思っている。宰相だぞ」
静かな声が、逆に胸を締め上げる。
「文官長に試験問題を作らせたことなどすぐに耳に入る。…勝てもしない相手に挑むなど、馬鹿のすることだ」
「そ、そんな!」
胸の奥がきゅっと痛む。悔しさか、恐怖か、自分でも分からない。
「待ってください父上。勝てもしないなど……学院ではいつも僅差でした」
僅差で「勝った」ことは一度もない。だが、それでも僅差は僅差だ。一歩、届きかけていたのだと信じたかった。
父上は深いため息を吐く。
「満点より上の点数はないだろう。令嬢は王子妃教育を短期間でこなしたのだ。基礎が違う。学院の学習過程もすべて終わっているといってよい」
そんな……。
じゃあ今までの僅差は、ただ “遊ばれていただけ” なのか?
「文官長に作らせた試験、大差でお前の負けだそうだ」
やはり、か……
胸の奥で、なにかが音を立てて崩れた。
「それに……はぁ。ホフマン伯爵親子がこれから来ると先触れが届いた……。お前も同席しろ」
逃がす気はないらしい。私は言葉を飲み込むしかなかった。
***
客室へ向かうと、すでにホフマン伯爵親子がソファに優雅に腰掛けていた。絹のように静かな空気。それなのに、刃を突きつけられているような圧がある。
「この度は愚息が浅はかなことをして申し訳ない」
父上が深く頭を下げ、私の頭まで押さえつけて無理やり下げさせる。
屈辱。
けれど、今は逆らえない。
「ああ、何やら誤解があったようで。娘の実力を分かってもらえたならそれでいいのです。娘も謝罪を受け入れたそうですし」
……じゃあ、何しに来たんだよ!! その笑顔、怖いんだよ……!!
「ええ、謝罪はもう結構ですが――宰相様、こちらを」
伯爵が差し出した封筒を見た瞬間、血の気が引いた。
あれは……!! あれは、無効にしたはずでは――!?
父上が中身を開き、険しく目を細める。
そして、ぎろりと私を見る。
「これは……負けた時の条件を記したものですな」
「謝罪は受け取ったのですが、許しますと契約は別でございましょう? たくさんの方が見ていましたし。ええ、貴族ですもの」
隣で令嬢が、あくまで上品に微笑む。
「まあ、無理なら約束を違えていただいてもよろしいのですわよね、お父様?」
その親子の微笑ましいやりとりに、背筋が冷たく凍りつく。
――本気だ。この人たち、本気で私の人生を動かしに来ている。
「……いや、愚息は留学させよう」
「父上!!」
「黙れ!」
バン、と机を叩くような声が響く。その音に、私は反射的に口をつぐんだ。
「ホフマン伯爵、わざわざご足労頂き感謝する。そしてこの度は本当に申し訳ない」
伯爵親子は微笑みを崩さず、優雅に退出した。その背中が、やけに大きく見えた。
扉が閉まると同時に、父上の怒りが静かににじみ出る。
「……経済を牛耳っているホフマン家との契約、破るわけにはいかない。何と愚かなことをしたものだ」
父上の言葉が、胸に突き刺さる。
「貴族の契約とは恐ろしいものだと、あれほど教えたではないか。……廃嫡という言葉を出さなかったことは褒めてやる。この程度で終わらせた令嬢にも感謝するんだな」
……え? この程度……?
「留学の手続きはすぐ始める。……お前はもう学院へ行くな」
足元が揺れた気がした。
世界が急に遠くなる。
契約。確かに書面に残したが、そんな……こんな大ごとになるとは思わなかった。
学生の口約束。そんな軽い気持ちで……許されると……そんなふうに思っていたんだ。
――なんて、愚かだったんだ、私は。
*****
-sideセレナ-
「意外とすんなり、承諾したな」
父の低く落ち着いた声が、執務室に静かに響いた。
「ええ、お父様、当然ですわ」
口元に微笑みを浮かべながらも、胸の奥では冷静に計算していた。
貴族は契約を守るもの。
仮にも宰相ともあろう方が、反故にするわけがない。その原則を理解していれば、どう振る舞うべきかは明白だった。
私は、マリアーノ侯爵令息様に「私が卑怯な噂を流した」と、皆の前で言ってもらうつもりだった。
しかし賢い宰相様なら、もう学院には出さないだろう。
まあいいわ。留学しようと、寄宿舎に入ろうと、ヴィクター様のように前世の記憶が戻らないかぎり、あの性格は変わらない。
ふふ……1年生からやり直すことは、マリアーノ侯爵令息様にとって、退学よりも屈辱的だろう。
ある意味、留年だわ……未来の宰相は……無理かもしれない。まあ、次男がいるから国の政務には支障はないだろうけれど。
ふっと笑みが零れた。
「ふふ、私に挑んだ時点で、マリアーノ侯爵令息様は自滅しているのです。その愚かさに、思わず呆れてしまいますわ」
その顔は、ヴィクター様に決して見せられない冷静さと、内心の高揚が入り混じった微笑、自覚はしている。
でも――次に何が起こるか、楽しみでならないわ。
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