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20.前世の話
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ヴィクター様と並んで机に向かい、静かな午後、勉強をしていた。
大きな窓から差し込む光が書類の端を照らし、紙の白さをいっそう明るく見せている。彼は器用に羽根ペンを走らせていたが、ふいに手を止めて小さく唸った。
「ああ、紙を止めるクリップがほしいな。バインダーでもいいんだけど。こんな時、百均があれば……」
さらりと口にした言葉が呪文のように聞こえた私は、瞬きをした。
クリップ? バインダー? ヒャッキン?
「それは、どういったものですか?」
思わず聞き返すと、ヴィクター様は「ああ」と微笑み、膝の上で紙束を揺らした。
「100円均一で売っているものだよ。百均ていうのはお店で商品がすべて同じ金額なんだ。うーん、色々な商品がすべて銅貨1枚! っていうことかな」
「そうなのですの。貴族はオーダーメイドが主ですから、同じ値段というのは馴染みがないですわね。同じ金額の物を集めて売っているということかしら?」
私がそう言うと、ヴィクター様は首をひねり、少し考え込む。
「どちらかというと、銅貨1枚で売るための商品を作っている感じかな……たぶん。でも、すごく便利なんだよ。『え? これも銅貨1枚!』とか、『え?こんなのも売っているの?』ってわくわくするんだ」
話しながら、彼の表情は少年のように明るくなる。光の反射で瞳がきらきらと揺れ、その世界がどれほど彼にとって鮮やかだったのかが伝わってきた。
ヴィクター様の説明によれば、百均と呼ばれるお店は「品揃えの豊富さ」「商品の品質」「お手頃感」が魅力なのだという。便利グッズや、思いがけないアイデア商品にしばしば驚かされるらしい。
「低価格と商品の豊富さが魅力、ですか……庶民にはいいかもしれませんね。ちなみに、どんなものが売っているのですか?」
「ん? 僕がよく買っていたのは、ファイルとかペンとかかな? 本当に何でも売っているんだよ。ハンカチとか乾電池とかお皿とか、今必要なくてもついつい買っちゃうんだ」
「ファイル? 乾電池?」
耳慣れない単語に、私は首をかしげてしまう。すると、彼はくすりと笑って続けた。
「ああ、妹は化粧品も買っていたな。」
「妹がいらっしゃったの?」
「うん、前世でね。アイメイクに凝っていたんだ。つけまつげとかカラフルなアイシャドウとかネイルとか……」
鮮やかな色彩を思わせる言葉の数々に、胸が高鳴る。
「……そのお話、詳しく聞かせてください。」
「いいよ」
そう言って語られた前世の化粧品の話は、私の常識を軽々と飛び越えていった。
この国では、頬を淡く染めたり唇に血色を足したりする程度で、ほとんど皆同じ色味。しかしヴィクター様の世界には数えきれないほどの色があり、それを自在に使って表情を変えたり、気分を示したりできたという。
この世界の髪も瞳も皆それぞれ色が違うのだから、もっと多彩であってもよい。そんな簡単なことに、私はこれまで気づきもしなかった。
「なんだか当たり前だと思っていた商品も、確かに言われてみれば、この国では見かけない物が多いね」
ふっと漏らしたヴィクター様の横顔は、どこか遠くの世界を懐かしむようで、胸が少し締めつけられた。
「ご家族にもこの話をされたのですか?」
促すと、彼は苦笑いを浮かべる。
「ほら、私の家族は元々スペアである私には大して興味がないんだよ。前の私はあの通りだったし。こんなに長く私の話を聞いてくれるのは、セレナくらいだよ」
なるほど。つまり、この異世界の知識は公爵家には伝わっていないということ。
その事実が、重要。
「私は、ヴィクター様に興味がありますわ。これからも、たくさんお話してくださいね」
「本当かい! 嬉しいな。」
ぱっと咲いたような笑顔を見せたヴィクター様に、思わずこちらまで頬が緩む。
窓の外では、まだ肌寒い風が枝を揺らしている。それでも陽射しはどこか柔らかく、冬の終わりを予感させた。
──もうすぐ春ね。
*****
ヴィクター様のお話を聞いて試作したハンドクリームを、私は小さな箱に入れてレティシアへ渡した。
香料をほんの少しだけ混ぜたその香りは、春先の花のようにほのかに甘く、箱を開けたレティシアは、一瞬だけ目を細めた。
昼下がりのサロンには、ちょうどいい温度の陽が差し込み、テーブルの上に置かれたレースのクロスを淡く照らしている。温かい紅茶の香りがふわりと漂い、いつもの穏やかなティータイムが流れ始めた。
「……セレナ、人の心というのはね……」
レティシアはクリームの蓋を閉じながら、少し呆れたように視線を上げる。
「ありますわよ、人の心」
即座に返した私は、自分でも少し語気が強かったと気づく。それでも、ムッとした気持ちは隠せなかった。
「あなた、アルマンド公爵令息様の話にお金の匂いを感じ取ったのでしょう? このハンドクリームだって、すでに商品化に向けて動いていると見たわ。……話を聞いてもらって素直に喜んでいるアルマンド公爵令息様……切ないわね」
語尾に皮肉を滲ませながらも、どこか本気で心配しているような声音。
「失礼だわ。商品化については、ちゃんとヴィクター様の許可はいただいておりますわ。そもそも卒業したらヴィクター様は伯爵家の人間。伯爵家の利益はヴィクター様の利益。ヴィクター様の知識は伯爵家の物ですわ」
レティシアはふっと目を伏せる。
普段なら絶対に口をつけない、少し温くなった紅茶を一口だけ飲み、そのまま遠くの窓の向こうを見つめた。まるで、私の言葉の先にある何かを思い巡らせているように。
「セレナ……そういうところよ……」
どういうところ? よくわからないわ。
大きな窓から差し込む光が書類の端を照らし、紙の白さをいっそう明るく見せている。彼は器用に羽根ペンを走らせていたが、ふいに手を止めて小さく唸った。
「ああ、紙を止めるクリップがほしいな。バインダーでもいいんだけど。こんな時、百均があれば……」
さらりと口にした言葉が呪文のように聞こえた私は、瞬きをした。
クリップ? バインダー? ヒャッキン?
「それは、どういったものですか?」
思わず聞き返すと、ヴィクター様は「ああ」と微笑み、膝の上で紙束を揺らした。
「100円均一で売っているものだよ。百均ていうのはお店で商品がすべて同じ金額なんだ。うーん、色々な商品がすべて銅貨1枚! っていうことかな」
「そうなのですの。貴族はオーダーメイドが主ですから、同じ値段というのは馴染みがないですわね。同じ金額の物を集めて売っているということかしら?」
私がそう言うと、ヴィクター様は首をひねり、少し考え込む。
「どちらかというと、銅貨1枚で売るための商品を作っている感じかな……たぶん。でも、すごく便利なんだよ。『え? これも銅貨1枚!』とか、『え?こんなのも売っているの?』ってわくわくするんだ」
話しながら、彼の表情は少年のように明るくなる。光の反射で瞳がきらきらと揺れ、その世界がどれほど彼にとって鮮やかだったのかが伝わってきた。
ヴィクター様の説明によれば、百均と呼ばれるお店は「品揃えの豊富さ」「商品の品質」「お手頃感」が魅力なのだという。便利グッズや、思いがけないアイデア商品にしばしば驚かされるらしい。
「低価格と商品の豊富さが魅力、ですか……庶民にはいいかもしれませんね。ちなみに、どんなものが売っているのですか?」
「ん? 僕がよく買っていたのは、ファイルとかペンとかかな? 本当に何でも売っているんだよ。ハンカチとか乾電池とかお皿とか、今必要なくてもついつい買っちゃうんだ」
「ファイル? 乾電池?」
耳慣れない単語に、私は首をかしげてしまう。すると、彼はくすりと笑って続けた。
「ああ、妹は化粧品も買っていたな。」
「妹がいらっしゃったの?」
「うん、前世でね。アイメイクに凝っていたんだ。つけまつげとかカラフルなアイシャドウとかネイルとか……」
鮮やかな色彩を思わせる言葉の数々に、胸が高鳴る。
「……そのお話、詳しく聞かせてください。」
「いいよ」
そう言って語られた前世の化粧品の話は、私の常識を軽々と飛び越えていった。
この国では、頬を淡く染めたり唇に血色を足したりする程度で、ほとんど皆同じ色味。しかしヴィクター様の世界には数えきれないほどの色があり、それを自在に使って表情を変えたり、気分を示したりできたという。
この世界の髪も瞳も皆それぞれ色が違うのだから、もっと多彩であってもよい。そんな簡単なことに、私はこれまで気づきもしなかった。
「なんだか当たり前だと思っていた商品も、確かに言われてみれば、この国では見かけない物が多いね」
ふっと漏らしたヴィクター様の横顔は、どこか遠くの世界を懐かしむようで、胸が少し締めつけられた。
「ご家族にもこの話をされたのですか?」
促すと、彼は苦笑いを浮かべる。
「ほら、私の家族は元々スペアである私には大して興味がないんだよ。前の私はあの通りだったし。こんなに長く私の話を聞いてくれるのは、セレナくらいだよ」
なるほど。つまり、この異世界の知識は公爵家には伝わっていないということ。
その事実が、重要。
「私は、ヴィクター様に興味がありますわ。これからも、たくさんお話してくださいね」
「本当かい! 嬉しいな。」
ぱっと咲いたような笑顔を見せたヴィクター様に、思わずこちらまで頬が緩む。
窓の外では、まだ肌寒い風が枝を揺らしている。それでも陽射しはどこか柔らかく、冬の終わりを予感させた。
──もうすぐ春ね。
*****
ヴィクター様のお話を聞いて試作したハンドクリームを、私は小さな箱に入れてレティシアへ渡した。
香料をほんの少しだけ混ぜたその香りは、春先の花のようにほのかに甘く、箱を開けたレティシアは、一瞬だけ目を細めた。
昼下がりのサロンには、ちょうどいい温度の陽が差し込み、テーブルの上に置かれたレースのクロスを淡く照らしている。温かい紅茶の香りがふわりと漂い、いつもの穏やかなティータイムが流れ始めた。
「……セレナ、人の心というのはね……」
レティシアはクリームの蓋を閉じながら、少し呆れたように視線を上げる。
「ありますわよ、人の心」
即座に返した私は、自分でも少し語気が強かったと気づく。それでも、ムッとした気持ちは隠せなかった。
「あなた、アルマンド公爵令息様の話にお金の匂いを感じ取ったのでしょう? このハンドクリームだって、すでに商品化に向けて動いていると見たわ。……話を聞いてもらって素直に喜んでいるアルマンド公爵令息様……切ないわね」
語尾に皮肉を滲ませながらも、どこか本気で心配しているような声音。
「失礼だわ。商品化については、ちゃんとヴィクター様の許可はいただいておりますわ。そもそも卒業したらヴィクター様は伯爵家の人間。伯爵家の利益はヴィクター様の利益。ヴィクター様の知識は伯爵家の物ですわ」
レティシアはふっと目を伏せる。
普段なら絶対に口をつけない、少し温くなった紅茶を一口だけ飲み、そのまま遠くの窓の向こうを見つめた。まるで、私の言葉の先にある何かを思い巡らせているように。
「セレナ……そういうところよ……」
どういうところ? よくわからないわ。
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