【完結】記憶にありませんが、責任は取りましょう

楽歩

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2.夫ではないの?

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「じ、自己紹介……?」


 夫が呆然と私を見つめる。……夫。名前を知らない人をそう呼ぶことに違和感があるのだから、自己紹介くらい当然のことではなくて?



「まかせて、お母様!」


 声を張り上げて小さな少年が胸を張った。その姿が可愛らしくて、思わず視線が柔らかくなる。


「ぼく、じゃなくて、私は、ラファエル・ラングフォード。まだまだ未熟者ではございますが、皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!」


 お辞儀までしっかりと。

 お誕生日のお披露目か何かのために、練習していたのかしら。

 後ろに控える侍女たちも、小さく拍手をしている。褒められたくて仕方ないという顔で、きらきらと私を見上げる。



「とてもよくできたわ。偉いわね」

 頭を撫でると、花が咲いたように笑った。



「お母様は、ぼくのことラルって呼んでたよ」

「そうなの。教えてくれてありがとう、ラル。これからもそう呼んでいい?」


 こくこくと何度も頷く。ああ、本当に愛らしい子。

 でも、ラングフォード?


「ララ。私は、レオナール・ウェストレイ。君は私のことを、レオと呼んでいた」

「ウェストレイ、というと伯爵家でしたわよね。そして、私のことはアイラとお呼びください、とお願いしたはずですが」

「ラ、アイラ。すまない。伯爵、ああ、その通りだ。私は今、爵位を継いで伯爵となっている」

「そうですか。ウェストレイ伯爵」


 呼称は、きちんとしないと。


「ひとつ伺いますが、なぜ、私の息子はウェストレイの名を持たないのです? あなたとは血が繋がっていないのでしょうか」

「そ、そんなことはない! 見てくれ、こんなに私にそっくりだろう!」

 確かに、よく似ている。ラルは髪も瞳も私そっくりだが、顔つきはウェストレイ伯爵にそっくりだ。やはり私たちの息子ということで間違いなさそうね。

 私が眉をかすかに寄せると、伯爵は居心地悪そうに侍女へ視線を逃がした。


「ラルを別室に。私はアイラと二人だけで話がしたい」

「かしこまりました、旦那様」


 侍女に手を引かれながら、ラルがこちらを振り返る。不安そうに、でも頑張って笑おうとして、小さく手を振った。私は穏やかに微笑み返し手を振る。

 扉が閉まり、部屋に静寂が訪れた。

 伯爵は疲れ果てたように、ベッド横の椅子へと崩れるように腰を下ろす。



「どこから、いや、何から話せばいいのか」

「概要で結構ですわ」


 十年分など、一気にすべて聞けば頭がおかしくなりかねない。

 伯爵は喉を詰まらせたが、やがて決心したように口を開いた。



「概要、か……。私は学院で君と出会い、運命だと思った。しかし運命は私とすれ違い、私は卒業後、婚約者と結婚した」


 ああ、嫌な予感しかしない。



「誤解しないでほしい。私と婚約者だったマリセラには、愛などなかった。私の心には君が、彼女の心には幼い頃から想い続ける幼なじみがいた。だから、私たちは清い関係のまま……白い結婚を通し、三年後に離婚するつもりだったんだ」

「結婚なさらないという選択肢は、存在しなかったのですか?」


 ウェストレイ伯爵は、困ったように笑うだけだった。


「マリセラの父、ドロセル子爵はしたたかな人物でね。私の父に恩を売り、婚約を取りつけたのも彼だ。伯爵家との繋がりを望んだだけでなく領地の運営にも口を出そうとしていた。会うたび“早く子を”と急かされたほどだ」


 よくある政略結婚だわ。


「しかし、あとわずかで三年、自由になれる。そんな時に、私たちの企てが何故か子爵に知られたらしい。子爵家に招かれた時、二人揃って媚薬を盛られた」

 ……強硬手段ね。媚薬なんてもの、本当にあるのね。


「っ! 本意じゃなかったんだ。信じてくれ」

「進めていただけます?」


「そ、それからのマリセラは泣いてばかりで、部屋から一歩も出なくなって……。そしてある日、庭師と駆け落ちをした」

「その庭師、まさか」

「ああ。マリセラが、実家から連れてきていた幼馴染だ」

 あらまあ。



「妻が失踪すると、さらに三年待たねば離縁できない。やっと三日前、正式に離縁が成立した。なのに、ララが記憶喪失だなんて、これからやっと幸せに――」

 こちらを伺ってくる瞳が潤んでいる。


「アイラ、と呼んでいただけます? ウェストレイ伯爵」

 ピタリと伯爵が固まる。


「途中から私が全く登場しませんでしたが、どのような経緯で六歳になる、あなたと私の息子がいるのです? そして、先ほどのお話からすると正確には、あなたは私の夫ではございませんね? 私は愛人という立場でよろしいのかしら」

「愛人、確かに、世間的にはそうだ。しかし私は君だけを愛している! 再会したとき、私の状況を話すと、君は、私をずっと想っていたと言ってくれて」


 ……聞き捨てならない言葉が多すぎますわね。


「三年後、君を正式に妻にする、君もそれを信じてくれた。長引いてしまったが離縁は成立した。あとは書類に君の署名があれば、ようやく君は私の妻に! 二人で夢見ていた未来が!」

 そうなのですね。そんな未来が。



「ですが、今すぐは無理ですわ。お話の概略は分かりましたが、分かっていないことが多すぎます」

「そ、そうだな。自分のことばかりで、すまない。それならば、せめてウェストレイ伯爵はやめてくれないか? 愛称が無理なら、レオナールと」

「分かりました。レオナール様。まずは父母に会わせてくださいませ」

 まさか亡くなってはいないでしょうね?


「ああ、君が意識を失ったときにすでに使いを出してある。領地にいたそうでね。明日到着する」

 胸に溜めていた息が、静かに抜けた。よかった、生きていて。10年、油断はできないわ。


「少し疲れましたわ。横になってもいいですか?」

「ああ、そうだね。ゆっくり休んでくれ。……あっ、思い出した。君は学院の頃から日記をつけていたんだよ。あのクローゼットの奥にある、鍵付きの箱に入れてある。君がそう教えてくれた」


 日記、心の深いところに、かすかに引っかかる響き。



「日記ですか。その鍵はどこに?」

「君が今、身につけているネックレスに付いている」

 半信半疑のまま揺れるペンダントトップを指先でつまみ上げると、小さな鍵が絡むように下がっていた。



「……肌身離さず持っていたのですね」

「読まれるのは恥ずかしいって、いつも言っていた。もしかしたら私への気持ちを綴ってくれていたのかもしれない」

 言いよどみ、こちらの反応を伺うように視線が揺れる。



「いや、もちろん! 君が眠っている間に勝手に読んだりなんてしない。卑怯な真似はしていない。そ、そこは信じてほしい」

 慌てふためく様子が、逆に嘘をついていない証拠だと思えてしまうのが不思議。



「わかりました。意識がはっきりしている時に読んでみますわ。記憶が戻る、手がかりになるかもしれませんもの」

「ぜひ、ぜひ頼む。何か思い出せるといい」


 どこか縋るような声。

 日記、そこには何が書かれているのだろう。

 知らない自分が、息づいているのだろうか。

 一度まぶたを閉じると、意識が、まどろみへと吸い込まれていく。

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