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32.ひっくり返るのは石だけでいい
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春の陽光に満ちた王宮庭園は、芽吹いたばかりの若葉と色とりどりの花々に彩られ、やわらかな香りが風に溶けていた。
その奥、蔦と白い柱に囲まれた優雅なカゼボへと案内される。
「よく来たわね、アイラ。待っていたわ」
「お招きいただきましてありがとうございます、王太子妃殿下。そして、ご挨拶します、アーガントン侯爵夫人」
礼をとると、ーブルを挟んで、王太子妃殿下とアーガントン侯爵夫人の穏やかな微笑みが返ってきた。
「記憶がないと聞いたわ。“はじめまして”でいいのかしら。私は、ミレイユ・アーガントンよ」
「はじめまして。アーガントン侯爵夫人。アイラ・ウェストレイと申します」
互いに形式的な挨拶を交わしたところで、王太子妃殿下が楽しげに手を打つ。
「さぁ、堅苦しい挨拶はもういいでしょう? みんなでお茶にしましょう」
合図を受け、侍女たちが静かに近づき、繊細な手つきでカップにハーブティーを注いでいく。湯気とともに、ほのかに爽やかな香りが広がった。
「まぁおいしいわね。私、ハーブティーはそんなに得意ではなかったけれど、これはいけるわ」
「今まで私に合わせて無理して飲んでいたものね。ふふふ」
軽やかな笑いが、カゼボの中に柔らかく弾む。
「これは伯爵家の商会で取り扱っているのかしら?」
カップをもったまま、アーガントン侯爵夫人が尋ねる。
「ええ、そうです。おかげさまで王太子妃殿下御用達という話が広がり、商会の規模も大きくなりました」
もともと二人きりで切り盛りしていた商会は、仕入れと販売だけでは手が回らなくなり、ついに人を雇うことになった。急な忙しさにミガルは文句を言っていたが、その表情はどこか嬉しそうだったのを思い出す。
「新作、楽しみにしているわ」
王太子妃殿下の声に、気が引きしまる。
「もちろん誰よりも早くお届けいたします。ブレンドティーではございませんが、こちら、王太子妃殿下へお持ちした新商品です」
用意してきた包みをメリッサから受け取り差し出すと、殿下は興味深そうに身を乗り出した。
「何かしら? 香りはブレンドティーのようだけれど」
「はい、ハーブの入浴剤でございます」
「ハーブの入浴剤?」
意外そうに目を瞬かせる。
「ですので、味ではなく効能にこだわりました。効能は、こちらの用紙にまとめておきましたので、後でご覧ください」
「ハーブティーの中につかるイメージなのね。入浴剤、その発想はなかったわ。あなた面白いこと考えるのね」
感心したように頷いたあと、殿下は微笑んだ。すると、アーガントン侯爵夫人が前のめりで話し出す。
「いいわね。それ。私にもお願いしたいわ。そうだ! あなた私のために手土産を作ったんですって? 早速出していただこうかしら」
「まあ、ミレイユ。手土産を自分で催促するなんて淑女のすることじゃありませんわ。それに、アイラは、あなたのためにリバーシを特訓してきたのだから、まず、やってあげて?」
ええ、練習は、王太子妃殿下の助言でしたけど、やらなくてよいのであればやりたくない、とは言わない。
「それもそうね。アイラ、間違ってもわざと負けようなんてしないことね。私そういうのすぐわかっちゃうんだから」
――なんですって!?
ギリギリで負ける練習をしてきたというのに、これは手を抜けそうにない。小さく息をつく。
やがて侍女が盤と石を運び、テーブルの上にリバーシが整えられる。向かい合う私たちを、王太子妃殿下は少し離れた位置から楽しげに覗き込んでいた。
「さあ、やりましょう」
静かに対戦が始まる。
「そうだわ、アイラ。日記には、私のことも書いていて?」
アーガントン侯爵夫人の不意の言葉に、指先が一瞬止まる。
日記?
「ほら、オリヴィエットに、日記を読んで、過去を少し理解しているって言ったのでしょう?」
そうだった。確かに言った。私的の場ではオリヴィエットと呼んでいらっしゃるのね、王太子妃殿下のことを。やはり仲がいい。
確かに、アーガントン侯爵夫人のことは書いていた。書いてはいたが、どう説明すればいいのか言葉に詰まる。
「ふふふ、そんな顔しなくていいわ。私があなたに厳しく当たったと言うような内容が書いてあったでしょう?」
軽い調子とは裏腹に、核心を突かれ、息を呑む。会話を続けながらも、盤上では容赦なく石が返されていく。
「お聞きしてもよろしいでしょうか? 日記には、マナーやダンスなどをお教えくださったと書いてありましたが、なぜでしょうか?」
少し考えるように視線を上げ、アーガントン侯爵夫人は肩の力を抜いた。
「ええ、特に意地悪のつもりはなかったのよ? あなた何度言ってもセルジュに近づこうとするし、そうであれば、私たちの周りに常にマナーのなってない令嬢がいるというのはちょっとね。簡潔に言うと、見ていて我慢できなかっただけ」
なるほど。目障りではあるけれど、近くにいるなら最低限礼儀をきちんとしろ、そういうことだったのだろう。
「私、友人たちに教え方がうまいって言われていたのよ? なのに、“ララ”は何にも変わらなかった。だから、結構早めに諦めちゃったの」
ああ、なるほど。そんなことが書いてあった。
盤面を見つめながら、日記の内容と今の話が、静かに重なっていくのを感じていた。
「それはお手数おかけして、申し訳ありません」
「いいのよ。私が諦めたら、なぜか“ララ”もセルジュを諦めてね。結局“ララ”は、私のそばからいなくなったの。何だったのかしら?」
過去を回想するその口調はどこか楽しげで、余裕すら感じさせた。
「まぁ忘れたの? その後、コリン・ライクスバートに近づいたじゃない」
「そうだったわ。ディアーヌが怒り狂っていたわね。思い出した」
二人の軽やかに交わされる言葉の端々に、当事者にしか分からない因縁が滲む。
ディアーヌ・ライクスバート様が、怒り狂っていた!?
内心で反芻したその言葉に、血の気が引く。
「アイラ、そんなに青い顔しないで。少なくても、私は今のマナーがよく、私とリバーシを良い勝負するあなたのことが気に入ったわ。はい、これで終わり。勝ったわ」
盤上に置かれた最後の一手。柔らかな微笑みとともに流れるように告げられた宣言は、あまりにも自然だった。
その奥、蔦と白い柱に囲まれた優雅なカゼボへと案内される。
「よく来たわね、アイラ。待っていたわ」
「お招きいただきましてありがとうございます、王太子妃殿下。そして、ご挨拶します、アーガントン侯爵夫人」
礼をとると、ーブルを挟んで、王太子妃殿下とアーガントン侯爵夫人の穏やかな微笑みが返ってきた。
「記憶がないと聞いたわ。“はじめまして”でいいのかしら。私は、ミレイユ・アーガントンよ」
「はじめまして。アーガントン侯爵夫人。アイラ・ウェストレイと申します」
互いに形式的な挨拶を交わしたところで、王太子妃殿下が楽しげに手を打つ。
「さぁ、堅苦しい挨拶はもういいでしょう? みんなでお茶にしましょう」
合図を受け、侍女たちが静かに近づき、繊細な手つきでカップにハーブティーを注いでいく。湯気とともに、ほのかに爽やかな香りが広がった。
「まぁおいしいわね。私、ハーブティーはそんなに得意ではなかったけれど、これはいけるわ」
「今まで私に合わせて無理して飲んでいたものね。ふふふ」
軽やかな笑いが、カゼボの中に柔らかく弾む。
「これは伯爵家の商会で取り扱っているのかしら?」
カップをもったまま、アーガントン侯爵夫人が尋ねる。
「ええ、そうです。おかげさまで王太子妃殿下御用達という話が広がり、商会の規模も大きくなりました」
もともと二人きりで切り盛りしていた商会は、仕入れと販売だけでは手が回らなくなり、ついに人を雇うことになった。急な忙しさにミガルは文句を言っていたが、その表情はどこか嬉しそうだったのを思い出す。
「新作、楽しみにしているわ」
王太子妃殿下の声に、気が引きしまる。
「もちろん誰よりも早くお届けいたします。ブレンドティーではございませんが、こちら、王太子妃殿下へお持ちした新商品です」
用意してきた包みをメリッサから受け取り差し出すと、殿下は興味深そうに身を乗り出した。
「何かしら? 香りはブレンドティーのようだけれど」
「はい、ハーブの入浴剤でございます」
「ハーブの入浴剤?」
意外そうに目を瞬かせる。
「ですので、味ではなく効能にこだわりました。効能は、こちらの用紙にまとめておきましたので、後でご覧ください」
「ハーブティーの中につかるイメージなのね。入浴剤、その発想はなかったわ。あなた面白いこと考えるのね」
感心したように頷いたあと、殿下は微笑んだ。すると、アーガントン侯爵夫人が前のめりで話し出す。
「いいわね。それ。私にもお願いしたいわ。そうだ! あなた私のために手土産を作ったんですって? 早速出していただこうかしら」
「まあ、ミレイユ。手土産を自分で催促するなんて淑女のすることじゃありませんわ。それに、アイラは、あなたのためにリバーシを特訓してきたのだから、まず、やってあげて?」
ええ、練習は、王太子妃殿下の助言でしたけど、やらなくてよいのであればやりたくない、とは言わない。
「それもそうね。アイラ、間違ってもわざと負けようなんてしないことね。私そういうのすぐわかっちゃうんだから」
――なんですって!?
ギリギリで負ける練習をしてきたというのに、これは手を抜けそうにない。小さく息をつく。
やがて侍女が盤と石を運び、テーブルの上にリバーシが整えられる。向かい合う私たちを、王太子妃殿下は少し離れた位置から楽しげに覗き込んでいた。
「さあ、やりましょう」
静かに対戦が始まる。
「そうだわ、アイラ。日記には、私のことも書いていて?」
アーガントン侯爵夫人の不意の言葉に、指先が一瞬止まる。
日記?
「ほら、オリヴィエットに、日記を読んで、過去を少し理解しているって言ったのでしょう?」
そうだった。確かに言った。私的の場ではオリヴィエットと呼んでいらっしゃるのね、王太子妃殿下のことを。やはり仲がいい。
確かに、アーガントン侯爵夫人のことは書いていた。書いてはいたが、どう説明すればいいのか言葉に詰まる。
「ふふふ、そんな顔しなくていいわ。私があなたに厳しく当たったと言うような内容が書いてあったでしょう?」
軽い調子とは裏腹に、核心を突かれ、息を呑む。会話を続けながらも、盤上では容赦なく石が返されていく。
「お聞きしてもよろしいでしょうか? 日記には、マナーやダンスなどをお教えくださったと書いてありましたが、なぜでしょうか?」
少し考えるように視線を上げ、アーガントン侯爵夫人は肩の力を抜いた。
「ええ、特に意地悪のつもりはなかったのよ? あなた何度言ってもセルジュに近づこうとするし、そうであれば、私たちの周りに常にマナーのなってない令嬢がいるというのはちょっとね。簡潔に言うと、見ていて我慢できなかっただけ」
なるほど。目障りではあるけれど、近くにいるなら最低限礼儀をきちんとしろ、そういうことだったのだろう。
「私、友人たちに教え方がうまいって言われていたのよ? なのに、“ララ”は何にも変わらなかった。だから、結構早めに諦めちゃったの」
ああ、なるほど。そんなことが書いてあった。
盤面を見つめながら、日記の内容と今の話が、静かに重なっていくのを感じていた。
「それはお手数おかけして、申し訳ありません」
「いいのよ。私が諦めたら、なぜか“ララ”もセルジュを諦めてね。結局“ララ”は、私のそばからいなくなったの。何だったのかしら?」
過去を回想するその口調はどこか楽しげで、余裕すら感じさせた。
「まぁ忘れたの? その後、コリン・ライクスバートに近づいたじゃない」
「そうだったわ。ディアーヌが怒り狂っていたわね。思い出した」
二人の軽やかに交わされる言葉の端々に、当事者にしか分からない因縁が滲む。
ディアーヌ・ライクスバート様が、怒り狂っていた!?
内心で反芻したその言葉に、血の気が引く。
「アイラ、そんなに青い顔しないで。少なくても、私は今のマナーがよく、私とリバーシを良い勝負するあなたのことが気に入ったわ。はい、これで終わり。勝ったわ」
盤上に置かれた最後の一手。柔らかな微笑みとともに流れるように告げられた宣言は、あまりにも自然だった。
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