【完結】記憶にありませんが、責任は取りましょう

楽歩

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36.一年ください

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 しばらく走ったところで、先行していたライクスバート辺境伯夫人の馬がすっと速度を落とした。

 私もそれに合わせて手綱を引き、息を整える。


「ここまで付いてくるとは思わなかったわ」


 振り返ったライクスバート辺境伯夫人の口元には、試すような笑みが浮かんでいる。


「ほ、本当に、ぎりぎりでした」


 胸の鼓動がまだ収まらない。疲れたわ。

 ライクスバート辺境伯夫人は、さすがね。馬裁きが、桁違いにうまい。声にも、微塵の乱れがない。


 視線を外すと、湖が目に入った。


 水面がきらめき、吹き抜ける風が熱を帯びた頬を冷ましてくれる。


 なぜ、ここへ連れて来られたのか。その疑問を胸に、彼女へと向き直る。


「……私に、何かご用があったのですか?」


 探るような問いに、ライクスバート辺境伯夫人はくすりと笑った。


「一番の目的は、私の愛馬の子供たちの様子を見に来たのよ」

 そう言って乗っていた馬の首を軽く叩いたあと、視線がこちらに戻る。


「でもね。王太子妃殿下たちの手紙からあなたの話を知って、どうしてもすぐに会ってみたくなったの」


 何を、どこまで聞いて、会ってみたくなったのかしら。


 沈黙のままでいると、彼女は不意に表情を変え、まっすぐこちらを射抜く。


「アイラ・ウェストレイ。――もし、私が“正々堂々、剣で勝負しなさい”と言ったら、あなたどうする?」


 一瞬、思考が止まる。

 なぜ? 今、ここで?

 小さく息を吸い、正面から答える。


「……1年ください。今の私では、勝負になりません。」


 一拍置いて、深く息を吸い、視線を逸らさずに言い切る。


「特訓します。せめて、“見苦しい敗北”にならない程度には」

 拳を軽く握りしめ、言葉を継ぐ。

 風が強く吹き、二人の間を一気に抜けていった。張り詰めていた空気を、思いがけない笑い声がほどく。


「あはは。冗談よ」

 ライクスバート辺境伯夫人は肩を揺らし、愉快そうに笑った。


「それに、1年じゃ全然足りないわ。でも、そのやる気、嫌いじゃないわ」

 こちらを見据え、はっきりと告げる。

 思わず、息を吐いた。


「……脅かさないでください」


 小さく笑いながらも、本音がこぼれる。



「ふふ。“ララ”が日記を書いていたって聞いたわ」

「え……?」

「私に勝負を挑まれた、って書いていなかった?」


 一瞬、どう答えるべきか迷う。だが、誤魔化す理由も見当たらず、正直に小さく頷いた。


「……はい」

 少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶ。


「剣がお好きなのですね」

 どう言えばいいのか分からないわ。


 ライクスバート辺境伯夫人は、その様子を見てくすりと笑った。そして視線を湖の向こうへ向け、どこか懐かしむように語り出す。


「私ね、辺境伯領の隣の領地で育ったの。周りは皆、剣を使えたわ。だから、誰でも剣くらい扱えるものだと思っていたのよ」


 短い沈黙ののち、彼女はこちらを見据えた。


「あなたは、まったく“ララ”じゃないわね。あの人、いつも逃げていたもの」

 確かに。


「逃げるのは違うかなと思ったのです。私は“ララ”の存在を知ってしまいましたから、何も知らなかったふりをして、無責任に目を背けるのは……たぶん、あとで後悔します」


 風が再び吹き、湖が静かに揺れた。

「ふふ、そうなのね。さあ、帰りも競争よ」

 振り返りざまに、悪戯っぽくそう言われる。

 ええ……。また? 

 唐突だわ。心の準備をさせてほしい。


 そう言いながらも、手綱を握る手に自然と力が入った。結局、再び全力で馬を走らせることになる。


 邸に戻ると、庭にいた者たちの視線が一斉にこちらへ集まった。見知らぬ貴婦人と並んで戻ってきたのだから、無理もない。


「こちら、ライクスバート辺境伯夫人です。湖のそばで出会いまして」

 紹介すると、お父様をはじめ周囲がどよめく。だが当の本人は、にこやかに手を振った。


「そうなの、偶然、ね?」

「……はい、偶然」


 即座に答えると、夫人は満足そうに頷く。


「さあ、子馬のところに案内して」


 私は苦笑しながら先導した。

 さっきまでラルたちが乗っていた子馬は、すでに小屋へ戻されていた。日陰の中で、落ち着いた様子で草を食んでいる。


「こちらです」

 小屋へ向かい、子供たちを呼び集める。一人ひとり紹介すると、ライクスバート辺境伯夫人は頷きながら聞いていた。

 ライクスバート辺境伯夫人は、そのまま子馬のそばへ膝を折り、脚、腹、毛並み、歯の具合まで丁寧に確かめていく。



「順調に育っているわね。このまま、大事に育ててちょうだい」


 細かなところまで確認し終えると、彼女はようやく柔らかな笑みを浮かべた。



「ねえねえ、子馬のお医者さんなの?」

 ラルの無邪気な声が上がる。


「ふふ、そうね。そんなところかしら」

 ライクスバート辺境伯夫人は、そう答えたあと、ふと子供たちの手元に目を留める。


「あら? それは何?」

 ラルたちが大切そうに抱えている籠を見て、私が代わりに説明する。


「これは、子供たち用に作った手入れブラシセットです」

 ライクスバート辺境伯夫人は目を細めた。


「まあ、素敵ね」

 その一言に、子供たちの顔がぱっと輝いた。


「僕たちが馬の世話を上手にできるように、お母様が、作ってくれたの。小さくて、持ちやすい形になっているんだ」

 籠の中を指し示しながら、ラルが胸を張って説明する。

 それを一つ手に取り、ディアーヌ夫人は重さや感触を確かめるように頷く。


「ウェストレイ伯爵夫人?」

 不意に名を呼ばれ、私は顔を上げた。


「私も、これがほしいわ。娘にあげたいの。いつも大人用を使っているから、使いにくそうでね」

 少しだけ声の調子を落とし、母親の顔になる。

 その言葉に、自然と笑みがこぼれた。


「ええ、問題ないですわ。帰りまでに用意します」


 満足そうに頷いたあと、夫人は愛馬の方へ視線を向けた。


「助かるわ。ふふ。こう見えて、私、忙しいの。私も、この子も疲れていないから、このまま戻るつもりだから、よろしくね」

 そう言って、愛馬を軽く撫でながら、いたずらっぽく微笑んだ。











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