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26.お手本の影に沈む者
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「精霊姫様、肩をお下げになって胸を張ってくださいませ。……ああっ、そんなに王太子殿下に寄りかかってはなりません!」
講師であるクロフォード夫人が、もはや怒鳴る寸前の声を上げた。
初めこそ優雅さを保っていた夫人も、今では眉間に深くしわを寄せ、限界の気配を隠しきれていない。
「え? こ、こうですか……?」
無邪気に小首をかしげる精霊姫様。
けれどその“可愛らしさ”が、夫人の忍耐を試しているようだった。
「今度は反りすぎです、精霊姫様! ああ、どうすれば……。あっ! そうだわ!」
くるりとこちらを振り返るクロフォード夫人。
「ウィンチェスター公爵令嬢、ぜひ、ベス様にお手本をお見せいただけませんか?」
その一言に、ベス様の口元が、ぴくりと引きつるのが見えた。眉間に影が差し、動きがぴたりと止まる。
「王太子殿下とウィンチェスター公爵令嬢は、日頃から息がぴったりですもの。精霊姫様に、まずは正しいイメージを持っていただくためにも、一度、お願いできませんか?」
ふふ、クロフォード夫人ならそう言うと思ったわ。
静かに、しかし確かに、ベス様の顔から血の気が引いていく。
高い位置にあった顎が、わずかに下がり、彼女が自尊心を必死に抑え込んでいるのが手に取るようにわかった。
あら……お気の毒
私は、ルキウス様の方へ視線を向ける。彼はいつものように自然な所作で、ゆったりと歩み寄ってきた。
「では、フェリ。お手をどうぞ」
軽やかに腰を折り、手を差し出してくださったその仕草は、気取らず、それでいて一分の隙もない――
「喜んで」
私は応じ、その手を取った。
彼の手が私の手を包む瞬間、指先に柔らかな熱が宿る。
――こんなときでも、私の心は少しだけ騒ぐのね。
ふと、視線の痛みを感じて、さりげなく後ろを見やる。そこには、じっとこちらを見つめるベス様がいた。
口元には微笑、でも目だけは、冷たい。嫉妬、悔しさ、焦り、それらすべてを抑え込んだ瞳が、私を射抜いていた。
彼女の視線が、そこは私の場所よ――
そう語っていた。
けれど、残念ながら、この場所は、私のもの。
舞踏曲の前奏が、静かに、空間を支配するように鳴り始めた。
私たちのステップが舞踏室の中央を滑っていくたびに、ベス様の手が少しずつ強く握られていくのが、ルキウス様越しに見えた。
思わず顔が緩む。
この曲は初歩的なもので構成されている。だけど手は抜かない。
一歩、前へ。二歩、引いて、くるりと回る。視線を絡め、呼吸を合わせ、私とルキウス様の足取りは、音楽の波に身を任せて漂う。
ターンのたびにスカートの裾がふわりと広がり、空気を優雅にすくいあげる。そのすべての動きが、鏡のような床に映える。
ルキウス様のリードは、軽やかで、私を優しく導いてくれる。この手にさえ従えば、私はどこへでも、安心して踊っていける――そんな感覚。
その幸福な流れの中でも、私は気づいていた。
視界の端で、ベス様がこちらを睨みつけているのを。
その悔しさは、もちろん、演技ではないわね。
ふふ、どうぞ、お手本をしっかりと目に焼きつけてくださってね。
曲が終わると同時に、私たちはぴたりと動きを止め、優雅に礼を交わす。
クロフォード夫人様は、笑顔で拍手をしてくれる。
私は、息一つ乱さず、涼しい顔でベス様に向き直った。
「いかがでした? ベス様。少しは参考になりましたかしら?」
ベス様の喉が、小さく上下に動いた。
「……ええ。ありがとうございます。では、忘れないうちに、ルキウス殿下。今度は私と――」
ベス様が手を差し出しかけた、そのときだった。
「すまない。もう時間だ。これで失礼するよ。フェリはどうする?」
王太子の言葉に、ベス様の手が空を切る。伸ばしかけた指先が、虚空に取り残されたようだった。ほんの一瞬、彼女の目が見開かれた。けれどすぐに、表情を引き締める。
それでも――私は見逃さない。彼女の中で何かが静かに崩れる音を。
「私は、ベス様のダンスが少し心配ですので、お世話係としてもう少し残らせていただきますわ」
私は軽く会釈して応じた。けれど視線の先では、ベス様の顔が僅かに強張っていた。
「そうか。じゃあ、またフェリが帰るころに顔を出すよ」
ルキウス様はそう言って、私にひとつ目線を送ると、優雅に踵を返した。
その背に、思わず伸びる細い声。
「えっ、本当に……行ってしまわれるのですか?」
ベス様の声は、意識するよりも早く口をついて出たもののようだった。すがるような目で王太子を見上げるその様子に、周囲の空気が、わずかにざわめく。
ルキウス様は優しげに微笑んで告げた。
「講師のクロフォード夫人とフェリがいる。先生が二人もいれば、すぐに上達するさ。頑張ってね」
それは、教科書にあるような優しい激励だった。
ベス様の表情が、一瞬だけ揺れる。
彼女の作られた微笑みが、ひび割れる。
「……はい」
その返事には、もはや気力も、誇りも、含まれていなかった。
残された彼女の視線は、なおも去っていくルキウス様の背中を追い続けていた。
講師であるクロフォード夫人が、もはや怒鳴る寸前の声を上げた。
初めこそ優雅さを保っていた夫人も、今では眉間に深くしわを寄せ、限界の気配を隠しきれていない。
「え? こ、こうですか……?」
無邪気に小首をかしげる精霊姫様。
けれどその“可愛らしさ”が、夫人の忍耐を試しているようだった。
「今度は反りすぎです、精霊姫様! ああ、どうすれば……。あっ! そうだわ!」
くるりとこちらを振り返るクロフォード夫人。
「ウィンチェスター公爵令嬢、ぜひ、ベス様にお手本をお見せいただけませんか?」
その一言に、ベス様の口元が、ぴくりと引きつるのが見えた。眉間に影が差し、動きがぴたりと止まる。
「王太子殿下とウィンチェスター公爵令嬢は、日頃から息がぴったりですもの。精霊姫様に、まずは正しいイメージを持っていただくためにも、一度、お願いできませんか?」
ふふ、クロフォード夫人ならそう言うと思ったわ。
静かに、しかし確かに、ベス様の顔から血の気が引いていく。
高い位置にあった顎が、わずかに下がり、彼女が自尊心を必死に抑え込んでいるのが手に取るようにわかった。
あら……お気の毒
私は、ルキウス様の方へ視線を向ける。彼はいつものように自然な所作で、ゆったりと歩み寄ってきた。
「では、フェリ。お手をどうぞ」
軽やかに腰を折り、手を差し出してくださったその仕草は、気取らず、それでいて一分の隙もない――
「喜んで」
私は応じ、その手を取った。
彼の手が私の手を包む瞬間、指先に柔らかな熱が宿る。
――こんなときでも、私の心は少しだけ騒ぐのね。
ふと、視線の痛みを感じて、さりげなく後ろを見やる。そこには、じっとこちらを見つめるベス様がいた。
口元には微笑、でも目だけは、冷たい。嫉妬、悔しさ、焦り、それらすべてを抑え込んだ瞳が、私を射抜いていた。
彼女の視線が、そこは私の場所よ――
そう語っていた。
けれど、残念ながら、この場所は、私のもの。
舞踏曲の前奏が、静かに、空間を支配するように鳴り始めた。
私たちのステップが舞踏室の中央を滑っていくたびに、ベス様の手が少しずつ強く握られていくのが、ルキウス様越しに見えた。
思わず顔が緩む。
この曲は初歩的なもので構成されている。だけど手は抜かない。
一歩、前へ。二歩、引いて、くるりと回る。視線を絡め、呼吸を合わせ、私とルキウス様の足取りは、音楽の波に身を任せて漂う。
ターンのたびにスカートの裾がふわりと広がり、空気を優雅にすくいあげる。そのすべての動きが、鏡のような床に映える。
ルキウス様のリードは、軽やかで、私を優しく導いてくれる。この手にさえ従えば、私はどこへでも、安心して踊っていける――そんな感覚。
その幸福な流れの中でも、私は気づいていた。
視界の端で、ベス様がこちらを睨みつけているのを。
その悔しさは、もちろん、演技ではないわね。
ふふ、どうぞ、お手本をしっかりと目に焼きつけてくださってね。
曲が終わると同時に、私たちはぴたりと動きを止め、優雅に礼を交わす。
クロフォード夫人様は、笑顔で拍手をしてくれる。
私は、息一つ乱さず、涼しい顔でベス様に向き直った。
「いかがでした? ベス様。少しは参考になりましたかしら?」
ベス様の喉が、小さく上下に動いた。
「……ええ。ありがとうございます。では、忘れないうちに、ルキウス殿下。今度は私と――」
ベス様が手を差し出しかけた、そのときだった。
「すまない。もう時間だ。これで失礼するよ。フェリはどうする?」
王太子の言葉に、ベス様の手が空を切る。伸ばしかけた指先が、虚空に取り残されたようだった。ほんの一瞬、彼女の目が見開かれた。けれどすぐに、表情を引き締める。
それでも――私は見逃さない。彼女の中で何かが静かに崩れる音を。
「私は、ベス様のダンスが少し心配ですので、お世話係としてもう少し残らせていただきますわ」
私は軽く会釈して応じた。けれど視線の先では、ベス様の顔が僅かに強張っていた。
「そうか。じゃあ、またフェリが帰るころに顔を出すよ」
ルキウス様はそう言って、私にひとつ目線を送ると、優雅に踵を返した。
その背に、思わず伸びる細い声。
「えっ、本当に……行ってしまわれるのですか?」
ベス様の声は、意識するよりも早く口をついて出たもののようだった。すがるような目で王太子を見上げるその様子に、周囲の空気が、わずかにざわめく。
ルキウス様は優しげに微笑んで告げた。
「講師のクロフォード夫人とフェリがいる。先生が二人もいれば、すぐに上達するさ。頑張ってね」
それは、教科書にあるような優しい激励だった。
ベス様の表情が、一瞬だけ揺れる。
彼女の作られた微笑みが、ひび割れる。
「……はい」
その返事には、もはや気力も、誇りも、含まれていなかった。
残された彼女の視線は、なおも去っていくルキウス様の背中を追い続けていた。
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