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第一章 桐島柊子
第五話 ファンサービス
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もう一度会えると約束された直後は高揚していたが、いざ当日の夜になったら落ち着かなくなっていた。お見合い初日より緊張している気がする。柊子は待ち合わせの場所で何度も何度も時計を見ては目を動かしていた。
卓朗はさほど待たないあいだにやってきた。お待たせしました、そんなに待っていないです、というお約束のやりとりも、柊子は半ば放心して喋っている。
今度こそ馬鹿な真似はすまいと決心し、半歩下がって卓朗の肩だけを見て歩いていた。
ふがいないところを見せないためには余計なことをしなければいい。卓朗に話しかけられても、言葉を少なく返事をしていた──尤もこれは緊張のせいもあるが。
卓朗が連れてきてくれた店は半地下で、階段を先に降りる必要があった。卓朗が前を降りていて、柊子は彼のつむじを見ていた。背の高い彼の後頭部を見るのは初めてだと、大きな特徴もないよくある成人男性の頭に気を取られていて、柊子は暗い階段の最後を踏み外してしまった。
「大丈夫ですか?」
卓朗に手を取られても、柊子は驚いて彼の顔を見上げるだけでいっぱいいっぱいだった。自分は卓朗の背中にぶつかってしまったのに、彼はびくともしなかった。
「ごめんなさい。卓朗さんこそ大丈夫なんです?」
平気ですよと、本当に構えず、むしろ彼はまだ柊子に気遣わしげな視線を向けていた。
握られた手があたたかい。自分はこんなにも冷たい手をしていたのか。
自分の手の冷たさを、他人の体温で知る。他人との差分で自分の何かを知ることなど最近では記憶にない。誰かと手を繋ぐという行為さえ、いつからしていないか思い出せない。
柊子はそのまま卓朗に手を引かれて店に入った。和食をベースにした創作料理の店のようで、和洋折衷な名前の店名が印象的だった。個室に通されて向かい会わせで座ったのだが、まだ卓朗は柊子の様子を伺っていた。
「具合が悪いようでしたら、無理はされず言って下さい」
卓朗は視線を、柊子からの彼女の手に移していった。
「やっぱり私、浮かれているのが分かりますか?」
「浮かれている?」
彼はじっと柊子を観察した。
「おれは……済みません、私は『浮かれている』という言葉は、うきうきして踊り出しそうだとかそういう雰囲気のものを指すのだと思っていましたが」
「え、私もそう思っていたんですけど、違いますか?」
柊子が驚いて尋ねると、卓朗はますます眉根を寄せた。
「もう一度卓朗さんに会えると思って、私、浮かれてるんです」
「浮かれて、ます……かね?」
対面の男の困惑など気にもせず、柊子は真剣な顔でうなずいた。
「私、今度こそ卓朗さんによく思ってもらいたいので、一昨日のお見合いのときのように変なこと言わないように気を付けてはいるんですけど、そうしたら緊張してしまって」
卓朗は「ああ」と軽く声を上げた。
「緊張しているんですね。だから手が冷たかった……そんなに俺……私に気遣うことなんてないのに」
「気遣うというより、なんて言うのかしら、ぱっと日本語が出てこないんですけど」
お茶とおしぼりを持ってきてくれた給仕の男性が飲み物を聞いてきた。烏龍茶を二つ注文したのだが、給仕が去っても卓朗はまだ飲み物の品書きを手に持っていた。
「八海山がある」
「え、いいですね」
柊子がすかさず同意すると、卓朗は笑顔を見せた。
「柊子さんはお酒がいける方なんですね」
「好きですよ……あ、下心」
ぎくりと全身を硬直させた卓朗に、柊子は朗らかに笑いかけた。
「そうですよ下心。私は卓朗さんに気を使っているんでなくて、よく見てもらいたいって下心があって緊張してるんです」
卓朗はしばらく固まったままでいたが、ふうと肩の力を抜いて項垂れた。そのリアクションを見て、柊子は余計なことを言ったと手で口を覆う。
どうして私はこう、と柊子は一旦目を閉じた。
「今のは言わなくてもいいことでしたよね」
「そうかも知れませんね」
目を開けると、卓朗は苦笑しながら柊子を見つめていた。軽蔑の色は一切ない視線に安堵し、柊子は手を下ろし、取り繕うように微笑んだ。
お茶と前菜がやってきた。ほうれん草のおひたしは出汁が利いている。
「美味しいです」
「よかった」
卓朗が少しほっとしたように肩の力を抜いて笑っていた。
「柊子さんは普段、飲まれるんです?」
「週に一、二度。梅酒を。クラッカーにチーズを乗せたものを合わせてが好きなんです」
「洒落てますね。俺は無精だからオリーブの塩漬けを瓶から直接に箸で取ってますよ」
「それもおしゃれじゃないですか」
不意に、柊子の脳裏に、卓朗と向かい合ってお酒を嗜む絵が現れた。小さなテーブルにチーズとオリーブを無造作に盛った小皿があり、それを手で摘まんで食べながら、こうして他愛もない話をする。
腰掛けているのは、柊子が修理するあの、洗練された形の椅子。
フィン・ユール。NO. 45。
まさかそんな、私と卓朗さんが一緒に住むなんて。じわっと顔が赤くなった。図々しいにも程がある。
箸を進めしばらくしたころ、卓朗がだしぬけに言った。
「合ってますよ」
「はい?」
「柊子さんの考察です。正解です」
何のことを言われたのか、理解し柊子はゆっくりと顔を綻ばせていった。蕾が春の日差しの中で花開くような、その笑顔を卓朗がじっと見つめる。
「だからあの場所にベンチを置いていたんですね。ありがとうございます」
「ありがとう?」
「あれがなかったら、私、あの構図に気が付かなかったから」
卓朗が柊子につられたように笑った。
「ベンチを置いてはどうかと助言をくれたのは俺の……すみません、私の先輩だったんです」
「言い直さないでいいですよ」
柊子の許可に卓朗は苦笑して「ではお言葉に甘えまして」と前置いた。
「川口先生の『山へ』は俺も好きな絵の一つなんです。あの絵は山に遊びに行こうとしているご子息を描かれていて。記念館の正面向こうに山があるから、そこに向かおうとしている構図にしたいなと」
確かに、あのベンチに腰掛けて川口巌夫記念館を眺めると背に山を負うことになる。
「すごい。そこまでは思いつきませんでした」
「ですが、柊子さんが仰った木の考察は当たってます」
柊子はまず表情を消し、それからはにかんでうつむいた。
「嬉しいです」
「俺も、俺の思ったことを汲んで下さって嬉しかったです」
卓朗は目線を下に置きながら、テーブルに人差し指の爪をこつんと立てた。
「俺も、川口先生が亡くなった息子さんを描いている姿の全てが生前のものだけで、先生自らも成長した姿を描くつもりはないと仰っていたのを読んだことがあります」
柊子がうなずくと、卓朗も合いの手を理解したというようにまたうなずいた。
「川口先生が描きたくないと仰ったのは、それはそうだろうと思える一方で、なんですかね、それこそ冒涜になるかもしれないとは思いつつも……先生の無念を知りつつも、成長している姿も、俺が見たかった、ですかね」
柊子も同じ思いを抱いた。夭逝した子、誰かの子供というよりは、稚い命が儚く消えてしまったことに対する哀悼のように思える。
今度こそ、という気持ちなのかもしれない。
「だから木で、生きている何かで表現したかったんです……それもなるべく成長が遅いものがいい」
「だからイチイなんですね」
卓朗は感嘆した。
「よくご存じですね」
「調べたんです。知りたかったんです」
卓朗は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
唐突に礼を言われ、柊子は首を傾げた。
「ベンチに座ってくださって、構図に気付いてくれたかと思って、不躾だとは思いながらも結局気になって、柊子さんに話しかけにいきました、あのとき。お礼も言いたくて」
「お礼なんて」
「嬉しかったです。木のことまで、俺が考えていたことを理解してくれた」
それまで柊子に視線を合わせていた卓朗が、ふっと目を伏せた。
「下心がありました」
「私のことです?」
「俺です」
卓朗はお茶のグラスに口を付けた。傾きに合わせて氷が鳴った。
「あのとき、去ってしまった柊子さんに声をかけようか迷ってました。それこそナンパだと思われたくなくて躊躇したんですけど、ずっと後悔していました」
何も言えず、黙っている柊子に卓朗は苦い笑みを見せた。
「俺もありますよ。下心。柊子さんだけじゃない」
「卓朗さん、でも?」
「俺の方が下心ばかりだと思います」
「どんな?」
卓朗は失笑した。
「いろいろと。今の時点では口に出せないようなものも」
「え?」
「今のは言わなくていいものでしたね」
「そう……なんです?」
卓朗はちらと視線を上げた。
「俺も柊子さんにいい印象を持ってもらって、結婚相手として意識してもらいたいです」
もう一度、次は柊子のグラスの氷がカランと音を立てた。卓朗は驚いたままの柊子に軽く首を傾け、彼女の目を覗き込むように視線を合わせた。
「卓朗さんは、私と結婚したいんですか?」
素朴に問われた相手は口角を上げた。
「なんとなくそう仰るだろうとは思いましたよ」
ただし、と彼は箸を取った。
「俺にもまだ分かりません。ですが、桐島先生のおかげでできた柊子さんとの縁をまだ今の時点で切りたくはありません」
卓朗は刺身を口に運んだ。彼の、美しい箸使いをじっと見る。
柊子は箸を動かすことすらできなかった。第三者の目から見れば当たり前である。彼はお見合いの相手で、まだ繋がっている糸を切るつもりがないから柊子に会いたいと言ったのだ。それなのに自分のことだと未だ実感が湧かない。
「絵の考察の、答合わせをするためだと思っていました」
「それだけなら電話で済むでしょう。わざわざこうして会おうなんて言いません」
「それは、ファンサだと思っていました」
これには卓朗も目を見開いた。
「ファンサ?」
「私、卓朗さんのファンだから」
「俺?」
卓朗は眉をひそめ、そして顔を背けた。
「やっぱりあなたの言うことは予測できない」
「私、川口巌夫記念館記念館を見て、すごく感動したんです。だからデザインされた卓朗さんに会えるって分かって嬉しかったし、今も光栄だって浮かれてるんです」
卓朗は顔を背けたままでちらと柊子に視線だけ送ったが、箸を置いてきちんと正面から柊子に顔を向けた。
「クリエイターとしては俺も嬉しいですが、できれば俺のことを、肩書きではなく一人の男……人間として見てもらえませんか」
そんなことは許されるのか。柊子が自問していると、その惑いを卓朗は読んだのか、柊子に猶予を持たせるように目を伏せた。
「無理にとはいいませんよ」
「無理というより」
「なんでしょう」
上手く言葉が出てこず、柊子は黙り込んでしまって、上目で卓朗を見た。卓朗はそれ以上追求してこず、卓上の料理に再び箸を運び始めた。
やはり綺麗な箸運びだと柊子は思いながら、卓朗の言葉を頭で反芻した。
一人の人間として見てほしい──言い換えるなら、多少なりとも彼はこちらのことを一人の人間として、女性として認識し、まだ縁を切りたくないと思ってくれているのだ。
そんな夢のようなことが、本当にあり得るのか。
エンドウ豆とにんじんの際の目切りが入った、菊のかたちをしたにこごりを柊子は口に運んだ。だしが効いたそれを味わい、お茶に口をつける。
あまりのおいしさに、場に酔ってしまいそう。
柊子はほっと贅沢な息をはいた。
卓朗はさほど待たないあいだにやってきた。お待たせしました、そんなに待っていないです、というお約束のやりとりも、柊子は半ば放心して喋っている。
今度こそ馬鹿な真似はすまいと決心し、半歩下がって卓朗の肩だけを見て歩いていた。
ふがいないところを見せないためには余計なことをしなければいい。卓朗に話しかけられても、言葉を少なく返事をしていた──尤もこれは緊張のせいもあるが。
卓朗が連れてきてくれた店は半地下で、階段を先に降りる必要があった。卓朗が前を降りていて、柊子は彼のつむじを見ていた。背の高い彼の後頭部を見るのは初めてだと、大きな特徴もないよくある成人男性の頭に気を取られていて、柊子は暗い階段の最後を踏み外してしまった。
「大丈夫ですか?」
卓朗に手を取られても、柊子は驚いて彼の顔を見上げるだけでいっぱいいっぱいだった。自分は卓朗の背中にぶつかってしまったのに、彼はびくともしなかった。
「ごめんなさい。卓朗さんこそ大丈夫なんです?」
平気ですよと、本当に構えず、むしろ彼はまだ柊子に気遣わしげな視線を向けていた。
握られた手があたたかい。自分はこんなにも冷たい手をしていたのか。
自分の手の冷たさを、他人の体温で知る。他人との差分で自分の何かを知ることなど最近では記憶にない。誰かと手を繋ぐという行為さえ、いつからしていないか思い出せない。
柊子はそのまま卓朗に手を引かれて店に入った。和食をベースにした創作料理の店のようで、和洋折衷な名前の店名が印象的だった。個室に通されて向かい会わせで座ったのだが、まだ卓朗は柊子の様子を伺っていた。
「具合が悪いようでしたら、無理はされず言って下さい」
卓朗は視線を、柊子からの彼女の手に移していった。
「やっぱり私、浮かれているのが分かりますか?」
「浮かれている?」
彼はじっと柊子を観察した。
「おれは……済みません、私は『浮かれている』という言葉は、うきうきして踊り出しそうだとかそういう雰囲気のものを指すのだと思っていましたが」
「え、私もそう思っていたんですけど、違いますか?」
柊子が驚いて尋ねると、卓朗はますます眉根を寄せた。
「もう一度卓朗さんに会えると思って、私、浮かれてるんです」
「浮かれて、ます……かね?」
対面の男の困惑など気にもせず、柊子は真剣な顔でうなずいた。
「私、今度こそ卓朗さんによく思ってもらいたいので、一昨日のお見合いのときのように変なこと言わないように気を付けてはいるんですけど、そうしたら緊張してしまって」
卓朗は「ああ」と軽く声を上げた。
「緊張しているんですね。だから手が冷たかった……そんなに俺……私に気遣うことなんてないのに」
「気遣うというより、なんて言うのかしら、ぱっと日本語が出てこないんですけど」
お茶とおしぼりを持ってきてくれた給仕の男性が飲み物を聞いてきた。烏龍茶を二つ注文したのだが、給仕が去っても卓朗はまだ飲み物の品書きを手に持っていた。
「八海山がある」
「え、いいですね」
柊子がすかさず同意すると、卓朗は笑顔を見せた。
「柊子さんはお酒がいける方なんですね」
「好きですよ……あ、下心」
ぎくりと全身を硬直させた卓朗に、柊子は朗らかに笑いかけた。
「そうですよ下心。私は卓朗さんに気を使っているんでなくて、よく見てもらいたいって下心があって緊張してるんです」
卓朗はしばらく固まったままでいたが、ふうと肩の力を抜いて項垂れた。そのリアクションを見て、柊子は余計なことを言ったと手で口を覆う。
どうして私はこう、と柊子は一旦目を閉じた。
「今のは言わなくてもいいことでしたよね」
「そうかも知れませんね」
目を開けると、卓朗は苦笑しながら柊子を見つめていた。軽蔑の色は一切ない視線に安堵し、柊子は手を下ろし、取り繕うように微笑んだ。
お茶と前菜がやってきた。ほうれん草のおひたしは出汁が利いている。
「美味しいです」
「よかった」
卓朗が少しほっとしたように肩の力を抜いて笑っていた。
「柊子さんは普段、飲まれるんです?」
「週に一、二度。梅酒を。クラッカーにチーズを乗せたものを合わせてが好きなんです」
「洒落てますね。俺は無精だからオリーブの塩漬けを瓶から直接に箸で取ってますよ」
「それもおしゃれじゃないですか」
不意に、柊子の脳裏に、卓朗と向かい合ってお酒を嗜む絵が現れた。小さなテーブルにチーズとオリーブを無造作に盛った小皿があり、それを手で摘まんで食べながら、こうして他愛もない話をする。
腰掛けているのは、柊子が修理するあの、洗練された形の椅子。
フィン・ユール。NO. 45。
まさかそんな、私と卓朗さんが一緒に住むなんて。じわっと顔が赤くなった。図々しいにも程がある。
箸を進めしばらくしたころ、卓朗がだしぬけに言った。
「合ってますよ」
「はい?」
「柊子さんの考察です。正解です」
何のことを言われたのか、理解し柊子はゆっくりと顔を綻ばせていった。蕾が春の日差しの中で花開くような、その笑顔を卓朗がじっと見つめる。
「だからあの場所にベンチを置いていたんですね。ありがとうございます」
「ありがとう?」
「あれがなかったら、私、あの構図に気が付かなかったから」
卓朗が柊子につられたように笑った。
「ベンチを置いてはどうかと助言をくれたのは俺の……すみません、私の先輩だったんです」
「言い直さないでいいですよ」
柊子の許可に卓朗は苦笑して「ではお言葉に甘えまして」と前置いた。
「川口先生の『山へ』は俺も好きな絵の一つなんです。あの絵は山に遊びに行こうとしているご子息を描かれていて。記念館の正面向こうに山があるから、そこに向かおうとしている構図にしたいなと」
確かに、あのベンチに腰掛けて川口巌夫記念館を眺めると背に山を負うことになる。
「すごい。そこまでは思いつきませんでした」
「ですが、柊子さんが仰った木の考察は当たってます」
柊子はまず表情を消し、それからはにかんでうつむいた。
「嬉しいです」
「俺も、俺の思ったことを汲んで下さって嬉しかったです」
卓朗は目線を下に置きながら、テーブルに人差し指の爪をこつんと立てた。
「俺も、川口先生が亡くなった息子さんを描いている姿の全てが生前のものだけで、先生自らも成長した姿を描くつもりはないと仰っていたのを読んだことがあります」
柊子がうなずくと、卓朗も合いの手を理解したというようにまたうなずいた。
「川口先生が描きたくないと仰ったのは、それはそうだろうと思える一方で、なんですかね、それこそ冒涜になるかもしれないとは思いつつも……先生の無念を知りつつも、成長している姿も、俺が見たかった、ですかね」
柊子も同じ思いを抱いた。夭逝した子、誰かの子供というよりは、稚い命が儚く消えてしまったことに対する哀悼のように思える。
今度こそ、という気持ちなのかもしれない。
「だから木で、生きている何かで表現したかったんです……それもなるべく成長が遅いものがいい」
「だからイチイなんですね」
卓朗は感嘆した。
「よくご存じですね」
「調べたんです。知りたかったんです」
卓朗は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
唐突に礼を言われ、柊子は首を傾げた。
「ベンチに座ってくださって、構図に気付いてくれたかと思って、不躾だとは思いながらも結局気になって、柊子さんに話しかけにいきました、あのとき。お礼も言いたくて」
「お礼なんて」
「嬉しかったです。木のことまで、俺が考えていたことを理解してくれた」
それまで柊子に視線を合わせていた卓朗が、ふっと目を伏せた。
「下心がありました」
「私のことです?」
「俺です」
卓朗はお茶のグラスに口を付けた。傾きに合わせて氷が鳴った。
「あのとき、去ってしまった柊子さんに声をかけようか迷ってました。それこそナンパだと思われたくなくて躊躇したんですけど、ずっと後悔していました」
何も言えず、黙っている柊子に卓朗は苦い笑みを見せた。
「俺もありますよ。下心。柊子さんだけじゃない」
「卓朗さん、でも?」
「俺の方が下心ばかりだと思います」
「どんな?」
卓朗は失笑した。
「いろいろと。今の時点では口に出せないようなものも」
「え?」
「今のは言わなくていいものでしたね」
「そう……なんです?」
卓朗はちらと視線を上げた。
「俺も柊子さんにいい印象を持ってもらって、結婚相手として意識してもらいたいです」
もう一度、次は柊子のグラスの氷がカランと音を立てた。卓朗は驚いたままの柊子に軽く首を傾け、彼女の目を覗き込むように視線を合わせた。
「卓朗さんは、私と結婚したいんですか?」
素朴に問われた相手は口角を上げた。
「なんとなくそう仰るだろうとは思いましたよ」
ただし、と彼は箸を取った。
「俺にもまだ分かりません。ですが、桐島先生のおかげでできた柊子さんとの縁をまだ今の時点で切りたくはありません」
卓朗は刺身を口に運んだ。彼の、美しい箸使いをじっと見る。
柊子は箸を動かすことすらできなかった。第三者の目から見れば当たり前である。彼はお見合いの相手で、まだ繋がっている糸を切るつもりがないから柊子に会いたいと言ったのだ。それなのに自分のことだと未だ実感が湧かない。
「絵の考察の、答合わせをするためだと思っていました」
「それだけなら電話で済むでしょう。わざわざこうして会おうなんて言いません」
「それは、ファンサだと思っていました」
これには卓朗も目を見開いた。
「ファンサ?」
「私、卓朗さんのファンだから」
「俺?」
卓朗は眉をひそめ、そして顔を背けた。
「やっぱりあなたの言うことは予測できない」
「私、川口巌夫記念館記念館を見て、すごく感動したんです。だからデザインされた卓朗さんに会えるって分かって嬉しかったし、今も光栄だって浮かれてるんです」
卓朗は顔を背けたままでちらと柊子に視線だけ送ったが、箸を置いてきちんと正面から柊子に顔を向けた。
「クリエイターとしては俺も嬉しいですが、できれば俺のことを、肩書きではなく一人の男……人間として見てもらえませんか」
そんなことは許されるのか。柊子が自問していると、その惑いを卓朗は読んだのか、柊子に猶予を持たせるように目を伏せた。
「無理にとはいいませんよ」
「無理というより」
「なんでしょう」
上手く言葉が出てこず、柊子は黙り込んでしまって、上目で卓朗を見た。卓朗はそれ以上追求してこず、卓上の料理に再び箸を運び始めた。
やはり綺麗な箸運びだと柊子は思いながら、卓朗の言葉を頭で反芻した。
一人の人間として見てほしい──言い換えるなら、多少なりとも彼はこちらのことを一人の人間として、女性として認識し、まだ縁を切りたくないと思ってくれているのだ。
そんな夢のようなことが、本当にあり得るのか。
エンドウ豆とにんじんの際の目切りが入った、菊のかたちをしたにこごりを柊子は口に運んだ。だしが効いたそれを味わい、お茶に口をつける。
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