16 / 29
第二章 松井卓朗
第三話 下心あり
しおりを挟む
柊子はやはり、身の置き所がないかのように立っていた。
彼女は待ち合わせの駅の改札を出たところで、携帯を見て時間を潰すということもせず、やや顔を俯かせただ立っていた。
単に惹かれているからそう思うだけなのかもしれないが、彼女は異質な雰囲気を持っていて、目が追ってしまう。柊子は卓朗に気付くなり顔を綻ばせた。
待ちに待った人間に会ったかのような顔をする。美しい容姿で、今にも折れる風情で頼りなく、男を簡単に虜にする。
卓朗の、その欲望そのものが自身を冷静にもさせた。
これほどに惹かれることに恐ろしさが募る。
しかも、彼女はやはり異質だ。異次元の人間を相手にしているような気がする。柊子は何かのイメージに近い。語彙として喉まで出かかっているという状態で、卓朗は彼女を表す言葉をまだ見つけられずにいた。
柊子は先日の電話にて、嬉しそうな声で会いたいと言ってくれていたが、実際会ってみると暗かった。
あれから間をおかずに約束をしたが、すでに冷めたのだろうか。女心というより、柊子が特別読めない人なのだろう。
道中二人はほぼ無言だった。予約した店は、屋外の階段から降りた地下に入り口がある。柊子は階段の最後の段を降りた辺りで、先を歩いていた卓朗にぶつかってきた。
ぶつかったといっても、柊子の肩が卓朗の背に軽く当たった程度だった。しかし驚き卓朗は振り返って、まだ前のめりになっている彼女の手を掴んだ。
相変わらず柊子の手は、今まで水仕事をしていたかのように冷たかった。しかも震えてもいる。
上げた顔もどこか青い。暗く沈んでいるように見えたのは、気分が優れなかったせいではないか。
柊子は、卓朗に握られた手がそのままでも気にしていないようだ。それで余計に、介助が必要なほど具合が悪いのかと考えた。
「具合が悪いようでしたら、無理はされず言って下さい」
店内の席に座り卓朗は、さっきまで握っていたにも関わらず、ずっと冷たかった柊子の手に目をやった。彼女ははっとして、そして目を伏せた。
「やっぱり私、浮かれているのが分かりますか?」
「浮かれている?」
ラテン語ではない。日本語だ。
突然だが「姑息」という言葉がある。卓朗はこれまで「ずるい」というニュアンスの意味だと認識していたが、本来は「その場しのぎ」という意味ということを先日知った。それがあって、卓朗は「浮かれている」も自分が勘違いをしていただけで、本当は別の意味があるのかと、一応考慮してみた。
「おれは……済みません、私は『浮かれている』という言葉は、うきうきして踊り出しそうだとかそういう雰囲気のものを指すのだと思っていましたが」
「え、私もそう思っていたんですけど、違いますか?」
合っているらしい。卓朗はますます困惑した。
「もう一度卓朗さんに会えると思って、私、浮かれてるんです」
「浮かれて、ます……かね?」
卓朗の「あなたは何を言っているんだ」という顔に、柊子は実に真面目な顔を返した。
「私、今度こそ卓朗さんによく思ってもらいたいので、一昨日のお見合いのときのように変なこと言わないように気を付けてはいるんですけど、そうしたら変に緊張してしまって」
緊張という言葉に納得した。手が冷たいのはそういうことなのかと。初回の見合いの席でも、彼女に重ねられた手は異様に冷たかった。
洗練された外見から、勝手に世慣れていると思い込んでいたが、桐島美晴の言葉や柊子自身の言動からも察するに、むしろ柊子は浮世離れしているのだろう。
常に感じていた、身の置き所がなさそうな不安な様子も、本当に人と会うのに慣れていない可能性があるとも思えるようになった。
卓朗はほっと、少しばかり自分本位な安心を抱き息を吐いた。
「緊張しているんですね。だから手が冷たかった……そんなに俺……私に気遣うことなんてないのに」
「気遣うというより、なんて言うのかしら、ぱっと日本語が出てこないんですけど」
給仕の男性が顔を出し、柊子の話は一旦中断された。卓朗と柊子のそれぞれに飲み物用のメニューが渡された。
柊子と会う前に卓朗は店選びについて、見合いの心得について助言をくれた友人と、会社の先輩にそれぞれ助言をもらった。面白いのは二人ともここには来たことがないことだ。友人は別の婚活仲間から、行ってみて相手に好評だった店を聞き、先輩は職場の女子社員に聞いたそうだ。
二人曰く、女性が好む店は女性に聞くのが一番だと。至極尤もである。
ただ、会ってすぐの相手とお酒を飲むのは避けた方がいい。無難に烏龍茶を頼んだのだが、卓朗は正直なことをいえばお酒を呑みたかった。また別の機会があれば友人と来てもいいかもしれないと考え、まだなお飲み物の品書きを見ていた。
「八海山がある」
「え、いいですね」
卓朗は顔を上げた。柊子は少し前のめりで卓朗の持った品書きを見ていた。
「柊子さんはお酒がいける方なんですね」
「好きですよ」
にこりと微笑む顔が嘘ではないのが分かる。
思わず、頬を赤くしてお酒を嗜む柊子のしどけない姿を想像してしまったときだった。
「あ、下心」
見事言い当てられ、卓朗は顔を強ばらせた。柊子といえば顔を明るくして手を合わせていた。
「そうですよ下心。私は卓朗さんに気を使っているんでなくて、よく見てもらいたいって下心があって緊張してるんです」
朗らかで嫌味がない言い方だった。卓朗ははあと、緊張していた肩の力を抜いた。そのまま項垂れたいほど脱力した。
柊子は、それで何か勘違いをしているらしい。しゅんとして、彼女が顔を伏せてしまった。
「今のは言わなくてもいいことでしたよね」
「そうかもしれませんね」
こちらの寿命が縮まるという点では全くの同意である。
まるで見計らってくれたかのように、給仕がお茶と前菜を持ってきた。
前菜はほうれん草と揚げのおひたしに、昆布の佃煮だ。ますますお酒が恋しくなると思いながら箸を付けた。
味は濃くなく、しかし出汁が利いていて美味しかった。酒のつまみでなくても楽しめるものだった。
柊子も同じものを口に含み、静かに微笑んだ。
「美味しいです」
「よかった」
女性が──柊子が、対面で美味しいと機嫌良くものを食べている。それだけで可愛らしい。ここを選んでよかったと心底思った。単純にもほどがある。
さらに単純なことに将来もこんなふうに、次はお酒を酌み交わせるようになればいいなど、酔ってもいない頭で卓朗はのぼせて想像した。
話せば話すほど、理解し難くなる柊子のことを見ていたい。全てを知り理解など無理だが、できないことが、むしろ永遠にこの感情が続くなら、それがいいと思えた。
食事を終え、二人は店を出た。
話をしながら、先を歩く柊子の後ろについて、階段を上がっていた。喋りながら華奢な背中を、不躾にじっと見ていると、目の前で柊子はバランスを崩した。卓朗は反射で手を出し、階段から落ちそうになっていた柊子を抱えた。
ほっそりとして、なのに柔らかい肢体の感触を、卓朗は半身で受け取った。不意に、名前が分からない好ましい香りが鼻に届く。いきなりどうしてと思ったが、柊子の香りだと気付き、鼓動が早くなった。
柊子は卓朗にしがみついている。彼女の鼓動も早くなっていた。階段から落ちそうになったのだからそうだろうとは思いつつ、自分を頼りにしている構図に、いろいろな思いが渦巻いた。
「大丈夫ですか?」
自身に非はないと思っているが、女性に抱きつかれ、声から欲が漏れていないか焦ってしまう。
「立てますか?」
離れてほしいと思った。下心がバレてしまう前に。
「く、くつ、が」
柊子は靴を落としていたのだ。そんな音がしていたが、柊子自身に気を取られていた。柊子を支え手すりに手を置かせて、問題なく立てることを確認してから、卓朗は彼女の、落ちていた靴を拾った。
使い込まれた薄いローファーは、卓朗の手で持つと一層華奢に思える。目前で、片足だけで頼りなく立っている持ち主のように。
卓朗は屈み、柊子の足のすぐ前に彼女のローファーを置いた。
「寒いですか?」
柊子のお礼を受けてから、卓朗は聞いたのだが、正直それを確かめたいとは思っていない。動揺しているのを気取られたくないから、話題にしただけだった。けれど、柊子は心許なげにそうかもしれないと言った。
少しためらったものの、卓朗は手を差し出した。
「手をおつなぎしましょうか?」
十割の下心──先刻に柊子に言い当てられたそれの、まだ表に出しても許されそうな類いのものを──柊子に示した。
罠にかけられた美しく無垢な動物のように、柊子はするりと手を握ってきた。
冷たい手。
「相変わらず手が冷たいですね」
靴を落とすという行為で連想していたシンデレラから、ふと、先日から柊子が何かを連想させる何かが出てきそうになった。けれども、思い出せないまま、近くなった何かはゆるゆると霞掛かり遠ざかっていく。
階段を上り終え卓朗は、自分こそ酔った勢いで手を繋ごうなど言ってしまったことを恥ずかしく感じてきた。手を離そうと緩めたとき、柊子は逆に、それを離さないとばかりに握ってくる。
彼女の手は、自分の体温が移動して、少しだけあたたかくなっていた。
熱伝導というキーワードから、ジュールの法則も芋ずるに脳に湧き出てきた。卓朗は式を脳内でそらんじていた。
駅に着いてしまった。改札が見えたときに卓朗が思ったのはそれだった。着いてしまった、とうとう。
手を離さなければいけない。彼女を帰さなければいけない。
家の前まで送っていくほど、まだ親しくない。
卓朗は手の力を抜いた。柊子もその流れで手を離した。今夜は帰りたくないなどと言う、柊子が卓朗にそう懇願する絵面を妄想し、自分のバカさ加減に呆れた。
柊子は卓朗に手土産を渡したあと、さようならと会釈をして改札を通っていった。その背を見つめていたのだが、卓朗の念が通じたように、柊子は階段を降りる前で振り返った。
すでに、もう一度会いたい。自分も改札を抜けて、彼女を抱き上げ連れ去りたい。
触れたくてしかたがない。もう一度、腕のなかに抱きしめたい。
願わくば、彼女も同じ思いでいてくれたらいい。触れてほしいと思っていてくれればいい。
クリエイターとして崇められるだけでなく、男として見られたい。
彼女は待ち合わせの駅の改札を出たところで、携帯を見て時間を潰すということもせず、やや顔を俯かせただ立っていた。
単に惹かれているからそう思うだけなのかもしれないが、彼女は異質な雰囲気を持っていて、目が追ってしまう。柊子は卓朗に気付くなり顔を綻ばせた。
待ちに待った人間に会ったかのような顔をする。美しい容姿で、今にも折れる風情で頼りなく、男を簡単に虜にする。
卓朗の、その欲望そのものが自身を冷静にもさせた。
これほどに惹かれることに恐ろしさが募る。
しかも、彼女はやはり異質だ。異次元の人間を相手にしているような気がする。柊子は何かのイメージに近い。語彙として喉まで出かかっているという状態で、卓朗は彼女を表す言葉をまだ見つけられずにいた。
柊子は先日の電話にて、嬉しそうな声で会いたいと言ってくれていたが、実際会ってみると暗かった。
あれから間をおかずに約束をしたが、すでに冷めたのだろうか。女心というより、柊子が特別読めない人なのだろう。
道中二人はほぼ無言だった。予約した店は、屋外の階段から降りた地下に入り口がある。柊子は階段の最後の段を降りた辺りで、先を歩いていた卓朗にぶつかってきた。
ぶつかったといっても、柊子の肩が卓朗の背に軽く当たった程度だった。しかし驚き卓朗は振り返って、まだ前のめりになっている彼女の手を掴んだ。
相変わらず柊子の手は、今まで水仕事をしていたかのように冷たかった。しかも震えてもいる。
上げた顔もどこか青い。暗く沈んでいるように見えたのは、気分が優れなかったせいではないか。
柊子は、卓朗に握られた手がそのままでも気にしていないようだ。それで余計に、介助が必要なほど具合が悪いのかと考えた。
「具合が悪いようでしたら、無理はされず言って下さい」
店内の席に座り卓朗は、さっきまで握っていたにも関わらず、ずっと冷たかった柊子の手に目をやった。彼女ははっとして、そして目を伏せた。
「やっぱり私、浮かれているのが分かりますか?」
「浮かれている?」
ラテン語ではない。日本語だ。
突然だが「姑息」という言葉がある。卓朗はこれまで「ずるい」というニュアンスの意味だと認識していたが、本来は「その場しのぎ」という意味ということを先日知った。それがあって、卓朗は「浮かれている」も自分が勘違いをしていただけで、本当は別の意味があるのかと、一応考慮してみた。
「おれは……済みません、私は『浮かれている』という言葉は、うきうきして踊り出しそうだとかそういう雰囲気のものを指すのだと思っていましたが」
「え、私もそう思っていたんですけど、違いますか?」
合っているらしい。卓朗はますます困惑した。
「もう一度卓朗さんに会えると思って、私、浮かれてるんです」
「浮かれて、ます……かね?」
卓朗の「あなたは何を言っているんだ」という顔に、柊子は実に真面目な顔を返した。
「私、今度こそ卓朗さんによく思ってもらいたいので、一昨日のお見合いのときのように変なこと言わないように気を付けてはいるんですけど、そうしたら変に緊張してしまって」
緊張という言葉に納得した。手が冷たいのはそういうことなのかと。初回の見合いの席でも、彼女に重ねられた手は異様に冷たかった。
洗練された外見から、勝手に世慣れていると思い込んでいたが、桐島美晴の言葉や柊子自身の言動からも察するに、むしろ柊子は浮世離れしているのだろう。
常に感じていた、身の置き所がなさそうな不安な様子も、本当に人と会うのに慣れていない可能性があるとも思えるようになった。
卓朗はほっと、少しばかり自分本位な安心を抱き息を吐いた。
「緊張しているんですね。だから手が冷たかった……そんなに俺……私に気遣うことなんてないのに」
「気遣うというより、なんて言うのかしら、ぱっと日本語が出てこないんですけど」
給仕の男性が顔を出し、柊子の話は一旦中断された。卓朗と柊子のそれぞれに飲み物用のメニューが渡された。
柊子と会う前に卓朗は店選びについて、見合いの心得について助言をくれた友人と、会社の先輩にそれぞれ助言をもらった。面白いのは二人ともここには来たことがないことだ。友人は別の婚活仲間から、行ってみて相手に好評だった店を聞き、先輩は職場の女子社員に聞いたそうだ。
二人曰く、女性が好む店は女性に聞くのが一番だと。至極尤もである。
ただ、会ってすぐの相手とお酒を飲むのは避けた方がいい。無難に烏龍茶を頼んだのだが、卓朗は正直なことをいえばお酒を呑みたかった。また別の機会があれば友人と来てもいいかもしれないと考え、まだなお飲み物の品書きを見ていた。
「八海山がある」
「え、いいですね」
卓朗は顔を上げた。柊子は少し前のめりで卓朗の持った品書きを見ていた。
「柊子さんはお酒がいける方なんですね」
「好きですよ」
にこりと微笑む顔が嘘ではないのが分かる。
思わず、頬を赤くしてお酒を嗜む柊子のしどけない姿を想像してしまったときだった。
「あ、下心」
見事言い当てられ、卓朗は顔を強ばらせた。柊子といえば顔を明るくして手を合わせていた。
「そうですよ下心。私は卓朗さんに気を使っているんでなくて、よく見てもらいたいって下心があって緊張してるんです」
朗らかで嫌味がない言い方だった。卓朗ははあと、緊張していた肩の力を抜いた。そのまま項垂れたいほど脱力した。
柊子は、それで何か勘違いをしているらしい。しゅんとして、彼女が顔を伏せてしまった。
「今のは言わなくてもいいことでしたよね」
「そうかもしれませんね」
こちらの寿命が縮まるという点では全くの同意である。
まるで見計らってくれたかのように、給仕がお茶と前菜を持ってきた。
前菜はほうれん草と揚げのおひたしに、昆布の佃煮だ。ますますお酒が恋しくなると思いながら箸を付けた。
味は濃くなく、しかし出汁が利いていて美味しかった。酒のつまみでなくても楽しめるものだった。
柊子も同じものを口に含み、静かに微笑んだ。
「美味しいです」
「よかった」
女性が──柊子が、対面で美味しいと機嫌良くものを食べている。それだけで可愛らしい。ここを選んでよかったと心底思った。単純にもほどがある。
さらに単純なことに将来もこんなふうに、次はお酒を酌み交わせるようになればいいなど、酔ってもいない頭で卓朗はのぼせて想像した。
話せば話すほど、理解し難くなる柊子のことを見ていたい。全てを知り理解など無理だが、できないことが、むしろ永遠にこの感情が続くなら、それがいいと思えた。
食事を終え、二人は店を出た。
話をしながら、先を歩く柊子の後ろについて、階段を上がっていた。喋りながら華奢な背中を、不躾にじっと見ていると、目の前で柊子はバランスを崩した。卓朗は反射で手を出し、階段から落ちそうになっていた柊子を抱えた。
ほっそりとして、なのに柔らかい肢体の感触を、卓朗は半身で受け取った。不意に、名前が分からない好ましい香りが鼻に届く。いきなりどうしてと思ったが、柊子の香りだと気付き、鼓動が早くなった。
柊子は卓朗にしがみついている。彼女の鼓動も早くなっていた。階段から落ちそうになったのだからそうだろうとは思いつつ、自分を頼りにしている構図に、いろいろな思いが渦巻いた。
「大丈夫ですか?」
自身に非はないと思っているが、女性に抱きつかれ、声から欲が漏れていないか焦ってしまう。
「立てますか?」
離れてほしいと思った。下心がバレてしまう前に。
「く、くつ、が」
柊子は靴を落としていたのだ。そんな音がしていたが、柊子自身に気を取られていた。柊子を支え手すりに手を置かせて、問題なく立てることを確認してから、卓朗は彼女の、落ちていた靴を拾った。
使い込まれた薄いローファーは、卓朗の手で持つと一層華奢に思える。目前で、片足だけで頼りなく立っている持ち主のように。
卓朗は屈み、柊子の足のすぐ前に彼女のローファーを置いた。
「寒いですか?」
柊子のお礼を受けてから、卓朗は聞いたのだが、正直それを確かめたいとは思っていない。動揺しているのを気取られたくないから、話題にしただけだった。けれど、柊子は心許なげにそうかもしれないと言った。
少しためらったものの、卓朗は手を差し出した。
「手をおつなぎしましょうか?」
十割の下心──先刻に柊子に言い当てられたそれの、まだ表に出しても許されそうな類いのものを──柊子に示した。
罠にかけられた美しく無垢な動物のように、柊子はするりと手を握ってきた。
冷たい手。
「相変わらず手が冷たいですね」
靴を落とすという行為で連想していたシンデレラから、ふと、先日から柊子が何かを連想させる何かが出てきそうになった。けれども、思い出せないまま、近くなった何かはゆるゆると霞掛かり遠ざかっていく。
階段を上り終え卓朗は、自分こそ酔った勢いで手を繋ごうなど言ってしまったことを恥ずかしく感じてきた。手を離そうと緩めたとき、柊子は逆に、それを離さないとばかりに握ってくる。
彼女の手は、自分の体温が移動して、少しだけあたたかくなっていた。
熱伝導というキーワードから、ジュールの法則も芋ずるに脳に湧き出てきた。卓朗は式を脳内でそらんじていた。
駅に着いてしまった。改札が見えたときに卓朗が思ったのはそれだった。着いてしまった、とうとう。
手を離さなければいけない。彼女を帰さなければいけない。
家の前まで送っていくほど、まだ親しくない。
卓朗は手の力を抜いた。柊子もその流れで手を離した。今夜は帰りたくないなどと言う、柊子が卓朗にそう懇願する絵面を妄想し、自分のバカさ加減に呆れた。
柊子は卓朗に手土産を渡したあと、さようならと会釈をして改札を通っていった。その背を見つめていたのだが、卓朗の念が通じたように、柊子は階段を降りる前で振り返った。
すでに、もう一度会いたい。自分も改札を抜けて、彼女を抱き上げ連れ去りたい。
触れたくてしかたがない。もう一度、腕のなかに抱きしめたい。
願わくば、彼女も同じ思いでいてくれたらいい。触れてほしいと思っていてくれればいい。
クリエイターとして崇められるだけでなく、男として見られたい。
1
あなたにおすすめの小説
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
惚れた男は根暗で陰気な同僚でした【完結】
Lynx🐈⬛
恋愛
イベント企画会社に勤める水木 茉穂は今日も彼氏欲しさに合コンに勤しむ、結婚願望が強い女だった。
ある日の週末、合コンのメンツが茉穂に合わず、抜け出そうと考えていたのを、茉穂狙いの男から言い寄られ、困っていた所に助けに入ったのは、まさかの男。
同僚で根暗の印象の男、【暗雨】こと村雨 彬良。その彬良が会社での印象とは全く真逆の風貌で茉穂の前に現れ、茉穂を助けたのである………。
※♡話はHシーンです
※【Mにされた女はドS上司に翻弄される】のキャラを出してます。
※ これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。
※終了したら【プラトニックの恋が突然実ったら】を公開します。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
運命には間に合いますか?
入海月子
恋愛
スペイン建築が大好きな設計士
大橋優那(おおはし ゆな) 28歳
×
せっかちな空間デザイナー
守谷翔真(もりや しょうま) 33歳
優那はスペイン建築を学ぶという夢が実現するというときに、空間デザイナーの翔真と出会った。
せっかちな彼は出会って二日目で優那を口説いてくる。
翔真に惹かれながらも、スペインに行くことが決まっている優那はその気持ちに応えられないときっぱり告げた。
それでも、翔真はあきらめてくれない。
毎日のように熱く口説かれて、優那は――
溺愛のフリから2年後は。
橘しづき
恋愛
岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。
そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。
でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?
敏腕SEの優しすぎる無償の愛
春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した祭りは、雨の夜に終わりを願う。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる