セイレーンの家

まへばらよし

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第二章 松井卓朗

第四話 セイレーン

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 一週間後、卓朗は機中にいた。
 卓朗は、欧州へ出張中の同僚のアシストで現地に向かうことになった。椅子の修理の引き渡しの翌日、柊子と会う約束をしていたが、それのキャンセルの連絡を入れ、すぐに現地へ飛んだ。数日仕事に追われ、ようやく一息ついたというときに、現場の別の同僚に誘われて飲みにでかけた。
 連れていかれる途中で大きなクリスマスツリーを見かけた。そこかしこにかけてあるひいらぎのリースを見て、卓朗ははっと青くなった。
「Taku?」
「今日は何日だ?」
 仕事にかまけ、柊子のことをすっかり忘れていた。卓朗は、柊子に限らず、仕事に集中してしまうとこうなる。彼女のことに気を取られることを、少し鬱陶しいと思うときもあったくせに、仕事に集中し過ぎるこの性質が恨めしくなった。
 宿泊施設に戻って電話をかけようとし、時差を考えてやめた。
 翌日、昼の比較的明るい時間に、卓朗はツリーの写真を撮りに行き、その写真をメールの添付で柊子に送った。彼女の仕事用のアドレスに送ることに若干の後ろ暗さを覚えたが仕方がない。
 返事はなかった。

 帰国の途についているあいだ、卓朗はずっと柊子のことを考えていた。彼女は怒っているのだろうか。
 過去に同じように仕事に集中し過ぎて、そのときそのときに付き合っていた相手から、何度もどうしたのかと連絡されたことがあった。その過去の経験から、仕事中に連絡されるのも鬱陶しく、卓朗は柊子へ、自分から連絡すると予防線を張った。
 それを律儀に守ってくれているのか、それとも、もう彼女の中では終わったことになったのか。
 自分にはまだ椅子の依頼の件がある。それを頼りにするしかない。
 目を閉じ、柊子の姿を思い出そうとした。あの涼やかな姿を。身勝手極まりない考えだが、寂しがっていないかなど思ってしまった。
 世慣れていない、身の置き所にいつも困って、他人の──卓朗のエスコートを頼りにしている彼女。
 卓朗は内心自嘲した。何がエスコートだ。
 自惚れるのも大概にしろ。

 自分の考えが自惚れ以外のなにものでもなかったと分かったとき、やはり卓朗は身勝手にも怒りを抱えた。
 修理の椅子の納品の日、柊子は若い男を従えていた。柊子と会ったときに卓朗が常に感じていた、彼女の心細げな感じが、三柴貴久と名乗った男の隣では全くない。
 まるで卓朗の嫉妬を察したように、貴久はこれ見よがしに親しげな態度でいる。
「柊子ちゃん、どうする? 駐車場もあったし、検品終えるまで、俺も下で待ってることできるけど」
 耳を疑った。
 彼は柊子のことを、「柊子ちゃん」など呼んでいる。三十路を過ぎた女性が年下の他人にそのように呼ばせ、それをよしとしている姿は薄気味悪かった。
 彼女はそういう女性だったのかと思うと、がっかりなどせず怒りだけがあった。卓朗は、その怒りを隠すことができず、そのことでさらに苛立っている。
「柊子さんは俺が送り届けます」
 思わず口に出た言葉を、取り消すつもりはもちろんないものの、口調も顔も嫌悪を露わにして余裕が少ない自覚はある。そんな卓朗と反対に、「年下の」貴久が余裕綽々なのが悔しい。
「承知しました。それではお言葉に甘えまして私は先に失礼します。まあ、私にとっても柊子ちゃんは妹のように大事な子なんで、そこはよろしくお願いしますね」
 何が妹だ。ナイト気取りかと、言いたくなるのは堪えることができた。
 貴久が去り、柊子は戸惑いながらも部屋に上がってきた。卓朗は今になっていろいろ後悔した。一人暮らしの男の住まいに、お見合い中とはいえまだ親しいとも言えない女性を招くのは礼儀に反している。時はすでに遅く、柊子は冷静に椅子の説明を始めている。
 失態を恥じた。彼女に対し、全く普段通りにいれない自分にイライラする。それでも彼女の、歌うような説明に落ち着きを取り戻したような気になった。
 だが
「卓朗さん、何か怒っておられたようだったから」
 柊子にそれを指摘されてしまい、卓朗は逆上した。
 純粋な嫉妬の感情を爆発させて、八つ当たりしている。狂っていると言ってもいい。
「成人の女性が、赤の他人の男性にちゃん付けで呼ばれる不愉快さにあなたは気付かないんですか?」
「貴久さんが公的な場でああして発言して、卓朗さんが不愉快に思われたのなら謝ります」
 柊子が冷静そうに見えるのがさらに焦りを生じさせる。
「そうじゃない……いや、あなたがいいんでしたら、俺がどうこう言うのがおかしいんですけど……現にあなたは彼を貴久さんって呼ぶじゃないですか、くんではなくて」
 言いがかりも甚だしい。自分勝手だ。一見彼女の尊厳を守るようなことを言いながら、その実は独占したいだけだ。
 あなたを下の名で呼ぶのは、俺だけでいたい。嫉妬と怒りが混じり合い、その矛先を言葉だけでなく劣情という形で柊子に向けてしまいそうだ。
 冷静になれない。誰か止めてくれと言いたくなったとき、思いもしない相手から水を差し向けられた。
「どちらかというと貴久さんと私より、貴久さんの息子さんと私の方が年が近いから」
 いきなり軽く頬を叩かれたような気がした。
 ──むすこ?
「え? 息子の方が近い?」
「貴久さん、今年で四十六歳です。卓朗さんより一回り上ですよ。貴久さんのご長男は成人しています、というか、年が明けたら成人式です」
 もう一度、叩かれた。往復ビンタだ。
 年上。一回り上。
 嘘だろう?
 三柴貴久は茶色の髪で可愛い顔をしていた。正直ジャニーズでも意識しているのかと思っていた。ああそうだよ。今時のタレントのような垢抜けた外見なのに、卓朗より落ち着いた態度だったからカチンと来たんだよ。
「あ、いや……なんというか、その、すごい童顔、いや若く見えた……あ、それで大事な子」
 一回り上なら、普段そう呼んでいる理由も分からなくはない。
 そしてわざと卓朗の前でちゃん付けしたのだ。あれは挑発──いや、こちらが売った喧嘩をガッツリ買ってくれた上にチップまで弾んでくれた。大人の余裕というやつだ。
「貴久さんと会ったのは私が十五のときだったので、そこから貴久さんはずっと私のことを柊子ちゃんて呼んでいます。……まあもちろん、三十路を過ぎた人間に対しどうかと思われるのも分かります」
 さらに柊子からも強烈な駄目だし(しかも天然)を食らった。
 完全に、水を被った猫のようになった。
「済みません。納得できました。本当に失礼な真似を。申し訳ないです」
 卓朗の慌て振りを見て、柊子は許してくれたのか笑顔を見せてくれた。さらりと話題も変えてくる。
 大人になりきれていないのは自分だけらしい。
 柊子に促され、卓朗は、縋りたい気分で恩師の椅子に座った。
 懐の広い先生だった。尊敬していて、自分でも先生に懐いているという自覚があった。
 己には存在しなかった「父」を恩師に重ねていた。それを先生も、先生の奥方も受け入れてくれた。手元にあるのが辛いので譲りたいと仰っていたが、本当は、恩師の死に衝撃を受けていた自分への労りだったのかもしれない。
 彼の椅子に座ることで、彼に近づくことができればいいのにと思った。
 誰か、愛しているひとの支えになれるような。
 例えば、目の前に立ち、拙い自分との縁をまだ切らずにいてくれる彼女と、互いに支え合える対等な人間に。
 柊子は話をしながら、椅子を目で辿っていた。
 巨匠の作品を、最高級の逸品の価値を知って見ているというより、彼女にとって好ましいものを純粋に尊ぶ熱が目にある。視線だけで、彼女が愛しているものを見ているのだと分かる。
 卓朗は立ち上がった。
「柊子さん、座られます?」
 あれだけ熱弁したのだ、彼女も座りたいのではと思っての提案だった。ただ、もしかしたら修理の途中で座った可能性もあったなと、提案した後で思ったのだが、そうでもなかったようだ。
 柊子は犬であったら涎を垂らしているのではという目の輝きを見せた。
「いいんですか……!」
 柊子は早速腰掛けた。最初は緊張したのか、遠慮がちにちょこんと座っていたのだが、椅子の賛美を囁きながら背もたれに体を預けた。
 芸術品レベルの椅子というものは単体でも美しいが、やはり人が座ることが前提になっている。しなやかで美しい体が、洗練された椅子に調和している。
 こんなにも雰囲気を変えるのかと、卓朗は目を見張った。
 恩師が座っていたのを見ていたとき、この椅子には安定というイメージがあった。
 だが、柊子が腰掛けただけで、がらりと変わった。
 繊細、そして、儚い美。水の跳ね返りの一瞬を無理に留めたような不安定さ。
 水
 水の精。
 男を狂わせる、あの。

 空間が熱せられたようだ。水の精が儚く消えてしまうほどの荒々しいものが溢れる。
 それでも囲いたい。

 この空間ごと、全てを俺のものにできるなら、俺はどんなことでもしてやる。

「柊子さん。俺と結婚を前提にして付き合ってほしいです」
 卓朗は懇願をまくし立てていった。

 柊子は唖然としていた。当たり前だろう。だが卓朗の目の前で狼狽えつつも、叙情に表情を深くしていく。
 戸惑いから喜びへ。一生、覚えているに違いない、輝いた目と。
 歌う声を。
「信じられない」
 柊子は声を震わせ、目を潤ませた。
「あなたは、私の憧れの、雲の上のひとだったのよ?」
「そんな、……俺は神でも仙人でもない」
「卓朗さんはそれに等しい人です」
 仙人なものか。こんなにも執着しているのに。
「俺が仙人なら、あなたは……」

 こちらを神のように崇めながら、その潔白さで男を寄せ付けない壁を築く。
 それなのに、その壁を、彼女自身があっけなく越えてくる。そうして男を狂わせる。


 セイレーンだ。

 水に棲まい、歌を歌って、船乗りを──男を惑わす伝説のいきもの。
 ずっと、彼女は何かを彷彿とさせると思っていた。歌うように言葉を紡ぎ、水から出たばかりのように冷たい手をして、そして男を惑わす美しい女性。
 まるで、水の底から突如引き上げられ、戸惑っているかのようにふるまい、手を伸ばした卓朗の手を躊躇うことなく取り、そして引き入れる。

 柊子を送り届けたあと、卓朗は修理の終えた椅子に座った。思い出すのは恩師の姿でなく、ここに腰掛けていた柊子だった。
 あの姿ももう一度見たい。見るだけでない。自分のものにしたい。
 形あるもので残したい。例えば絵で。
 卓朗は鼻で笑った。随分とロマンチックな思考をしている。
 だが、自嘲するものの、想像は止まらず柊子の姿とギュスターヴ・モローの絵画が重なった。有名絵画と張り合うつもりかと、卓朗はますます苦笑するしかなかった。
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