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第二章 松井卓朗
第六話 夢に見る
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帰宅した卓朗の顔を見て、一度顔を綻ばせた柊子が、ふっと表情を消した。
卓朗はそれを目の当たりにし、なるほど、自分はよほど険しい顔をしているらしいと他人事のような感想を抱いた。ピリピリとした顔のままで食事をしている自覚もある。だが、自室に入ったときにはそれさえも忘れた。
卓朗は仕事に没頭していた。
翌朝、寝不足なのに妙に冴えている感覚がするままで、着替えて部屋を出た。柊子に朝の挨拶をした記憶はない。目の前にある食事を無言で食べ、卓朗は出社した。
朝にスケジュールの調整があった。そして、卓朗は福海とデザインを競うこととなった。
夜の九時、まだ会社にいたとき、携帯電話が点滅していることに気が付いた。三十分ほど前に柊子から連絡が入っていた。メッセージを打ち返すことが億劫だった。
帰宅し出迎えてきた柊子に、卓朗は少しの後ろめたさから、彼女がおかえりと言う前に言葉を発した。
「これからしばらく忙しいから、俺にはかまわないでくれ」
「はい」
柊子は従順にうなずき自室へ戻った。翌朝も、卓朗は無言で朝食をかっこんで出社した。柊子の顔は見ていない。
また遅くに帰宅して、マンションの部屋の鍵を開けた。室内は真っ暗だった。スイッチを入れ、怪訝に思いながら部屋に入る。柊子は眠っているのだろうかと思ったとき、テーブルの上にメモが置いてあるのに気が付いた。それを読んで、卓朗は思わず声を上げてしまった。
『しばらく叔母の家にいます。昼間にご飯の用意と掃除には帰ります。卓朗さんには会わないように気を付けます』
驚きのあとで、猛烈な怒りが湧いてきた。メモをくしゃくしゃに握りしめ、それをテーブルに叩き付けた。
こんな当てつけをするような女だったのかと思った。失望でなく、純粋な怒りしかなく、鎮めるのに苦労した。深呼吸を繰り返し、柊子に電話をかけたが、彼女は出なかった。
「くそ」
五年前、長く付き合っていた同じ歳の恋人と別れた。仕事に夢中になると一切連絡をしなくなる卓朗と、それまでもこのことについて喧嘩をしていた。別れるきっかけとなったのは彼女の「結婚相談所に登録しようかな」という、独り言にみせかけた最終通達だった。
もしかしたら彼女は賭けたのか、それともそのように言うことで卓朗の焦りを引き出したかったのか。真相は分からないままだ。卓朗がなら別れようと言ったからだ。
あのときも、今も、なぜ俺を放っておいてくれないのか、なぜ試すようなことをするのかという怒りで頭がいっぱいになっていた。
三十分ほど待ったが柊子からは連絡が返ってこない。少し冷静になり、そうなると徐々に心配になってきた。卓朗は迷った末に美晴に電話をかけた。彼女はすぐに出た。
『お久しぶり。さっき柊子の携帯が鳴ってたの、松井君だったのかしら』
「あ、え……お、お久しぶり、です」
『あの子、今お風呂に入ってるの。それより仕事、大変みたいね』
お風呂と聞いて安心したのと、美晴には親身に労られ、卓朗は毒気を抜かれた。
『分かるわ。集中したくなったら、人の動きにもイライラするものね。私もよく柊子に来るなって言ったものよ』
そういえば、以前にも卓朗は仕事にかまけ、柊子へ連絡を怠ったことがあった。柊子はあのとき、少なくとも表面上はケロっとしていて、叔母もそうなのと言っていた。
いざ同じ種の人間に同意されてみると、居たたまれないだけだった。
『なんていうか、気遣われるのが逆に鬱陶しいのよね。おまけに柊子はズレてるからよけいに』
卓朗はむっとして、思わず美晴に言い返してしまった。
「柊子は鬱陶しくなんてないですよ。あなたにしたら姪かもしれませんが、俺の妻なんです。愚弄しないで下さいませんか」
先ほどまであったもどかさしさと苛立ちもあって、勢いだけで発したそれを、卓朗は言った直後に後悔した。
電話の向こうで、沈黙のあと、ふっと鼻で嗤った音がした。
『私の姪を庇ってくれてありがとう。とーっても嬉しいわ。松井君にとってそんな大切なあの子が、どうして私のところに来てるのかしらねえ』
「申し訳」
ありません、の途中で電話は切れた。卓朗はしゃがみ込んで頭を抱えた。
柊子から連絡はなかった。
就寝の準備を終え、あとは自室に入ってベッドに入るだけになった。すでに日も越えていて、そろそろ眠らないと明日が辛い。
だが目が冴えていて、卓朗は寝付けなかった。起き上がり、柊子の部屋の戸の前で立った。半年前までは自分のテリトリーだったここが、今はそうではなくなっている。マナー違反だとは思いつつ、しかし彼女の残滓を求め、卓朗は柊子の部屋に入った。
相変わらず物が少なく、がらんとした空間だった。勝手な意見だが、おおよそ彼女らしくない部屋だ。
卓朗は部屋を一回り見て、ふと、彼女が「飼っている」オオサンショウウオのぬいぐるみがないことに気が付いた。
血の気が引いた。それから、あのぬいぐるみがないだけで動揺する自分がおかしいと言い聞かせた。しかし三十路を越えた女性が、ブランケット症候群よろしく、あのぬいぐるみを持って出ることこそおかしいのではとも思う。
柊子は帰ってくるのだろうか。そんな考えがよぎり、その不安を抱いたこと──抱かされたことに腹が立ち、卓朗は柊子の部屋を出た。
卓朗は完全に意地になっていた。仕事に集中し、デザインを仕上げた。こんな精神状態でいいデザインなどできるのかどうかも分からない。しかし辞退はしたくなかった。
ああして福海が言ったのは、もしかしてこうしてメンタル面でプレッシャーをかけて卓朗の足を引こうとしたのかと勘ぐったときもあった。
それはあり得ないと言い聞かせる。福海は、かつて卓朗が家族に裏切られ失意の底にあったときも、何も言わずに手を差し伸べてくれた。尊敬する先輩に、なんてことを考えるんだと己を責めた。
マンションに戻り、誰もいないリビングのソファにどかりと腰を下ろし、卓朗は項垂れた。
暑くなってきた季節に、人肌が恋しいなど思うのが不思議だった。
正しくは、柊子の存在が。
身勝手だと憤っている。自分も、柊子も、誰も彼も。世の中そんなもんだと割り切れるほど心に余裕もなかった。
テーブルの上にある、柊子のメモに目を通す。夕食が用意されていて、火を通せやレンジであたためろなど、いろいろ書いてある。しかし何もする気が起きず、卓朗はそれらを食べないままでシャワーを浴び、ベッドに入った。
翌朝、早朝に携帯電話のメッセージ着信音が鳴った。ぼやけた頭で聞き、柊子かもしれないと思ってそれを開いた。
送信元は従兄弟の田所だった。彼の息子の写真だった。卓朗が贈ったスタイを付けている。
卓朗はメッセージの返事を出せなかった。
頭が痛い。体も、節々が痛い。そもそも動かすことさえ面倒に感じた。
悪寒がする。
休日であるのをいいことに、二度寝をすることにした。従兄弟の赤ちゃんの写真で、卓朗は夢うつつに甥と姪を思い出していた。
あれから十年。それぞれ十四と十二になっているはずだ。もう幼児ではない。
あのときのような。
風邪だと思っていた。姉が、姪がかかったのはただの風邪だと言っていたからだ。その姪もほぼよくなって、病院に連れていくあいだ、下の甥の面倒をみてほしいと頼まれた。
それから少しあと、風邪のような症状が出た。高い熱が出て会社も休んだ。
そのあとだった。
信じたくなかった。場所が場所だけに、すぐに病院に行くのを躊躇ってしまった。職場で蹲り、福海が病院に連れていってくれた。
片側の睾丸で萎縮が確認された。担当の医師から、不妊とまではいかないが、精子の数は健康な男性に比べ少なくなっていると診断結果を聞いた。
義兄が頭を下げている、その後頭部を見ながら、何故この人が謝らねばならないのかと思っていた。この人も被害者のはずなのに。
ただ、ならば姉自らが土下座でもすれば気が済んだのかと聞かれても分からない。
母が連絡をしてきた。大変だったわねえと、一見労りのような言葉をかける。そこからじわじわと毒を注ぎ込んでくる。
お母さん、あなたのこどもができたら、お姉ちゃんのこどものこと愛せるか分からないって言っちゃったの。
あの子は、嫉妬しちゃっただけなの。
お母さん、悲しいわ。みんな、仲良くしてほしいだけなのに。
でも卓朗のことが一番可愛いから、仕方がないのよ。
まだ、親というだけで、血を分けた息子から無条件に愛されるとでも思っていたのか。そんな洗脳は昔に解けた。
あのときも熱を出した。
父がいなくなったとき、卓朗は四歳、姉は六歳だった。
母はヒステリックになっていた。姉も不安そうにしていて、卓朗はその余波を全て受け、体調を崩した。
その日、母が家政婦にリクエストした食事は、病人に相応しいものではなかった。吐いた息子に対し、母は苛立たしいとわめき散らした。
卓朗、あなた、どうして私を困らせるの?
追い出されたくなければ今すぐ元気になりなさい。
お母さん、ごめんなさいと、謝り続けた卓朗を母は無視し、彼女は自室に籠もった。
泣き続け、目を開けたとき、二歳上の姉もまた泣きながら卓朗の手を握っていた。
あのときは、まだ仲がよかった。いや、あのときが最後だったのだ。
苦しい。
あんな思いはもういやだ。
陥れられるのも。
それを操る人間が親だということも、全て無かったことにしたい。
額に冷たいものが触れた。水のようにひんやりとして心地がよかった。
水。
冷たい手。
現れた水の精。
俺のセイレーン。
「……とう、こ」
額に触れていたものが頬に、そして顎にも伝っていく。すべやかで、優しい感触だ。
ずっと待っていた。
卓朗が目を開けると、部屋は明るかった。部屋の時計を見ると正午前だった。
頭が痛い。気分も悪く吐き気がする。悪寒はなくなったが熱っぽい感じがした。額に手をやってみて、そこに何かが貼られているのに気付く。
保冷シートだ。自分で貼った記憶はない。ベッドサイドを見ると、ポカリスエットが置いてあった。それを見た瞬間、猛烈な渇きを覚え、キャップをひねってみた。未開封だったので、迷わず口をつけた。
五百のペットボトルは一瞬にしてなくなった。異様に美味しいと感じ、まだないだろうかと見回す。その音を聞きつけたのか、卓朗の部屋に人が入ってきた。
柊子だった。彼女は卓朗が空のペットボトルを持っているのを見た。
「まだ飲みたい?」
卓朗は驚きながらも無言でうなずいた。柊子はすぐにさらに二本のポカリスエットを持ってきた。
卓朗がそれをがぶがぶ飲んでいるのを、柊子は黙って見ていた。彼女は空のペットボトルを受け取って部屋を出て、体温計を持って戻ってきた。
「熱は測った?」
「いや」
「病院にいった?」
卓朗は無言で首を振った。手渡された体温計で熱を測ると、三十八度Cあった。
「病院に行くなら一緒に行くわ」
「いや、どうかな」
さっきまであった頭痛と吐き気は軽減していた。
「もう少し様子を見る」
「分かった。でも我慢しないで」
柊子は心配そうに卓朗を観察している。何か言ったほうがいいのかと思っていたとき、先に柊子が喋り始めた。
「アイスがあるの。ハーゲンダッツのバニラ。食べる?」
何をいきなりと思ったが、悪くない。むしろ食べたい気になってきた。柊子はすぐにアイスと匙を持ってきた。
アイスを食べるのは随分久しぶりだ。
「うまいな」
「そうなのね。よかった」
卓朗がアイスを食べ終えた頃に、柊子はマグを持ってきた。香ばしい香りがしている。
「あたたかいお茶よ。カフェインが入っていないから、悪くないと思うの」
言われればまた喉が渇いた感じがしていた。どちらかというとこれは甘いアイスを食べたせいだろう。卓朗はありがたくそれを受け取った。
「ゆっくり飲んで。全部飲めないなら、残してもいいから」
お茶は煎った黒豆のような味がした。結局全部飲んでしまい、空のマグは柊子に回収された。
「汗はかいた?」
「いや……」
「これからかしら。着替えなくてもいい?」
卓朗はうなずいた。
「お腹が減ったら言って。私の部屋か、リビングにいるから。携帯を鳴らしてくれてもいい」
柊子は無表情で、卓朗を覗き込むような仕草をしたあとに部屋を出た。
それから一眠りして、意味不明の変な夢を見て、目覚めたときには寝汗をかいていた。シャワーを浴びたくなって起き上がる。朝より体が楽になっていた。
部屋を出て風呂場で汗を流し、脱衣所の戸を開けるとすぐに柊子が立っていた。卓朗はたじろいで仰け反った。
「何か食べられそう? 雑炊とか、おかゆでも」
雑炊をリクエストすると、柊子はほっとした顔をしてすぐにキッチンへ入った。たまごとシラスの雑炊が出てきて、卓朗はそれをダイニングのテーブルで食べた。
「昨日の夕飯、ごめん」
リビングで乾いた洗濯物を畳んでいた柊子は、軽く首を振った。
「そんなこと気にしないでいいのよ」
言葉通り、弱った人間の世話をしたのは当然とばかりの、親切心に満ちた口調だ。
何故か、その寛容さが無性に腹立たしいと感じた。
「君は優しいな」
口調にあからさまな棘があった。柊子は手を止め、卓朗の方へ顔を向けてきた。
「クリエイターの我が儘なんぞ聞き慣れてるって感じだ」
柊子に静かに見つめられ益々苛立った。聞き分けのないこどもに対し、母親がいなしているような彼女の余裕が我慢ならない。
自分勝手極まりない感情だと分かっているのに、止められなかった。
卓朗はそれを目の当たりにし、なるほど、自分はよほど険しい顔をしているらしいと他人事のような感想を抱いた。ピリピリとした顔のままで食事をしている自覚もある。だが、自室に入ったときにはそれさえも忘れた。
卓朗は仕事に没頭していた。
翌朝、寝不足なのに妙に冴えている感覚がするままで、着替えて部屋を出た。柊子に朝の挨拶をした記憶はない。目の前にある食事を無言で食べ、卓朗は出社した。
朝にスケジュールの調整があった。そして、卓朗は福海とデザインを競うこととなった。
夜の九時、まだ会社にいたとき、携帯電話が点滅していることに気が付いた。三十分ほど前に柊子から連絡が入っていた。メッセージを打ち返すことが億劫だった。
帰宅し出迎えてきた柊子に、卓朗は少しの後ろめたさから、彼女がおかえりと言う前に言葉を発した。
「これからしばらく忙しいから、俺にはかまわないでくれ」
「はい」
柊子は従順にうなずき自室へ戻った。翌朝も、卓朗は無言で朝食をかっこんで出社した。柊子の顔は見ていない。
また遅くに帰宅して、マンションの部屋の鍵を開けた。室内は真っ暗だった。スイッチを入れ、怪訝に思いながら部屋に入る。柊子は眠っているのだろうかと思ったとき、テーブルの上にメモが置いてあるのに気が付いた。それを読んで、卓朗は思わず声を上げてしまった。
『しばらく叔母の家にいます。昼間にご飯の用意と掃除には帰ります。卓朗さんには会わないように気を付けます』
驚きのあとで、猛烈な怒りが湧いてきた。メモをくしゃくしゃに握りしめ、それをテーブルに叩き付けた。
こんな当てつけをするような女だったのかと思った。失望でなく、純粋な怒りしかなく、鎮めるのに苦労した。深呼吸を繰り返し、柊子に電話をかけたが、彼女は出なかった。
「くそ」
五年前、長く付き合っていた同じ歳の恋人と別れた。仕事に夢中になると一切連絡をしなくなる卓朗と、それまでもこのことについて喧嘩をしていた。別れるきっかけとなったのは彼女の「結婚相談所に登録しようかな」という、独り言にみせかけた最終通達だった。
もしかしたら彼女は賭けたのか、それともそのように言うことで卓朗の焦りを引き出したかったのか。真相は分からないままだ。卓朗がなら別れようと言ったからだ。
あのときも、今も、なぜ俺を放っておいてくれないのか、なぜ試すようなことをするのかという怒りで頭がいっぱいになっていた。
三十分ほど待ったが柊子からは連絡が返ってこない。少し冷静になり、そうなると徐々に心配になってきた。卓朗は迷った末に美晴に電話をかけた。彼女はすぐに出た。
『お久しぶり。さっき柊子の携帯が鳴ってたの、松井君だったのかしら』
「あ、え……お、お久しぶり、です」
『あの子、今お風呂に入ってるの。それより仕事、大変みたいね』
お風呂と聞いて安心したのと、美晴には親身に労られ、卓朗は毒気を抜かれた。
『分かるわ。集中したくなったら、人の動きにもイライラするものね。私もよく柊子に来るなって言ったものよ』
そういえば、以前にも卓朗は仕事にかまけ、柊子へ連絡を怠ったことがあった。柊子はあのとき、少なくとも表面上はケロっとしていて、叔母もそうなのと言っていた。
いざ同じ種の人間に同意されてみると、居たたまれないだけだった。
『なんていうか、気遣われるのが逆に鬱陶しいのよね。おまけに柊子はズレてるからよけいに』
卓朗はむっとして、思わず美晴に言い返してしまった。
「柊子は鬱陶しくなんてないですよ。あなたにしたら姪かもしれませんが、俺の妻なんです。愚弄しないで下さいませんか」
先ほどまであったもどかさしさと苛立ちもあって、勢いだけで発したそれを、卓朗は言った直後に後悔した。
電話の向こうで、沈黙のあと、ふっと鼻で嗤った音がした。
『私の姪を庇ってくれてありがとう。とーっても嬉しいわ。松井君にとってそんな大切なあの子が、どうして私のところに来てるのかしらねえ』
「申し訳」
ありません、の途中で電話は切れた。卓朗はしゃがみ込んで頭を抱えた。
柊子から連絡はなかった。
就寝の準備を終え、あとは自室に入ってベッドに入るだけになった。すでに日も越えていて、そろそろ眠らないと明日が辛い。
だが目が冴えていて、卓朗は寝付けなかった。起き上がり、柊子の部屋の戸の前で立った。半年前までは自分のテリトリーだったここが、今はそうではなくなっている。マナー違反だとは思いつつ、しかし彼女の残滓を求め、卓朗は柊子の部屋に入った。
相変わらず物が少なく、がらんとした空間だった。勝手な意見だが、おおよそ彼女らしくない部屋だ。
卓朗は部屋を一回り見て、ふと、彼女が「飼っている」オオサンショウウオのぬいぐるみがないことに気が付いた。
血の気が引いた。それから、あのぬいぐるみがないだけで動揺する自分がおかしいと言い聞かせた。しかし三十路を越えた女性が、ブランケット症候群よろしく、あのぬいぐるみを持って出ることこそおかしいのではとも思う。
柊子は帰ってくるのだろうか。そんな考えがよぎり、その不安を抱いたこと──抱かされたことに腹が立ち、卓朗は柊子の部屋を出た。
卓朗は完全に意地になっていた。仕事に集中し、デザインを仕上げた。こんな精神状態でいいデザインなどできるのかどうかも分からない。しかし辞退はしたくなかった。
ああして福海が言ったのは、もしかしてこうしてメンタル面でプレッシャーをかけて卓朗の足を引こうとしたのかと勘ぐったときもあった。
それはあり得ないと言い聞かせる。福海は、かつて卓朗が家族に裏切られ失意の底にあったときも、何も言わずに手を差し伸べてくれた。尊敬する先輩に、なんてことを考えるんだと己を責めた。
マンションに戻り、誰もいないリビングのソファにどかりと腰を下ろし、卓朗は項垂れた。
暑くなってきた季節に、人肌が恋しいなど思うのが不思議だった。
正しくは、柊子の存在が。
身勝手だと憤っている。自分も、柊子も、誰も彼も。世の中そんなもんだと割り切れるほど心に余裕もなかった。
テーブルの上にある、柊子のメモに目を通す。夕食が用意されていて、火を通せやレンジであたためろなど、いろいろ書いてある。しかし何もする気が起きず、卓朗はそれらを食べないままでシャワーを浴び、ベッドに入った。
翌朝、早朝に携帯電話のメッセージ着信音が鳴った。ぼやけた頭で聞き、柊子かもしれないと思ってそれを開いた。
送信元は従兄弟の田所だった。彼の息子の写真だった。卓朗が贈ったスタイを付けている。
卓朗はメッセージの返事を出せなかった。
頭が痛い。体も、節々が痛い。そもそも動かすことさえ面倒に感じた。
悪寒がする。
休日であるのをいいことに、二度寝をすることにした。従兄弟の赤ちゃんの写真で、卓朗は夢うつつに甥と姪を思い出していた。
あれから十年。それぞれ十四と十二になっているはずだ。もう幼児ではない。
あのときのような。
風邪だと思っていた。姉が、姪がかかったのはただの風邪だと言っていたからだ。その姪もほぼよくなって、病院に連れていくあいだ、下の甥の面倒をみてほしいと頼まれた。
それから少しあと、風邪のような症状が出た。高い熱が出て会社も休んだ。
そのあとだった。
信じたくなかった。場所が場所だけに、すぐに病院に行くのを躊躇ってしまった。職場で蹲り、福海が病院に連れていってくれた。
片側の睾丸で萎縮が確認された。担当の医師から、不妊とまではいかないが、精子の数は健康な男性に比べ少なくなっていると診断結果を聞いた。
義兄が頭を下げている、その後頭部を見ながら、何故この人が謝らねばならないのかと思っていた。この人も被害者のはずなのに。
ただ、ならば姉自らが土下座でもすれば気が済んだのかと聞かれても分からない。
母が連絡をしてきた。大変だったわねえと、一見労りのような言葉をかける。そこからじわじわと毒を注ぎ込んでくる。
お母さん、あなたのこどもができたら、お姉ちゃんのこどものこと愛せるか分からないって言っちゃったの。
あの子は、嫉妬しちゃっただけなの。
お母さん、悲しいわ。みんな、仲良くしてほしいだけなのに。
でも卓朗のことが一番可愛いから、仕方がないのよ。
まだ、親というだけで、血を分けた息子から無条件に愛されるとでも思っていたのか。そんな洗脳は昔に解けた。
あのときも熱を出した。
父がいなくなったとき、卓朗は四歳、姉は六歳だった。
母はヒステリックになっていた。姉も不安そうにしていて、卓朗はその余波を全て受け、体調を崩した。
その日、母が家政婦にリクエストした食事は、病人に相応しいものではなかった。吐いた息子に対し、母は苛立たしいとわめき散らした。
卓朗、あなた、どうして私を困らせるの?
追い出されたくなければ今すぐ元気になりなさい。
お母さん、ごめんなさいと、謝り続けた卓朗を母は無視し、彼女は自室に籠もった。
泣き続け、目を開けたとき、二歳上の姉もまた泣きながら卓朗の手を握っていた。
あのときは、まだ仲がよかった。いや、あのときが最後だったのだ。
苦しい。
あんな思いはもういやだ。
陥れられるのも。
それを操る人間が親だということも、全て無かったことにしたい。
額に冷たいものが触れた。水のようにひんやりとして心地がよかった。
水。
冷たい手。
現れた水の精。
俺のセイレーン。
「……とう、こ」
額に触れていたものが頬に、そして顎にも伝っていく。すべやかで、優しい感触だ。
ずっと待っていた。
卓朗が目を開けると、部屋は明るかった。部屋の時計を見ると正午前だった。
頭が痛い。気分も悪く吐き気がする。悪寒はなくなったが熱っぽい感じがした。額に手をやってみて、そこに何かが貼られているのに気付く。
保冷シートだ。自分で貼った記憶はない。ベッドサイドを見ると、ポカリスエットが置いてあった。それを見た瞬間、猛烈な渇きを覚え、キャップをひねってみた。未開封だったので、迷わず口をつけた。
五百のペットボトルは一瞬にしてなくなった。異様に美味しいと感じ、まだないだろうかと見回す。その音を聞きつけたのか、卓朗の部屋に人が入ってきた。
柊子だった。彼女は卓朗が空のペットボトルを持っているのを見た。
「まだ飲みたい?」
卓朗は驚きながらも無言でうなずいた。柊子はすぐにさらに二本のポカリスエットを持ってきた。
卓朗がそれをがぶがぶ飲んでいるのを、柊子は黙って見ていた。彼女は空のペットボトルを受け取って部屋を出て、体温計を持って戻ってきた。
「熱は測った?」
「いや」
「病院にいった?」
卓朗は無言で首を振った。手渡された体温計で熱を測ると、三十八度Cあった。
「病院に行くなら一緒に行くわ」
「いや、どうかな」
さっきまであった頭痛と吐き気は軽減していた。
「もう少し様子を見る」
「分かった。でも我慢しないで」
柊子は心配そうに卓朗を観察している。何か言ったほうがいいのかと思っていたとき、先に柊子が喋り始めた。
「アイスがあるの。ハーゲンダッツのバニラ。食べる?」
何をいきなりと思ったが、悪くない。むしろ食べたい気になってきた。柊子はすぐにアイスと匙を持ってきた。
アイスを食べるのは随分久しぶりだ。
「うまいな」
「そうなのね。よかった」
卓朗がアイスを食べ終えた頃に、柊子はマグを持ってきた。香ばしい香りがしている。
「あたたかいお茶よ。カフェインが入っていないから、悪くないと思うの」
言われればまた喉が渇いた感じがしていた。どちらかというとこれは甘いアイスを食べたせいだろう。卓朗はありがたくそれを受け取った。
「ゆっくり飲んで。全部飲めないなら、残してもいいから」
お茶は煎った黒豆のような味がした。結局全部飲んでしまい、空のマグは柊子に回収された。
「汗はかいた?」
「いや……」
「これからかしら。着替えなくてもいい?」
卓朗はうなずいた。
「お腹が減ったら言って。私の部屋か、リビングにいるから。携帯を鳴らしてくれてもいい」
柊子は無表情で、卓朗を覗き込むような仕草をしたあとに部屋を出た。
それから一眠りして、意味不明の変な夢を見て、目覚めたときには寝汗をかいていた。シャワーを浴びたくなって起き上がる。朝より体が楽になっていた。
部屋を出て風呂場で汗を流し、脱衣所の戸を開けるとすぐに柊子が立っていた。卓朗はたじろいで仰け反った。
「何か食べられそう? 雑炊とか、おかゆでも」
雑炊をリクエストすると、柊子はほっとした顔をしてすぐにキッチンへ入った。たまごとシラスの雑炊が出てきて、卓朗はそれをダイニングのテーブルで食べた。
「昨日の夕飯、ごめん」
リビングで乾いた洗濯物を畳んでいた柊子は、軽く首を振った。
「そんなこと気にしないでいいのよ」
言葉通り、弱った人間の世話をしたのは当然とばかりの、親切心に満ちた口調だ。
何故か、その寛容さが無性に腹立たしいと感じた。
「君は優しいな」
口調にあからさまな棘があった。柊子は手を止め、卓朗の方へ顔を向けてきた。
「クリエイターの我が儘なんぞ聞き慣れてるって感じだ」
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